第12話 世話される我が子
目が覚めた時点で、これはまずいと分かった。
頭の芯が熱を持ち、瞼が重い。体温計を脇に挟んでしばらく待つ。
ぴっぴっという電子音が聞こえたので体温計を確認すると、三十八・五度。関節の節々が鈍く痛むのもそのはずだ。
よりによって平日か、と思いながら枕元の時計を見た。
六時半。始業は八時半、職場までは車で十分。
十分間に合う。這うようにして起き上がった。
几帳面と言われれば否定はしないが、要するに休むのが怖いだけだ。係長が体調管理もできずに穴を空けたとなれば、あとで自分の胃が持たない。
行けなくはない。そう言い聞かせて、台所へ向かった。自分の朝飯より先に、やっておくことがある。
奥のベビーベッドの中で、心結がこちらに気づいた。ウサ耳がぴんと立ち、ゴーグルの青い光がまんまるくなる。
「ぴゅい」
心結の食事だ。哺乳瓶を手にポリタンクに向かい、灯油を注ぎ込む。ふらつく手での作業は、いつもの倍は手間取った。それでも、これだけは抜かせない。
心結は嬉しそうに哺乳瓶の乳首をくわえ、こくこくと喉を鳴らす。喉の構造は不明だが、そういう音がする。
満タンにしておけば半日はもつ。夜まではもつ計算だ。
「……行ってくる。おとなしくしてるんだぞ」
ふらふらしながらなんとか身支度を整えたあと、いつものようにベビーベッドを覗き込んで声をかけた。
「ぱぱ」
小さな五本の指をにぎにぎと動かした。たったそれだけで、置いていく足がやけに重くなる。
靴を履いて、玄関のドアを開けた。外の光が目の奥に刺さる。
一歩踏み出したところで、足がもつれた。膝が言うことを聞かない。
座り込んで、しばらく息を整える。
認めたくはなかったが、この体で車のハンドルを握るほうが、よほど無責任だった。
家の中に戻り、職場に電話を入れた。
課長は、「ああ珍しいなゆっくり休め。こっちは何とかする」とあっさり受けて、最後にお大事にと一言添えて切れた。
悪い人ではない。ただ、三年で異動していく間柄の親切は、そういう温度だ。
子供のことに関しては一言もなかった。愚痴を言うつもりはない。他人の子供なんてそんなもんだ。
薬を飲んで寝てしまえば治る。明日には出られるだろう。そう決めて、布団にもぐり込んだ。
昼を過ぎても、熱は下がるどころか上がる一方だった。このまま寝ていて引くとは思えなくなってくる。
明日まで休むわけにはいかない。ならば、と重い体を引きずって、近所のかかりつけ医院へ向かった。
子供の頃から世話になっている、古い個人医院だ。歩いて行ける距離にあるのが、こういうときはありがたい。
病院では、喉を診られ、聴診器を当てられて、ものの数分で終わった。
流行りの風邪でしょう、と医者は言う。
処方箋を持って、外の薬局で薬を受け取る。
それだけで、もう精一杯だった。
薬さえ手に入れば、あとは帰って寝るだけだ。そう思っていた帰り道、張っていた糸がふっとゆるんだ。
家まではあと少し。なのに、その「あと少し」が急に遠くなった。
陽射しがやたらとまぶしい。足がもつれ、視界が白くにじむ。塀に手をついて、そのままずるずると道端にしゃがみ込んだ。
人が通り過ぎていく。買い物袋を提げた主婦が、こちらをちらと見て目を逸らし、足を速めた。自転車の学生が、避けるように車道側へ膨らんで抜けていく。関われば責任を負う。誰だってそうだ。責める気にもならなかった。
どれくらい、そうしていたか。頭の上から、声が降ってきた。
「……大丈夫ですか?」
女の声だった。知らないはずなのに、なぜか耳の奥に引っかかる。だが、それが誰なのか、像を結ばない。逆光で顔もよく見えなかった。誰であれ、今はどうでもよかった。かすれた声を、なんとか押し出す。
「……大丈夫です。病院の、帰りですから」
「とても大丈夫そうには見えませんけど。……肩、貸します」
有無を言わさず、細い肩が脇の下に差し込まれる。
体が引き起こされた。俺の手から落ちた薬局の袋を、女が拾い上げる。
他人にここまでされる筋合いはないと思うのに、振りほどく力も残っていない。
「家はこのへんですか?」
「……そこを、右。……次の、角を……」
「はいはい」
女が歩き出したので、運ばれるまま足を前に出すしかなかった。
どれだけ運ばれたのか、よく覚えていない。気づくと、見慣れた我が家の前に立っていた。
女がふと足を止めて、家を見上げる。
「立派な家だね。建てたんだ」
どこか懐かしそうな声だった。返事をしようとしたが、口が回らない。
鍵はかろうじて自分で開けた。玄関を上がったところで、なんとか声を絞る。世話になった礼くらいは言わなければ。あとは一人で、と。
「……ここまでで、大丈夫です。ありがとう、ございます」
「もう、しょうがないな」
女はそれだけ言って、肩を貸したまま靴を脱いだ。
俺の言葉など、はなから聞く気はないらしい。
抗う間もなく、体は廊下を運ばれていく。力はもうどこにも残っていなかった。
リビングに入ると、布団が朝起きた状態のままで広がっていた。心結が家に来てからは、寝室ではなくここで寝ている。毎朝、起きてすぐ畳んでいたが、さすがに今日はその体力がなかった。
「このお布団でいい?」
「……はい」
情けないことだが、女の手を借りて布団に横になる。
ようやく息がつけた。天井がぐるりと回り、少しずつ止まっていく。
熱は相変わらず高いようだが、道端でしゃがみ込んでいたときよりは、頭がいくらかはっきりしてきた。
ただ、体に力が入らない。
「ななさん、何か食べた? こういうときこそ、栄養を取らなきゃだめだよ。何か作ろうか?」
その響きに、ふと何かが触れた気がした。だが、それより先に、頼まなければならないことがあった。喉に力を込め、なんとか声を押し出す。
「先に心結に……飲ませてやってくれ」
「心結……?」
「俺の……娘。まだ、赤ん坊なんだ」
「わかった、任せて。子育ての経験はないけど、飲ませるくらいはできるよ。ななさんは休んでて」
立ち上がりかけた女に、もう一度声をかける。
「……灯油。灯油を、飲ませてやってくれ」
「灯油?」
女は立ち上がると、困ったように笑った。その拍子に、独り言のような呟きが漏れる。
「もう、熱でおかしなこと口走って。……昔から、自分のことは後回しにして、無理ばっかりして」
昔から、と。その言葉だけが、妙に胸に残った。
女は台所でコップに水を汲むと、薬局の袋から取り出した薬とともにお盆にのせ、枕元に黙って置いた。
それから奥のベビーベッドへ歩いていく。
……あ。
熱のせいか、大事なことを忘れていた。
俺の娘はロボだった。ベビーベッドに眠るロボの赤ん坊を見たら、この女はどう思う?
悲鳴を上げられたり、頭のおかしな男だと思われたりするだけならまだいい。パニックになって警察にでも電話されたら、いろいろと面倒になりそうだ。
俺の不安になどまったく気づかない女が、ベビーベッドを覗き込み、そこでぴたりと固まった。
息を呑む気配がする。あの姿を見れば、誰だって固まる。
だが女は、悲鳴も上げなければ、逃げもしなかった。柵の向こうで、心結が小さな手を動かした。
初めての相手に怯えるでもなく、ゴーグルの青い光をまんまるにして、ウサ耳を持ち上げている。
「ぱぱ」
「……そっか」
ここからは、女の背中しか見えない。俺の娘を見てどんな顔をしているのか。
公園で凍りついた、あの父親の顔がふとよぎった。
「心結ちゃんっていうんだね」
女の手が、そっと柵の中へ伸びた。躊躇いは見られなかった。光沢のある丸い頭を、指先で撫でる。
心結が青い光をいっそうまん丸にした。ウサ耳がぴんと持ち上がる。
「ぴゅい♪」
嬉しいときの声だ。詰めていた息が、ゆっくりとほどけていく。
残った力をかき集め、なんとか半身を起こした。
今の俺は親だ。寝込んでばかりもいられない。熱を下げておかないと、この子の世話もできやしない。
熱冷ましだけを一錠、水で流し込む。それだけのことで、こめかみを汗が伝う。なけなしの力の、最後のひと欠片まで、そこに置いてきた気がした。食後の薬は、あとでいい。今は熱を下げるのが先だった。
再び横になって女のほうを見ると、ベビーベッドを離れて台所へと向かっていく。
女が、水切りかごから哺乳瓶を一本取り上げ、鼻先に近づけて困惑の声を上げた。
「……なにこれ、すごい臭い。洗ってあるのに」
それは今朝、灯油をやった哺乳瓶だった。几帳面に洗ったところで、あの匂いだけはどうしても残る。それでいいと言おうにも、声は掠れて届かない。
女は匂いの染みた一本を脇へ避け、別の哺乳瓶を選び直した。
そうじゃない。そっちじゃない。喉から出るのは、風の抜けるような音ばかりだった。
粉ミルクの缶を見つけると、女はスマホに目を向けた。
「……ええと、温度は人肌、と」
呟いて、湯を溶き、手首の内側で几帳面に確かめる。
俺も調べた。それ自体は合っている。正しく調べて、正しく温めて、その結果盛大に吹かれる――俺が通ったのと寸分たがわず同じ道だった。
やめろ、と思う。それを飲ませたら吹かれる。声にならない声で、必死に呼んだ。
しかし、女は再びベビーベッドに戻ると、俺には目を向けず、心結の口へ哺乳瓶の乳首を運んでいく。
頼む、気づいてくれ。その子は俺の子だけどロボだ。ミルクじゃダメなんだ。自分の常識をまず疑ってくれ――
「ぶっ」
派手な音がした。
背中越しに、白い飛沫が宙へ跳ねるのが見えた。
女の動きが止まる。
女は悪くない。ただ、与えたものが灯油ではなかった。それだけのことなのだ。
手遅れになって、喉の張りがふっと抜けたのか、静まり返った部屋に、俺の声が落ちる。
「……だから、言ったのに」
ミルクまみれの顔が、ゆっくりとこちらを向く。
顔から、髪から、服の胸元まで、べったりと白い。前髪の先から、雫が一つ落ちた。
その唇が小さく動く。
「……ごめん」
詫びるのは、こっちのほうなのに。
ベビーベッドの中で、心結が呑気にぴゅいと鳴いた。




