第18話 服を着る我が子
怪我をしてからこっち、はるちゃんは夕食どきになると顔を出して、灯油をやり、飯を作っていってくれた。右手が使えないうちは、そのどちらもままならない。来てもらえるのは正直ありがたかった。なにしろ、包帯はまだ取れない。
ただ、その土曜だけは、いつもと違った。夕方を待たず、昼前にやって来たのだ。
「昼はありもので済ますから、わざわざ作りに来なくてもいいのに」
俺が言うと、はるちゃんは玄関で靴を脱ぎながらこともなげに返した。
「何言ってるの。今日は心結ちゃんのために来たんだよ」
そう言って、提げていた紙袋を軽く掲げてみせる。
「……なにが入ってるんだ?」
はるちゃんが得意げな顔で中から取り出したのは、小さな服だった。薄い黄色の生地に、襟のところへ花の刺繍が入っている。それも一枚ではない。水色の格子柄、ピンク地にイチゴの模様――色も柄も違うのが袋の中に何枚も入っていた。
「なんだ、その量は?」
「迷ったから、何枚か買ってきた」
「いや、そうじゃなくて。なんで急に、服なんて?」
はるちゃんは心底不思議そうな顔をした。
「だって心結ちゃん、裸じゃない」
その一言で、頭の後ろを軽く小突かれた気がした。
裸。言われてみれば、心結はずっと裸だった。
灯油はやる。体も拭いてやる。夜はベビーベッドのそばで寝る。やるべきことは一通りやってきたつもりでいて、服のことだけが頭からまるまる抜け落ちていた。
生まれてこのかた一度も、俺はこの子に服を着せていない。
「……でも、寒くはないと思うけど」
我ながら、間の抜けた返しだった。
「何言ってるの? 女の子に可愛い服を着せないつもり?」
寒いか寒くないか。俺が考えていたのは、つまるところそれだった。だけど、はるちゃんの物差しはそこにはないらしい。
「ほら、ぼさっとしてないで。手伝って」
断る間もなく、はるちゃんはリビングに向かい、着せ替えが始まった。
服はどれも前が全部開く形だった。頭からかぶせる服では、この子の耳やゴーグルがつかえて入らない恐れがある。
はるちゃんはそこまで見越して選んできたらしい。サイズもあつらえたように合っていた。ここのところ毎日のようにこの子を抱いて灯油をやっているぶん、重さも大きさもとうに手が覚えているのだろう。
ただ、着せるとなると話は別だった。心結の体は、人間の赤ん坊のような柔軟性はない。固い金属の体は押しても少しも引っ込まない。腕や足を曲げようとしても、心結がその気にならないとなかなか曲げてくれない。
机の脚みたいにまっすぐな腕を、伸ばした角度のまま細い袖の筒へそろそろと入れていくしかない。
おまけに、普段はおとなしいのに、今回はじっとしてくれない。袖を通しかけると「ぴゅい」と鳴いて手足をぱたつかせ、そのたびにやり直しになる。嫌がっているのではない。[^^]の顔で、この騒ぎをむしろ面白がっている。
二人がかりで、どうにか一枚目を着せた。薄黄色の服に花の刺繍。はるちゃんは心結を寝かせて、少し離れて眺めた。
「うーん。悪くないけど」
「悪くないなら、それでいいだろう」
「よくないよ。もう一枚着せてみる」
そうして脱がせて、次を着せる。水色の格子柄。また脱がせて、ピンク地のイチゴ。
着せては眺め、眺めては着せ替える。
付き合わされているうちに、俺はいつのまにか自分でも口を出していた。
「……さっきの水色のほうが、こいつには合ってたんじゃないか?」
言ってから、しまったと思った。
寒いか寒くないかを問うていたはずが、いまはどれが似合うかを真剣に選んでいる。
イチゴの一枚だけは、どうやっても背中が閉じなかった。丸っこい体に生地が足りず、スナップとスナップが指一本ぶん届かない。
「これ、このままじゃ無理だね」
はるちゃんは少し考えて、袋から小さな裁縫箱を取り出した。着せたまま背中の合わせに待ち針を打って、位置を見る。一度打ち直して、もう一度見て、それからスナップを付け替えはじめた。危なげはないが、手つきは慎重だった。
前例のない相手に、寸法を探りながら手を入れている。
付け替えたスナップで、イチゴの背中がぴたりと閉じた。
はるちゃんが心結を寝かせる。心結は自分の胸元を見下ろして、イチゴの模様を指の先でつつき、「ぴゅい♪」と鳴いた。青い光がまんまるになる。
「……似合ってるな」
口から、勝手に出ていた。
寒くはない。それは今も間違っていない。この子はイチゴの服を着ても、灯油で動いて、寒さとは関わりなく生きていく。
だが、寒いか寒くないかの話ではなかったらしい。娘に実際に服を着せてみてわかった。着せないという選択肢なんて初めからなかったんだと。
俺が一人で、ないことにしていただけだ。
はるちゃんは着せ終えた心結を満足そうに眺めている。
娘のことは、俺が一番わかってると思っていた。
……なんとなく、負けた気がした。
「……心結はもう、つかまり立ちだけでなく、伝い歩きもするんだぞ」
はるちゃんの知らない心結を俺は知っている。そんな気持ちからか、つい口を突いて出た。
「え、本当に?」
はるちゃんが驚きの声を上げると、まるで俺達の会話が聞こえていたかのように、心結が柵に手を伸ばして、ゆっくりと立ち上がる。
イチゴ柄の服は立ち姿にもよく似合う。さすが俺の娘だ。
にんまりしていると、心結は柵に手をかけたままぽよんぽよんと歩き出した。
服を着た心結は歩いていても可愛い。
「ねえ、ななさん。もしかして、心結ちゃんって――もう普通に歩けるんじゃない?」
――え?
歩ける。
考えたこともなかった。




