第11話 可愛いと言われる我が子
あれから、何日か経った。
左腕の筋肉痛は、湿布のおかげか、ただの時間のおかげか、いつのまにか引いていた。
よく晴れた休みの日の午前。俺はまた、ベビーカーを押してあの公園へ向かっていた。
……いや。我ながら、少し意外だった。
あんなみっともない大失敗をやらかした場所に、よくもまあ、のこのこ戻る気になったものだ。
そう思う一方で、不思議と足はちっとも重くなかった。
この間は、家を出る前からやたらと気負っていた。
誰になにを言われても娘だと言い切れる父親になる、だの。
世間の風にあてて初めて本物だ、だの。
今にして思えば、ずいぶんと肩に力の入った理屈をこねくり回していたものだ。
それが、今日はどうだ。
朝、心結を灯油で満タンにして、窓の外の天気がよかったからか、ベビーカーに乗せてなんとなく出てきた。
ただそれだけだ。大層な理屈なんぞ、どこにもない。
気負いが抜けていた。いつのまに抜けたのかは、自分でもわからない。
……まあ、心当たりがまるでない、わけでもないが。
――ぱぱ、と。あの夜、呼ばれてからか。
……いや、よそう。思い出すと、また締まらない顔になる。
公園はこの間と同じように賑わっていた。
若い父親たち。軽い身のこなし。肩車。ボール。
顔ぶれこそ違えど、光景はそっくりそのままだ。
その真ん中に、四十二歳、頭頂部の心もとない男が、ベビーカーを一台押して突っ立っている。
……その場違いっぷりまで、そっくりそのままだ。
この間の俺なら、この時点でもうたじろいでいた。
だが、今日は……まあ、場違いは場違いだ。それは認める。認めるが、それがどうした、という気もする。
俺は、俺の娘を散歩に連れてきた。ただ、それだけのことだろう。
この間と同じベンチの端に腰を下ろす。心結のベビーカーを、そっと脇に寄せて。
同じ場所だ。同じ賑わい。同じ場違い。
なのに、この間の、あのじりじりと神経がすり減っていくような感じが、今日はしない。
おかしなものだ。景色はなにひとつ変わっちゃいないのに。変わったのは、せいぜい俺の、腹の据わり方くらいのものなのに。
……まあ、いい。理屈はどうでも。
しばらくして、隣のベンチに、若い父親が一人、ベビーカーを押してきて腰を下ろした。人の好さそうな顔をしている。
……この間の俺なら、ここで必死に話しかけていただろう。パパ友を作らねばと、面接みたいな声を出して。
だけど、今日はその気も起きなかった。
……作れたら作ればいい。作れなくても、それはそれだ。
そのくらいの気楽な心持ちで、ただ座っていた。
と、向こうからひょいと覗いてきた。俺のベビーカーの中を。
……来たな。この間のあれだ。俺は身構えた。あの貼りついた笑顔が凍りつく瞬間を。憐れむような目に変わっていく、あの瞬間を。
だが、父親は心結を見て……ほんの少し目を丸くした。それから、ふ、と当たり障りのない苦笑いのようなものを浮かべて――
「……個性的な、お子さんですね」
そう言うと、視線をするりと自分のベビーカーのほうへ戻した。それきり、だった。
……ふん。個性的、ときたか。
まあ、そうだろうな。
金属の丸っこい体に、ウサギの耳を生やした赤ん坊を見て、「可愛いですね」と心から言える人間なんぞ、そうそういない。
「個性的」でやんわりお茶を濁して、そっと目をそらす。それが、まあ関の山、というものだ。
……やっぱり、こんなもんか。
わかっていた。わかっていたんだ。
誰にでもあっさりと娘だと認めてもらえるようなら、この子の子育ては、はなからこんなに難儀じゃない。
けれども、この間ほどには、こたえなかった。
少なくとも、憐れみの目じゃなかっただけ上出来だ。
それに、だ。この間と違って、俺は心結に、なにかをやらせようとはしなかった。ほら、生きてるんです、と、この子を他人の前に差し出すような。……あの、みっともない真似は、もうしない。
この子は見世物じゃない。俺の娘だ。
それをいちいち、他人に証明してみせてやる義理なんて、どこにもありはしない。
ほどなく、その父親はベビーカーを押して立ち去っていった。
俺は引き止めもせず、その背中を見送った。
この間なら、こうはいかなかっただろうな。
――と。ぱたぱたと小さな足音が、こちらへ近づいてきた。
見ると、女の子だった。四つか、五つか。近くで遊んでいたのが、ふらりと迷い込んできたらしい。
その子は、俺のベビーカーの脇にちょこんとしゃがみ込むと。……なんのためらいもなく、ひょいと中を覗き込んだ。
「……赤ちゃん?」
……あ。
俺は、とっさに身構えた。
子供は大人よりずっと正直だ。正直で、そのぶん容赦がない。
この、変てこな金属の塊を見て、なにこれと大声を上げるかもしれない。気味悪がって、泣き出すかもしれない。
……驚かせて、ごめんな。これは、な。パパの――
しかし、俺のその言葉より先に、女の子が、にっ、と笑った。なんの裏も表もない。ただ、まんまるの笑顔で、まっすぐに俺のほうを見上げて。
「かわいい赤ちゃんだね!」
…………。
そう言うと、女の子は、それだけですっかり満足したように、ぱっと立ち上がって、「ばいばーい」と小さな手をぶんぶん振って、元の遊び場のほうへ、たたたっと駆けていってしまった。
あとには、俺とベビーカーの中の心結だけが、ぽつんと残された。
……可愛い赤ちゃん。この間もこの公園で、俺は同じ言葉を聞いた。……いや。同じ言葉のはずが、まるで別のものだった。
あのときのそれは、慎重に、慎重に選び抜かれた、優しさの皮をかぶっていた。触れてはいけないものに、そっと蓋をするような、憐れみの言葉だった。
……だが、今のは違う。なんの皮も、蓋もない。ただ、目に映ったものを、そのまんま口にしただけ。可愛い赤ちゃんがいる。だから、可愛い赤ちゃんだね、と。それだけのことだ。
あの子には、きっと誰も教えなかったんだろう。これは金属だとか、ロボットだとか、気味が悪いとか。
そういう余計な物差しを、まだひとつも握っちゃいない。だから、あの子の目には、ただ、可愛い赤ちゃんとして映った。それだけなんだ。
――そうか。そう、見えるのか。
俺は、駆けていくその小さな背中に向かって、気づいたら口を開いていた。
「……ありがとう」
声はたぶん届かなかった。女の子は振り返りもせず、砂場のほうへ駆け込んでいった。
礼を言われる筋合いなんて、あの子にはこれっぽっちもないだろう。ただ、思ったことを、そのまま口にしただけ、なんだから。
それでも俺は、あの背中に言わずにはいられなかった。
ベビーカーの中で、心結がウサ耳を、ぴんと立てた。青い光をまんまるに灯して、こちらを見上げてくる。
「ぱぱ」
……ああ。相変わらず、その一語か。
俺は日よけを少し下ろしてやった。日がずいぶん高い。
そろそろ、帰って灯油でも足してやるとするか。
立ち上がって、ベビーカーを押し出す。
この子も、この間よりいくらか重くなった。押し出す腕に、ずしりと伝わってくる。
パパ友は、今日もできなかった。個性的だと笑われもした。
……けれど。俺は、ベビーカーの中の丸くて硬い頭を、指先で、こつんと小突いた。
「……俺の公園デビュー二日目は、大失敗ではなかったよ」
心結は、そんな俺を見上げて、「ぱぱ♪」ともう一度、上機嫌に俺を呼んだ。




