第15話 立ち上がる我が子
このところ、俺は台所に頻繁に立つようになった。
以前は、腹さえ膨れればそれでよかった。適当に混ぜて火を通せば、たいていのものは食える形になる。場合によっては、コンビニの弁当だの、湯を注ぐだけの麺だのでも問題ない。
独り身の頃からそんなだったから、それでなんの不都合も感じちゃいなかった。
……感じていなかった、はずだった。
それが、どういう風の吹き回しか。俺は今、慣れない手つきで、鍋をかき混ぜている。
野菜を刻み、肉を炒め、栄養がどうの、彩りがどうのと、柄にもないことを気にしながら。
……まあ、理由に心当たりがまるでないわけでもないが。それは、よそう。考えると、また締まらない顔になる。
おかしな話ではある。
この料理は、どうせ俺一人しか食べない。心結は灯油があれば足りるのだから、俺のために手間をかけたところで、見てくれる相手も、褒めてくれる相手もいやしないのだ。
……それでも、なぜだかちゃんと作ってやろう、という気になる。誰にでもなく、自分にでもなく。
まあいい。理屈はどうでも。
できあがった料理を皿によそい、お盆に載せる。焼いた魚に、味噌汁に、それから、青菜の胡麻和えなんぞまで。
我ながら、ずいぶん所帯じみたものだ。
お盆を両手で持って、台所からリビングへ向かう。
この家は、台所とリビングが地続きになっている。夫婦二人で暮らすつもりで買った家に、今は俺と心結が二人。
その部屋の隅のベビーベッドのほうへ、なにげなく目をやって――
俺はお盆を取り落としかけた。
味噌汁が、危うく縁からこぼれかける。慌てて持ち直した。魚の皿が滑って、お盆の上で、かたりと鳴る。
……危ない。あやうく、全部ぶちまけるところだった。
だが、そんなことより、だ。
……立っている。
ベビーベッドの中で。心結が。柵に、両の手をかけて。ぷるぷると、小さな体を震わせながら。
……その二本の足で。立っている。
俺はお盆をそばのローテーブルに置くと、ベビーベッドへ駆け寄った。
見間違いなんかじゃない。心結は、柵につかまって、確かに立っていた。丸っこい体を、精一杯に伸ばして。足の裏をしっかりと、ベビーベッドの底につけて。青い光の目をまんまるに灯して、こちらを見上げている。
「ぱぱ」
……ああ。相変わらず、その一語だ。もっとも、今はそれどころじゃない。
いつだ。いつのまに、こんなことができるようになった?
俺は、必死に記憶を手繰った。
昨日は? 一昨日は? ……だめだ。思い出せない。
毎日この子を抱いて、灯油をやって、寝かしつけて。その、代わり映えのしないくり返しのどこかで、この子はいつのまにか、立てるようになっていた。
……俺の、見ていないところで。
いや。待て。
几帳面な性分が、こういうときに頭をもたげる。
俺はポケットからスマホを取り出した。子育ての目安、とやらを、以前ブックマークしておいたのだ。
そもそも、だ。立てるようになるその前に、赤ん坊というのは、まずはいはいをするものじゃ、なかったか?
ところが心結は、俺の知る限り、ただの一度もはいはいなんてしていない。四つん這いになって、床を進む姿なんて、見た覚えがまるでない。
それが、その段階をまるごと飛ばして、いきなり立った。
画面には、月齢ごとの発達の目安、というものが並んでいた。
首がすわるのが、生後三、四か月。寝返りが五、六か月。おすわりとはいはいが七、八か月。そして、つかまり立ちが――九か月から、十か月ごろ。
……九か月。
俺は思わず乾いた笑いを漏らした。
うちの子は、まだ生まれて一か月も経っちゃいない。
その一か月足らずの赤ん坊が、九か月の子のやることをやっている。しかも、間に挟まるはずのはいはいをすっ飛ばして。
……やっぱり、そうなのか。
胃の奥が、きゅう、と縮んだ。
俺の悪い癖だ。不安になると、すぐここに来る。
この子は、見た目だけじゃなく、育ち方も、その順番も、なにもかもが、普通の子とは違うのか……。
人間とは違う道筋を通って育っていくのか。ロボだから……。
俺は震えかけた指で、検索の窓に打ち込んだ。「はいはいしない つかまり立ち」と。
出てきた。
いくつもの俺と同じような相談が、ずらりと並んでいた。
うちの子は、はいはいをせずに立ってしまいました、大丈夫でしょうか、と。そして、その一つ一つの下に、「心配ない」という答えが、いくつもぶら下がっている。
はいはいを飛ばしてつかまり立ちに進む子は、ちっとも珍しくないらしい。中には、はいはいを一度もしないまま、歩き出す子もいる。おしりでずりずりと移動する子だっているという。
立つまでの順番は、子によってまちまちなのだ、と。
……そうか。
きゅう、と縮んでいた胃が、ふっと、緩んだ。
なんだ。人間の子でも、はいはいを飛ばすやつはいるのか。だったら、心結が飛ばしたって、そんなものは、普通の子の幅のうちなんじゃないか。
まあ。順番のほうはいいとして。だ。
問題は、時期のほうだろう。九か月の子がやることを、生まれて一か月足らずで、やってのける。こればかりは、どう検索したところで、相談例なんぞ出てきやしないだろうな。
……だが。
俺はスマホを、そっと伏せた。
今さらだ。この子が、目を見張るような早さで育つことなんて、とっくの昔に知っている。
「ぱぱ」と喋ったのだって、あんなに早かった。
抱き上げれば、日に日に重くなって、この歳の腕に、ずっしりと筋肉痛を残していく。
速さにいちいち驚くのは。もう、とうに卒業したはずだった。
早かろうが、順番が違っていようが。なにしろ、だ。
俺は、柵の向こうの小さな体を、改めて見た。
俺の娘は、見た目はこんな金属の塊でも、ちゃんと育っている。自分の足で、立ち上がってみせるほどに。
……それの、いったいどこが心配することなんだ。
――と。
心結の体が、ぐらり、と傾いた。
あ、と思う間もなく、柵をつかんでいた手がつるりと離れて、心結はぺたんとその場に尻もちをついた。
――泣くか? 俺はとっさに身構えた。
だが、心結は泣かなかった。それどころか、ゴーグルのような顔の画面に、ぱっと[^^]の記号を浮かべて――
「ぴゅい♪」
と、なんだかやけに楽しげに鳴いた。そうして、また柵に手を伸ばす。ぷるぷると体を震わせながら。よいしょ、とでも言いたげに。
もう一度、立ち上がろうとしている。
……ったく。誰に似たんだか。転んだって、これっぽっちもへこたれやしない。
俺は冷めかけた料理のこともすっかり忘れて、しばらくの間、その立っては転び、また立ち上がろうとする姿を見ていた。
立ち上がっては、尻もちをついて。[^^]を浮かべて、ぴゅい、と鳴いて。それでも、また柵に手を伸ばす。
飽きもせず、何度も何度も……。
その飽きない一部始終を見ているうちに、気づけば胃の痛みはどこかへ消えていた。
「ぱぱ」
柵の向こうから、つかまり立ちのまま、心結がまた俺を呼ぶ。どこか得意げに。
俺はベビーベッドに手を入れて、その立ったばかりの体を、そっと抱き上げてやった。
ずしり、と来る。この間、抱いたときより、また少し重い。
……ああ、そうだ。飯だ。
はたと思い出す。ローテーブルに置いた、お盆のことを。
心結を抱いたまま、そちらへ向き直る。柄にもなく手間をかけた青菜の胡麻和えが、すっかり冷めきっていた。
……まあ。
味噌汁くらいは、温め直すとするか。




