第13話 三人の部屋
女は、汚れた顔を袖でぐいと拭うと、手にした哺乳瓶を持って立ち上がった。
拭くものを探すでもなく、そのまま台所へ戻り、水切りかごから、もう一本を抜き取った。
さっき鼻先で嫌な顔をした、あの匂いの染みた一本だ。
もう一度、鼻先へ近づけて匂いを確かめる。それから、こちらへ目を向けた。
「……本当に灯油なんだね」
俺は寝たまま、ゆっくりとうなずいた。力の入らない腕を持ち上げ、部屋の隅のポリタンクを指差す。それが精一杯だった。
女は小さくうなずくと、そのポリタンクへと移動し、灯油を哺乳瓶に移した。
迷う様子はなかった。心結のもとへと戻ると、そのまま口へと運んでいく。
灯油を飲ませてくれなどという世迷いごとを、女は信じてくれたらしい。
彼女の頭の中までは、俺には覗けない。ただ、外から見えるのは、灯油入り哺乳瓶の乳首をくわえた心結が、こくこくと喉を鳴らしはじめた、それだけだった。
「ぴゅい♪」
ウサ耳が満足げにピンと伸びた。腹が満ちたのだ。
その声を聞きながら、俺は詰めていた息をようやく吐いた。この子の腹が満ちてさえいれば、あとはどうにでもなる。
倒れても詰まなかった。
さっき飲んだ熱冷ましが、じわりと効きはじめたのかもしれない。熱の芯が、ほんの少しだけ和らいだ気がする。
それにつれて、張り詰めていたものがふっと緩んだ。瞼が鉛のように重くなる。
抗う理由はもうなかった。
俺は目を閉じた。
次に目を開けたとき、部屋は暮れはじめていた。
窓の外が、赤から藍へ変わりかけている。
額に手をやると、熱はまだあるが、朝方よりはだいぶましになっている気がした。体にも、いくらか力が戻っている。少なくとも口は回りそうだった。
ふとベビーベッドの方に目を向ければ、女は帰っていなかった。
そのそばの椅子に浅く腰かけ、我が娘をぼんやりと眺めている。
俺が起きたのに気づくと、こちらを向いてふっと息を吐いた。
「ななさん、気分はどう? さっきよりは、ましな顔してるけど」
「……ああ。おかげさまで」
声が通った。喉の調子もいくらか戻ってきたらしい。
礼を言おうと口を開きかけて、ふと彼女が漏らした呼び方が耳の奥で引っかかった。ななさん、と。
そういえば、眠る前もそう呼ばれていた気がする。
覚えはないが名乗っていたのだろうか?
それにしたって、いきなり七尾を「ななさん」呼びはあまりに気安過ぎな気もする。
職場では係長で、近所では苗字にさんを付けて呼ばれる。ななさんなどと、呼び捨てでもなく、妙なさんを足して呼ぶのは、俺の知る限り、後にも先にもたった一人しかいなかった。子供の頃、なにかにつけて俺の後ろをついて回っていた、近所の二つ下の女の子――。
「……もしかして、はるちゃん?」
問いかけた俺を見て、女は片方の眉を上げた。それから、ひくひくとしゃっくりみたいに笑う。
年を重ねたせいか、昔の面影はほぼなかった。それでも、その笑い方は、昔のはるちゃん――鉢屋遥のまんまだった。
「やっと気づいたの? まったく。周りのことはよく見てるくせに、そういうのは昔から鈍かったよね、ななさんは」
鈍いと言われて、返す言葉がなかった。信じていた妻に裏切られるまで、何一つ気づかなかった男だ。今さら、目の前の女の正体に三十年越しで気づいたところで、鈍いのは否定のしようがない。
「……変わったな。顔を見ても、分からなかった」
「そりゃ変わるでしょ。三十年だよ。化粧だってするんだから、ぱっと見て分かるわけないよ」
言われてみれば、そのとおりだった。顔は変わる。だが、あの妙な呼び方と、こっちまで吹き出しそうになるその笑い方だけは、三十年前と変わっていなかった。
彼女は学年で二つ下。俺が今、四十二歳。ということは――
「あのはるちゃんも、今は……四十か」
「失礼だよ。私は早生まれで、三月生まれ。誕生日はまだまだ先。まだ三十九なんだから」
はるちゃんは間髪を容れずに訂正した。四十路を目前にして、一年はそうまでして守りたいものらしい。
「……で、そのはるちゃんが、どうしてこんなところに? たしか、遠くに嫁いだように聞いた気がしたんだが」
「最近、こっちに出戻ってきたの。今は実家住み。……ま、いろいろあってね」
そう言って、はるちゃんは髪をいじろうと手をやった。その手が一度、空を切ってから、短い毛先を指でつまんで止まった。
いろいろの中身を、はるちゃんは言わなかった。聞きたい気もするが、話せないことや、話したくても話しようがないことがあることを、俺は誰よりも知っている。
それに、今はじっくり話を聞くだけの気力も体力もない。
はるちゃんは、俺が何も言わないことに安心したのか、自分の汚れた胸元を見下ろして、小さく肩をすくめた。
……そうだ、忘れていた。ミルクまみれだった顔と髪は綺麗になっているが、汚れた服はそのままじゃないか。
「……娘が汚してすまない。そのままでは帰れないだろう。寝室のクローゼットに服がある。それに着替えてくれ。クリーニング代も払う」
「赤ちゃんがやったことだし、最初からななさんの言うとおりにしなかった私も悪いし、クリーニング代なんていいよ。たいした服でもないし。……でも、着替えだけは貸してもらおうかな」
そう言って、はるちゃんは立ち上がった。助けてもらった恩もあるし、クリーニング代くらいは受け取ってもらいたいところだが、無理強いしても機嫌を損ねるだけ――そんな気がした。
「寝室はあっち?」
「ああ」
「ほかの人を寝室には入れたくないでしょうけど、ごめんね」
随分と使っていない部屋だ。気なんて遣わなくていい。
そう声をかける前に、はるちゃんは行ってしまった。
しばらくして戻ってきたはるちゃんは、袖も丈も盛大に余らせた薄手のグレーのセーターを着ていた。袖からは指の先しか出ていない。
妻のものじゃない。その見慣れた色は俺のセーターだ。
寝室にはちゃんと妻の服もあったはずなのに。
「……はるちゃん、それ、俺のなんだけど」
「わかってるって。奥さんのなんて、着られるわけないじゃない。そんなの知られたら、ななさん、めちゃくちゃ怒られちゃうよ」
ああ、そうだった。もう妻がいないことなんて、はるちゃんが知っているはずがなかった。
「そんな心配はいらなかったのに……。妻は出ていって、もうこの家にはいないんだ」
妻のことを話したのは、これが初めてだ。職場の人にも近所の人にも言ってはいない。
それでも、熱のせいか、相手が相手だからか、あっさりと口から出た。
はるちゃんはしばらく黙って、俺の顔と奥のベビーベッドを交互に見た。
だが何も聞かず、静かにうなずいた。
「……ななさんも、いろいろあったんだね」
も、か。
そうだ。大人になって生きていれば、誰だっていろいろある。托卵され、ロボの子供が生まれ、そのうえ妻に逃げられたが、自分だけが悲劇の主人公ってわけじゃない。誰にだって同じくらい大変なことがあるってことだ――たぶん。
それからはるちゃんは、当然のような顔で台所へ向かい、冷蔵庫を開けた。
「……これは寂しい中身だね。えっと、あるもの適当に使っていい? 何か作るよ。こういうときは、腹に入れなきゃ治らないし」
断る間もなく、まな板の上で、包丁が動きはじめる。とんとん、と乾いた音が家の中に響いた。
俺は布団に身を横たえたまま、その音を聞くともなしに聞いていた。
考えてみれば、この家で自分と心結以外の誰かが立てる音を聞くのは、ずいぶん久しぶりだった。
人がいて、水を使い、火を使い、まな板を鳴らす。
ただ、それだけの音だ。
それだけの音が、やけに心地よかった。
ベビーベッドの中で、心結はもう眠りかけている。灯油で腹を満たして、ウサ耳を力なく垂らし、青い光をとろとろと細くしていた。
俺が倒れたらこの子は詰む。ずっと、そう思ってきた。俺が転べば、この子も一緒に転ぶのだと。だけど、今日、そうはならなかった。倒れても、詰まなかった。
今日は、一人きりではなかったのだ。
台所から流れてくる音を聞きながら、俺はそっと目を閉じた。今度は、心細さのない眠りだった。




