第14話 二人分の夕飯
翌日、熱はどうにか引いたが、体はまだ重かった。
一日休んだだけで、職場の机には決裁待ちの書類が山になっている。体調は気遣ってもらえても、家に残してきた子供のことを聞く者は、誰もいなかった。
それをなんとか片づけ、帰りにスーパーへ寄った。
昨日、倒れて買い物に行けなかったせいで、冷蔵庫は空に近い。何か買って帰らないと、自分の飯にありつけない。
精肉コーナーで、牛の細切れに半額のシールが貼られているのが目に留まった。その隣では、じゃがいもと玉ねぎも値引きになっている。
献立があったわけではない。ただ安い。下戸で煙草もギャンブルもやらない男が、数少ない心を動かされるものの一つが、この赤いシールだった。気づけば、かごに放り込んでいた。
何を作るかは、家に帰ってから考えればいい。
家に帰り着き、買い物の入ったビニール袋を一旦台所に置く。ベビーベッドを覗くと、心結が青い光をまんまるにした。
「ぱぱ」
小さな手が、にぎにぎと動く。ただいま、と返して一つ息をついた。
その時だった。インターホンが鳴った。
こんな時間に来客の心当たりはない。宅配の予定もなかった。
訝しみながらドアを開けると、紙袋を提げたはるちゃんが立っていた。
「これ、この前借りたやつ」
受け取って紙袋の中を覗くと、きれいにたたまれたセーターが入っていた。我が家のものとは違う柔軟剤が、ほのかに鼻をくすぐる。
それで用は済んだとばかりに、はるちゃんは、じゃあ、と背を向けかけた。
その背に、声をかける。
「……よかったら、上がっていかないか。昨日の礼も、まだ言えていないし」
「いいよ、そんなの。返しに来ただけだから」
「そう言わずに。何か、食べていってくれ」
はるちゃんは少し迷う様子だったが、やがて言い訳するように呟いた。
「……ま、どうせ今日は外で食べてくるって、家には言って出てきたから、お言葉に甘えるとしますか」
どうやら昨日の礼をさせてもらえそうで安堵する。
はるちゃんを家の中に招き入れ、俺は台所に立った。
これまで、ここは自分の腹を満たすためだけの場所だった。エネルギーを補給するための作業。妻がいなくなってから、誰かに食べさせるために台所に立つのは、これが初めてだった。
買ってきた肉と野菜を出し、卵くらいはあったかと冷蔵庫を開ける。中は、やはりがらんとしていた。
――昨日も、この冷蔵庫はこんな具合だった。
なのに、はるちゃんはあり合わせで、あの熱っぽい体に染みるおじやを作ってくれた。溶き卵と、刻んだ何かの入った、湯気の立つ丼。うまかった、とその一言をまだ言えずにいた。
……いまさら言うのも気恥ずかしい。
――さて、この材料で何が作れるのか。
スマホに、「肉 じゃがいも」と打ち込んで検索する。
「肉じゃが」と出てきた。それにしよう。
レシピの分量を、大さじ小さじきっちり量る。目分量というものが、どうにも信用できない。
「几帳面だね、相変わらず」
リビングに座っているはるちゃんが笑う気配がした。
部屋の隅のベビーベッドから「ぱぱ」と声がする。そういえば、帰ってからの灯油がまだだった。
「すまんな、心結。パパは今、手が離せないんだ。あとでたっぷり灯油を飲ませてやるからな」
言葉が伝わらないのはわかっている。わかっていて、それでも声をかけていた。
鍋から手を離せずにいると、背中のほうで、はるちゃんが立ち上がる音がした。
「じゃあ、私があげるよ」
一旦火を消して後ろに目を向けると、はるちゃんはポリタンクのほうへ歩いていく。
昨日、心結に灯油を飲ませてくれたのは、ほかでもないはるちゃんだった。
彼女は、危なげなく哺乳瓶に灯油を移し、心結の口へ運ぶ。心結はこくこくと喉を鳴らし、満足げにウサ耳を垂らした。
「ぴゅい♪」
金属の赤ん坊に灯油を飲ませるその姿を、手を止めたまま見ていた。怯えも、気味悪がるそぶりもない。
安心して、再び火をつけ、包丁を持つ手を動かす。
そうしているうちに、なぜだか口が動いていた。
妻に托卵されたこと。生まれてきたのが、ロボの子だったこと。そして妻が、その子を置いて出ていったこと。順を追って、ぽつぽつと話した。
人に話すようなことではないと思っていた。だが、相手が今の俺ではなく、昔の俺を知っている人間だったからかもしれない。気が緩むのと一緒に、口も緩んだらしい。
包丁の音も鍋の音も止めずに話したから、はるちゃんの顔は見ずに済んだのは幸いだ。面と向かっては、とても話せなかっただろう。
はるちゃんは黙って聞いていたが、やがて口を開いた。
「……そんなことまで、あったんだ。……でも、ま、ななさんらしいよ」
あっさりしたものだった。その、あっさりさが、少しありがたかった。
できあがった肉じゃがを、二人分食卓に並べた。
心結の夕飯は、もう済んでいる。灯油で。
はるちゃんと向かい合って箸をつける。……つけて、すぐに後悔した。
味が、ぼんやりしている。というより、はっきり言っておいしくはない。分量はきっちり量ったはずなのに、どうしてこうなるのか、まるでわからない。几帳面に調べて、几帳面に作って、この始末だ。
「……ごめん。あんまり、作ったことがなくて。まずいだろう」
「そんなことないよ」
はるちゃんは、もう一口食べてから言った。
「一生懸命作ったんだな、ってわかる味。……ねえ、ななさんって、いつもどんなもの食べてるの」
「いつも、って……疲れてる日は、カップ麺とかスーパーの弁当で済ませたり。それじゃ駄目だと思って、家にあるもので、自炊もどきくらいはするが」
「栄養バランスとか、考えてる?」
「……いや。そこまでは気が回らない」
「だよね。そんなだから倒れるんだよ」
返す言葉もなかった。
「たまには、私が作ろうか?」
「いや、それははるちゃんに悪い」
「悪くないよ。……それに」
はるちゃんは、部屋の隅のベビーベッドに目をやった。
「また同じことになったら、心結ちゃんはどうするの?」
心結のことを言われて、言葉に詰まった。
俺が倒れれば、この子が詰む。それだけは、避けなければならない。反論の余地は、どこにもなかった。
「……お願いします」
情けないことに、断る理屈が一つも見つからなかった。
ベビーベッドの中で、心結が呑気に「ぱぱ」と言った。お前は気楽でいいな。
しばらく、箸を動かす音だけが続いた。
ふと、はるちゃんが箸を止めた。
「奥さんのこと……探したりはしないの」
「娘を置いて行った母親を、探そうとは思わない」
考えるより先に、言葉のほうが出ていた。
不倫のことは、もういい。今さらだ。俺も、夫として満点だったとは思わない。
だが、あの子を置いていった――それだけは、どうしても飲み込めなかった。
ベビーベッドのほうで、心結が「ぱぱ」と言う。……いや、深読みが過ぎる。あの子はただ、鳴いているだけだ。
はるちゃんは、しばらく黙っていた。それから、こちらを見ずにぽつりと言った。
「……私もね、離婚したんだ」
はるちゃんは、俺の返事も待たずに続けた。
「子供はいらないねって、二人で決めて結婚したの。私も、そういうのは向いてないと思ってたし。……なのに、あっちが急に、やっぱり子供が欲しいって言い出してさ」
箸の先で、料理を意味もなくつつく。
「で、若い子のところに行っちゃった。子供を産める子のところに。……笑っちゃうでしょ。いらないって言ってたのは、向こうなのにね」
笑っちゃうでしょ、と言いながら、はるちゃんは笑っていなかった。
気の利いた言葉なんて、俺の持ち合わせにはない。何と言えばいいのか、わからなかった。
髪に手をやったはるちゃんの指先が、短い毛先で行き場をなくして、宙で止まった。
俺は、何も聞かなかった。
「……そっか」
言ってから気づいた。それは昨日、はるちゃんがこの家で言ったのと同じ言葉だった。
はるちゃんもそれに気づいたらしい。ひくひくと、しゃっくりみたいに笑った。今度は、本当に。
それきり、重い話はなかった。
飯を食い終えると、はるちゃんは「ごちそうさまでした」と手を合わせ、ゆっくりと腰を上げた。
皿はきれいに空になっていた。まずかっただろうに、はるちゃんは残さず食べていた。
「……残してくれても、よかったのに」
「ななさんの味、嫌いじゃないよ。でも、今度は私が作る番だね」
その言葉で、昨日のおじやの味が、ふいに口の中に蘇った。うまかった、と――昨日から、まだ言えずにいる。
玄関まで送ると、外はもうすっかり暗くなっていた。
「……昨日の、うまかった」
「なに、いまさら」
はるちゃんは、ひらりと手を振って帰っていった。
家に戻り、流しに二人分の皿を運ぶ。
自分以外の誰かの使った皿を洗うのは、思えばずいぶん久しぶりのことだった。腹を満たすためだけだった台所に、今日は別の意味があった気がする。
ベビーベッドの中で、心結はもう眠そうにしていた。青い光を、とろとろと細くしている。
皿を洗う手を止めて、その寝顔を――寝顔と言っていいのかはわからないが――しばらく眺めた。
明日からも、いつもの日々が続く。
托卵されて、ロボの子を押しつけられて、妻に逃げられた男の、しがない日々が。
だが、まあ。
そう悪いものでも、ないのかもしれない。




