第17話 名前を呼ぶ我が子
軍手の甲で額を拭っても、拭った先から汗が滲んでくる。
マンホールポンプは市内のあちこちに散らばっている。道路の下に埋まっているものもあれば、道から少し外れた空き地の下に据えられているものもある。
空き地の下の場合、点検や補修をする場合、通行止めなどの必要がないので楽ではあるが、その代わりに、マンホール周辺の雑草やらなにやらの管理をしないといけない。
一箇所あたりの範囲はたかがしれているが、そのたかが一つ分が市内に点々とある。俺は若手の一人と組んで、朝からそういう箇所を軽トラで一つずつ潰して回っていた。
五箇所目を刈り終えて肩掛けの草刈機のエンジンを切ると、耳の奥で羽虫みたいな残響がしばらく鳴っていた。時計を見ると、なるほど十一時を回っていた。几帳面と言われる俺でも、刃を回している間は時間の感覚が飛ぶ。
「そろそろ休むか。無理して倒れられても困る」
後輩はまだ刈り足りないという顔で、少し意外そうに草刈機を下ろした。役所に来てまだ数年、体力の有り余っている時期だ。
俺が草刈機を握るようになったのも、役所に入ってからだ。市役所勤めというと一日中机の前にいる姿を思われがちだが、総務にいた頃も企画にいた頃も、所管の土地の草は自分たちで刈った。それが下水道課ならなおさらだ。
かれこれ二十年、刃の重さも音も、頭より先に体が覚えてしまった。
近くにあった自販機で冷たいのを二本買ってきて、片方を後輩に渡す。
「あざっす」
礼を言われるほどの奢りでもない。
日陰に二人で腰を下ろし、缶に口をつける。
疲れた体に、甘さと冷たさがしみわたっていくのがわかる。
「ふぅ……」
一息つき、缶の底で手を冷やしながら、スマホを取り出した。
家のベビーベッドを映すベビーカメラの映像を、こうして外から覗けるのはありがたい。
「係長もすっかり親ばかっすね。それじゃあ、俺も愛しの愛娘の様子を見ようかな~」
後輩もスマホを取り出した。
先輩に向かって「親ばか」はどうかと思うが、ベビーカメラの存在を教えてくれたのは、ほかでもないこの後輩だ。父親としては彼の方が先輩でもあるし、ここはその言葉を甘受しておくべきか。
実際、こうして休憩時間になればなにより先にスマホで娘の姿を見る親を、世間一般では「親ばか」と呼ぶだろうしな。
そんなことを思いながら、画面をじっと見つめる。
画面の中の心結はベビーベッドの柵につかまって立っていた。
これ自体は、ここ数日で見慣れた光景だ。つかまり立ちを覚えてから、あの子は暇さえあれば柵にぶら下がって、青い目でそこらじゅうを眺めている。
だが、今日は様子が違った。
右手で柵を握ったまま、心結は左手を離した。離した手を少し先の柵へと伸ばす。体がぐらりと傾いて、それからつられるように右足が横へ動いた。左足が追う。柵に沿って、あの子はたしかに横へ歩いた。
缶を取り落としかけた。膝の上で危うくつかまえる。
伝い歩き、というやつだ。育児のアプリにそう書いてあった。つかまり立ちの次に来るやつ。
順番どおりだ。順番どおりに、あの子は育っている。
画面の中の心結が柵の端まで来て、[^^]みたいな顔で「ぴゅい」と鳴いた。いや、音は聞こえないが、そんな口の動きをした。そして、誰も見ていないのに得意げだった。
……いや、見ている。俺が見ている。
「係長、なにニヤけてるんすか」
後輩がこちらの手元を覗き込んできた。
慌ててスマホを伏せる。職場では、娘がロボであることはまだ言っていない。隠すつもりはないが、聞かれてもないのに話すのもおかしいだろう。もし聞かれれば、胸を張ってロボだと言うつもりだ。
……まあ、「係長の子供はロボですか?」なんて聞いてくるやつがいるとは思わないが。
「……いや、娘の成長が見られてな」
「へえ。順調に育ってるんですね。よかったじゃないですか」
娘が伝い歩きをしたことを自慢したかったが、生後一か月にも満たない娘だ。事実を話したところで冗談にしか思われないだろう。
休憩を終えて、続きの作業を再開する。
空き地の奥、次はポンプの制御盤周辺だ。ポンプと違って制御盤は地上に設置してある。蔦草が伸びてくると、制御盤の中に侵入してくる。そうなる前に綺麗に刈ってしまうのが、インフラを預かるものの使命だ。
そう思いながら草刈機を振っていると、根元の草が刃に巻き付いた。自然の力は強い。エンジンで動く金属の刃でさえこうやって止めてしまう。
俺はエンジンをかけたまま絡んだ草に手を伸ばした。
早く終わらせて、またあの映像を見たいと思っていた――のかもしれない。そのときの自分がなにを考えていたのか、あとになってもうまく思い出せない。ただ、軍手の指先が刃に触れた感触だけは、妙にはっきりと残っている。
鈍い音がして、右の手のひらに熱いものが走った。
軍手を外すと、親指の付け根から手のひらにかけて、赤い線が引かれていた。線の縁がじわりと盛り上がってくる。血の気が引く前に、まず灯油の給油はどうすると考えた自分がいた。
「係長っ、それ!」
彼の声が裏返っていた。俺よりよほど動転している。
軽トラで近くの外科に運ばれた。若い医者が手際よく傷を洗い、五針縫った。刃が骨に当たらなかったのは運がよかったと言われた。
運がよかった。伝い歩きを見たあとで、運がよかったと言われている。
利き手を分厚く包帯で巻かれ、しばらくは水仕事も控えるようにと釘を刺された。
診察室を出るとき、事務の人が次の消毒の予約を淡々と告げた。俺の手のことは、ここではただの事務だった。それでよかった。
家に帰り着いたのは、日が傾いてからだった。
玄関を開けた時点で、心結が腹を空かせているのは音でわかった。「ぴゅるるる」と細く長い鳴き声がリビングの奥から聞こえてくる。満タンにしておけば半日はもつが、いろいろあって帰りが遅くなってしまった。
台所で哺乳瓶を手に取った。ただそれだけのことで、包帯の指の付け根に鈍く響く。
水仕事は控えるように言われたが、灯油は水じゃないよな――なんて考えていると、玄関の呼び鈴が鳴った。
こんな時間に誰だと出てみると、レジ袋を提げたはるちゃんが立っていた。
「ななさん、今日のごはん――」
言いかけて、はるちゃんの視線が俺の右手で止まった。
「……なにそれ。どうしたの」
「ちょっと、仕事でな。草刈りしてて、刃で切った」
「ちょっとで、そんなに巻く?」
「なに、たった五針縫っただけだ」
「今日は私がやる。ななさんはリビングで座ってて」
はるちゃんは俺の返事を待たずに靴を脱いだ。
有無を言わせない調子だった。
はるちゃんは台所へ回ると、ポリタンクから慣れた手つきで哺乳瓶に灯油を注いだ。この子にこれを飲ませるのだと、もう驚きもしない手つきだ。
ベビーベッドから心結を抱き上げ、哺乳瓶の乳首をあてがう。
心結は夢中で吸いついた。消えていた目にじわりと青い光が戻ってくる。
やがて満ちたのか、心結が乳首から口を離した。[^^]みたいに目を細めて、腕の中からはるちゃんを見上げる。そして、鳴いた。
「はる」
聞き間違いかと思った。
「……今、心結、喋ったのか?」
はるちゃんは答えない。腕の中の心結を、じっと見つめている。
心結は、俺のほうには顔も向けなかった。腕の中から、はるちゃんだけをまっすぐに見て、もう一度鳴いた。
「はる」
その瞬間、はるちゃんが心結をぎゅっと抱き寄せた。小さな肩口に顔をうずめて、そのまま動かなかった。
聞き間違いではなかった。
しばらく、誰も動かなかった。「ぱぱ」の次に心結の口から出た名前が、いま、その名前の主に抱きしめられている。当の心結は、機嫌よさそうに青い目をまんまるにするばかりだ。呼んだ名前がどれほどのものだったか、この子はわかっているのか、いないのか――俺には、わからなかった。
俺は突っ立ったまま、その二人を見ていた。娘の育つ速さに、俺はまた追いつけていなかったらしい。
はるちゃんはなかなか顔を上げなかった。ようやく上げたときには、ぐいと袖口で目のあたりを拭っていた。
「……心結ちゃんは、覚えるの早いね」
声が少し湿っている。それを隠すみたいに、心結の垂れ耳を指でつついた。
はるちゃんが家に来るようになってから、間違いなく会話は増えた。そして、その会話の中で、俺の口から最も頻繁に出ている言葉はきっと「はるちゃん」だろう。
だとしたら、心結が「はる」という言葉を覚えたとしても不思議ではない。不思議ではないが――「ななさん」も同じくらい出ているはずなんだけどな。
「ぱぱの次が、はるちゃんとはな」
なんだか負けたような気がする、と続けようとして、やめた。悪くない負けだと思ったからだ。
台所に置かれたレジ袋から、豆腐とネギがのぞいていた。どうやら今夜も、二人分の夕飯になるらしい。




