第10話 大きくなる我が子
「テレビ」
俺はリビングのテレビを指さして、はっきりと発音した。
「テ、レ、ビ」
「ぱぱ」
片腕に抱いた心結が、即座に答えた。ゴーグルの青い光が、嬉しそうにまんまるくなる。
……嚙み合っていない。
いや、待て。落ち着け。まだ一回目だ。世の中の赤ん坊だって、最初から言葉が通じるわけがない。根気だ。育児は根気だと、どこかで読んだ気がする。
「よし、もう一回だ。あれは、テレビ。パパがニュースを見る、テレビ」
「ぱぱ」
「惜しい。……いや、惜しくもないな。かすってすらいない」
「ぱぱ」
……ふむ。
昨日、この子は俺を「ぱぱ」と呼んだ。
生まれてこのかた、鳴き声と電子音しか発してこなかったこいつが、初めて人の言葉を口にしたのだ。
あのときのことを思い出すと、今でも――いや、その話はもういい。とにかく、この子は喋れるとわかった。
喋れるなら、教えたくなるのが親心というものだろう。
テレビが言えたなら、次は冷蔵庫。そのうち「おはよう」「いってきます」――気の早い話だが、俺は職場へ送り出される朝を、勝手に思い描いていた。
だから、休日出勤のあとの月曜の仕事から帰ってくるなり、俺は風呂も後回しにして、こうして言葉の特訓に励んでいるというわけだ。
……もっとも、結果はご覧の通りである。
俺は心結を抱え直し、キッチンへ移った。
大きな白い箱の前に立つ。
「これは、冷蔵庫。冷たいものが入ってる、冷蔵庫だぞ」
「ぱぱ」
「じゃあ、こっちは」
俺は隣を指さす。
「電子レンジ。チンする、レンジだ。便利だぞ」
「ぱぱ」
「……その隣の、炊飯器は――」
「ぱぱ」
…………。
どうやらこの家の家電は、一台残らず「ぱぱ」という名前らしい。
俺は心結を抱えたまま、リビングへ引き返した。
やり方を変えたほうがいいかもしれない。
今度は、一番大事なものを教えよう。
腕の中の、心結自身を指さす。
「み、ゆ。お前の名前だ。心結。……みゆ、だぞ」
我ながら、いい名前をつけたと思う。血は繋がっていないが、心は結ばれていると信じて――まあ、その話もいい。
「みゆ。言ってごらん。みゆ」
「ぱぱ」
…………。
自分の名前すら、ぱぱに変換されてしまった。
「ぴゅい♪」
ついでに、ご機嫌な電子音まで添えてくる始末である。
俺は天を仰いだ。
どうやらこの子の語彙は、現在ただ一語。「ぱぱ」のみ。それも、この世のありとあらゆるものが「ぱぱ」へと集約される、恐るべき一極集中ぶりだった。
テレビも、冷蔵庫も、自分の名前も、何もかもが、ぱぱ。
……いや、待てよ。
これは、あれか。
何を指さしても、何を教えても、返ってくる言葉が「ぱぱ」だけというのは。
つまり、この子の頭の中は、今――
「……そんなに、パパのことが好きなのか。心結は」
言ってから、しまったと思った。
誰も聞いていないとはいえ、いい歳をした男が、家じゅうの家電を抱いて回った挙句、鼻の下を伸ばして何を言っているんだ。みっともない。
みっともないのだが――
「ぱぱ」
もう一度そう呼ばれて、俺はもうだめだった。
気づいたら、心結を両手で高々と抱え上げていた。
「そうかそうか、パパが好きか。よし、高い高いだ。そーれ」
「ぱぱ♪」
ゴーグルの青い光が、きゃっきゃと笑うように瞬く。ウサ耳がぴんと立って、嬉しそうに揺れた。
……言葉を教えるつもりが、教育もへったくれもあったものじゃない。
だが、まあいい。冷蔵庫もレンジも、また今度でいい。今日のところは、この一語でじゅうぶんだ。
俺はしばらく、ご機嫌な我が子を飽きもせず抱き上げていた。
その二日後の朝。目を覚ますと、腕が重かった。特に、左腕は鉛のようだ。
いや、腕だけじゃない。肩も背中も、じんわりと痛む。まるで、慣れない力仕事でもしたあとのようだ。
なんだ、これは。
風邪か? いや、熱はない。ぎっくり腰の前兆か? ……四十二歳。あり得ない話ではないのが、我ながら悲しい。
妙なのは、昨日――火曜は、なんともなかったことだ。
布団の中でしばらくうなって、ようやく思い当たった。
あの晩だ。月曜の夜、俺は延々と心結を抱えて回っていた。片腕で支えたまま、家じゅうを何度も。
……いやいや。抱っこなんて、毎日している。今さらこの程度で筋肉痛になるほど、やわじゃない――つもりだった。
だいたい、生まれたばかりの赤ん坊を抱いたくらいで、こんなに……。
そこまで考えて、俺の思考が、ことん、と止まった。
……生まれたばかり?
俺はのっそりと起き上がり、痛む体を引きずって、ベビーベッドを覗き込む。
心結はすやすやと――ロボに睡眠があるのかは、いまだに謎だが――とにかく静かに、目のディスプレイを暗くして、横たわっていた。
その姿を、改めてしげしげと見つめる。
……大きくないか?
こうして距離を置いて眺めると、以前より一回りは大きくなっている気がする。
こういうとき、気のせいで済ませられない性分なのが、我ながら厄介だ。
俺は棚から母子手帳を引っ張り出した。生まれたときの記録が、そこに書いてある。身長と体重。病院で測ってもらった、この子の一番最初の数字だ。
それから、まだ眠る心結をそっと抱き上げ、そのまま洗面所の体重計に乗った。表示された数字から、自分の体重を引く。几帳面な性分がこういうときにだけ役に立つ。
母子手帳の数字と見比べる。
……増えている。
はっきりと増えている。
念のため巻き尺で身長をざっくり測ってみたが、生まれたときより確かに大きくなっている。
俺は、しばらく言葉を失っていた。
当たり前のことなのに、俺は今の今までまるで気づいていなかった。この子は頭の中だけ育っていたわけじゃない。体もちゃんと大きくなっていたのだ。
毎日すぐそばで抱いていたから、かえって見えなかった。俺の腕のほうが、俺より先にそれを知っていたわけだ。
「……灯油だけしか、飲ませてなかったのにな」
思わずそう呟いていた。
粉ミルクを顔面に噴き出され、途方に暮れたあの夜から、俺がこの子に与えてきたものといえば、灯油だけ。ただの灯油だ。それだけで、この子はこんなに大きくなった。
……いや、待て。よく考えたら、おかしくないか。
灯油だぞ。ファンヒーターに入れる、あの灯油。あれがいったいどうやったら、金属の体を大きくするというんだ。栄養も、カルシウムも、何も――
と、そこまで考えて、俺は小さく首を振った。
やめておこう。
考え出したら、きりがない。この子がどういう仕組みで動いて、どうやって大きくなるのか。そんなことは、たぶん、俺の頭では一生かかってもわからない。
わからなくていい。
大事なのはそこじゃない。
この子が大きくなってくれた。俺の灯油で、俺の腕の中で、ちゃんと育ってくれている。
それ以上に、いったい何を望むというんだ。
「ぱぱ」
腕の中で、心結が目を覚まして俺を見上げた。青い光がまんまるくなる。
「……ああ。おはよう、心結」
まったく。今日もその一語か。
だが、こうして毎日「ぱぱ」と呼ばれるのは悪くない。全然、悪くない。
もっもと、この分だと、そのうち抱きかかえるのも一苦労になりそうだが。
……とりあえず今日は、湿布を買って帰るところからだな。




