第16話 一か月健診
俺が倒れたあの一件以来、はるちゃんはちょくちょく家に顔を出すようになった。近くまで来たついでだと言っては、飯を作っていってくれたり、こっちが振る舞ったり。妻が出て行ってからこっち、他人が上がることもなくなっていた家に、また人の出入りがある。
その日も、二人分の夕飯を食い終えて、茶を飲んでいるところだった。
「ななさん、そういえば――」
はるちゃんが、湯呑みから顔を上げて言った。
「心結ちゃん、そろそろ一か月健診じゃない?」
一か月健診。……なんだ、それは。
聞いたことがある気はする。だが、それが具体的に何をどうするものなのか、正直、見当もつかなかった。俺が黙っているのを見て、はるちゃんが片眉を上げる。
「知らないの?」
「……名前は聞いたことがある」
「まあ、私も詳しくないけどね」
彼女は離婚して子もいない身だ。それでも、この手のことは俺より知っているらしい。
「退院のとき、予約とかしていかなかったの?」
予約も何も、退院の日は、俺が迎えにいくはずだったのに、妻はすでに退院していたんだが……。
「退院のとき、俺はいなかったから……」
「そうなんだ。奥さんは予約票とか残していってないの?」
「荷物のほかには、母子手帳と出生届くらいで……」
「予約票とか挟まってたりしてなかった?」
言われて思い出す。あの母子手帳。中を途中まで見て、閉じたきりだった。妻の字と、白黒のエコー写真。あの先を、俺はめくっていない。
棚の引き出しから、それを引っぱり出す。閉じたページの先を、健診の記録もエコー写真も通り越して奥へめくっていくと、ページのあいだから一枚の紙が滑り出てきた。乳児健康診査受診票。その端の余白に、日付が書き込んである。
「あったんじゃない。……って、これ来週じゃない」
横から覗き込んだはるちゃんが、あっさり言う。
……妻の字だった。几帳面な、あの字。
この母子手帳は、出生届を出しに行ったときにも持って行った。だが、あのとき俺も窓口の職員も、この一枚には気づかなかったらしい。
「過ぎる前に気づけてよかったね」
はるちゃんは茶を飲み干すと、それだけ言って腰を上げた。日付が誰の字で書かれているかには、触れなかった。
……彼女は、こういうとき余計なことを言わない。
はるちゃんが帰ったあと、一人になって、もう一度その日付を見る。
……なぜ、と問いかけそうになる自分を押し戻した。
いない人間の胸のうちを推し量るのは、もうしないと決めたはずだ。俺はその日付を自分の手帳に書き写した。この日にこの子を連れて行けばいい。それでいい。
受診票の裏は問診票になっていた。健診の前に、赤ん坊の普段の様子を書き込んでおくらしい。はい、いいえ、のどちらかに丸をつけていく形式だ。ペンを取る。
『大きな音にびくっとしますか』。する。あの耳が、ぴくりと動く。はい。
『きげんよく目を覚ましますか』。はい。
『目つきや目の動きが気になりますか』。……いいえ、でいいんだろう。青い光で、俺のことはしっかり追ってくる。
残りの欄も、順に埋めていった。
健診の会場は、心結が生まれたあの病院だった。
待合室は親子連れでそれなりに混んでいた。……いや、親子というより、母親と赤ん坊というべきか。父親が付き添っているのは、俺のほかにはちらほらといったところだ。
どの赤ん坊も母親の腕の中でおとなしくしている。首もまだすわりきってはいないのだろう、母親たちは慣れた手つきで、その小さな頭を手のひらで支えていた。
さて。腕の中の心結を抱え直す。
……重い。
これがなかなかこたえる。抱いていられるのはせいぜい数分で、その先はこの四十を過ぎた腕がじわじわと音を上げはじめる。ずしりと来るこの重みは、この子がちゃんと育っている証拠ではあるのだが、証拠が重すぎるというのも考えものだ。
空いていた長椅子に腰を下ろす。腕もそろそろ限界だ。俺は心結をいったん、足元の床にそっと下ろしてやった。
……やれやれ。少し休ませてくれ。
――が。
下ろして、ほんの数秒だった。
膝のあたりにこつんと何かが当たる。見れば、心結が俺のズボンの裾を両手でしっかり掴んでいた。そうしてその足にすがるようにして、ぐいと二本の足で立ち上がる。青い光の目を、下から、まっすぐこちらへ向けて。
「ぱぱ」
……周りが静かになった。
気づけば、待合室のあちこちから視線が集まっていた。首もすわらぬ我が子を抱いた母親たちが、金属の赤ん坊が父親の足に掴まって立っている、その光景を見ている。
ある母親が、そっと腕の中の赤ん坊を引き寄せた。俺と目が合うと、ばつが悪そうに視線を逸らす。
……まあ、そうだろうな。内心で苦笑する。見た目がこれで、おまけに立っている。どちらか一つでも人目を引くには十分なところを、二つまとめて備えているのだ。関わり合いになりたくないという気持ちも、分からんではない。
得体の知れないものに下手に触れて、火の粉が飛んでくるのを人は何より恐れる。市役所の窓口で、俺自身いやというほど見てきた顔だ。
当の心結は、そんな視線にはまるで頓着しない。
「ぱぱ」
俺の足を掴んだまま、得意げにもう一声、そう鳴いてみせた。
「七尾さん。七尾心結ちゃん」
名を呼ばれて、診察室へ通された。
まずは体重測定だという。看護師が乳児用の小さな体重計を示す。……この上に乗せろ、ということらしい。
そっと心結を載せると、針が――いや、デジタルの数字が、乳児のそれとは思えない桁を示した。看護師の手が止まる。
それから備えつけの成長曲線とやらの用紙に点を打とうとして、その点の来る場所が、いちばん上の線をはるかに飛び越えたあたりになると気づいたようだった。
看護師は何か言いかけて、結局何も言わず、ただその数字を黙って書き留めた。……賢明な判断だと思う。
やがて担当の先生が来た。赤ん坊のほうは小児科の先生が診るらしい。白髪まじりの、年配の男の先生だ。カルテにちらと目を落とし、それから心結を見て――ほんの一瞬、その職業柄穏やかに保たれた表情がこわばった。
だが、そこはさすがにベテランだ。すぐにそれを引っ込めると、ごほんと一つ咳払いをして、淡々と診察をはじめる。
「では……まず、首の据わり具合を診ましょうか」
医師が心結の頭にそっと手を添えようとする。その手より先に、心結は診察台の上で俺の腕を掴み、ぐいと二本の足で立ち上がった。
「……首は、もう心配なさそうですね」
先生のこめかみが、ぴくりと動く。
「……次に、原始反射というものを確認します。手のひらに指を、こう……」
先生が心結の小さな機械の手に、そっと指を触れさせる。……当然ながら、心結は握り返しもしなければ、びくりともしない。ただ青い光で、先生の指先をじっと見ているだけだ。
「……ええと」
先生のペンが、宙で止まった。
「……おへその状態は」
俺は黙って首を横に振った。……ない、ものはない。先生はそれ以上追及せず、カルテのその欄をそっと飛ばしたようだった。
こうして健診の項目というやつは、一つ、また一つと、うちの子の金属の体をつるりつるりと滑り落ちていった。当てはまるものが、ほとんどないのだ。
最後に、先生は問診票に目を落として尋ねた。
「普段は母乳ですか?」
……母乳ではない。それだけは確かだ。
「……いいえ」
「では、ミルクですね」
そう書きつける先生の手が、この日初めて迷わなかった。
ミルクではない、と言いかけて俺はやめた。この人がやっと一つ、いつもどおりに埋められた欄だ。
俺はその手元を、黙って見ていた。
「……はい。今日はこれで結構です。次は二か月になりましたら、予防接種がありますので」
予防接種。その一言に、胃がきゅうと縮んだ。
病院を出ると、外はまだ明るかった。
心結を抱き上げる。
――ずしりと来る。来たときより、また少し重くなった気がするのは……気のせいだと思っておくことにする。
「ぱぱ」
腕の中で、心結が青い光の目をまんまるにして俺を呼ぶ。
健診というのは、要するに、この子がちゃんと育っているかどうかを確かめる場所らしい。だとすれば、診察台の上でまで立ち上がってみせたうちの子は、文句のつけようもないほど順調に育っている、ということになる。……あの成長曲線を突き抜けるほどの勢いで。
……次は予防接種か。
この金属の腕に、はたして針が通るものかどうか。考えると、またじわじわ胃が痛くなってくる。
まあ、それもそのときになってから考えればいい。
俺は腕の中の、この重すぎる証拠を抱え直して、駐車場のほうへ歩き出した。




