第19話 歩き出す我が子
歩ける――本気で言っているのか?
几帳面な性分が律儀に順番を数えにかかる。つかまり立ちを覚えたのが、つい先日。伝い歩きだって、まだ柵につかまってのおぼつかない往復だ。支えなしで歩くなど、その次の、そのまた次くらいの話ではないのか。
だが――その順番をこの子が守った例が、ただの一度でもあったろうか。
右手の包帯を左手でそっと押さえる。傷はまだ芯のところにずくりと残っている。この手では哺乳瓶ひとつ満たすのも危うい体たらくだというのに、こちらの都合などおかまいなしだ。
はるちゃんは俺の逡巡を待つでもなく、柵をつかんだ心結の手を眺めていた。それから、こともなげに言った。
「ていうか、このベビーベッド。そろそろ危なくない?」
「……危ない?」
まだ買ってから一か月ちょっとしか経っていない。劣化している様子は見えないが……。
「ほら、あんなに身を乗り出して。そのうち柵を乗り越えるよ」
言われて、あらためて心結を見た。なるほど、柵の上端に手をかけて、体を乗り出そうとしているようにも見える。
落ちる、という発想が俺の頭にはまるでなかった。立ち上がる姿を見ていながら、この子はまだベビーベッドの中の子だと、俺が勝手に決めていただけらしい。
「……そうか。柵を、もう少し高いのに替えるか」
「違うでしょ」
はるちゃんは、呆れたように笑った。
「閉じ込める話じゃなくて。もう、出してあげるころだって話」
出す。ベビーベッドから。つまり、床に。刃物だの薬だの、そういうものを片づけて、この子が這い回っても平気なように――と、そこまで考えて、はたと気づいた。這い回る、ではない。この子は、はいはいをしない子だ。
では、どう動くのか。
俺が心結を見ながらああだこうだつぶやいていると、はるちゃんが焦れたように言った。
「だから、さっきから言ってるでしょ。やってみればいいじゃない」
言うが早いか、もう心結を柵から引き剥がしにかかっていた。
「ちょっと、はるちゃん。いきなり試すのは――」
「自分の娘を信じられないの? いいから、ななさんは、邪魔なものを部屋の隅に寄せて」
なんというか……女性は強い。こういうときに反論しても無駄だと俺はもう知っている。
言われるまま、リビングの真ん中を空ける。ローテーブルを壁際へ押しやり、そのへんに転がっていた俺のものを端へどける。
畳でいえば一畳分ほどの、なにもない床が空く。
「じゃあ、ここでやろう」
はるちゃんが心結を床に立たせて、後ろから脇の下を支える。心結は、いつも柵を握っている手を宙で所在なげに動かした。掴むものがない。それでも、はるちゃんの手に支えられて、二本の足で、床の上にすっくと立っている。
「ななさんは、向こう側。心結ちゃん、ゴールがぱぱのところだよ」
すっかりはるちゃんのペースだ。
転びそうになったら支える必要があるが――はるちゃんがそばにいてくれるのなら、不思議と心配にはならない。
それに、「ゴールがぱぱ」と言われては、断れない。その役目は誰にも譲れない。
俺は空いた床のぶんだけ離れると、心結のほうへ向き直り、しゃがんで目線を合わせた。
思えば、この子とこうしてまっすぐ目の高さを合わせるのは、あまり覚えがない。
抱き上げるか、見下ろすか。でなければ、あの子が下から俺を見上げるか。健診の待合で、床から俺のズボンを掴んで立ち上がったときも、あの青い目はずっと下から俺を見ていた。
今は、同じ高さで、向かい合っている。
「心結。おいで」
柄にもなく、そんな声が出た。
はるちゃんが、心結の脇を支えていた手を離した。
なにも言わずに、ただ、そっと。
支えを失って、心結の体がぐらりと揺れる。俺は思わず飛び出しそうになったが――押しとどめた。まだ、倒れてはいない。二本の足は、まだ、床を踏んでいる。
心結がこちらを見た。青い光の目をまんまるに灯して。
そして、右足を前に出した。
体が前へ傾いで、慌てたように左足が追う。
傾いだぶんを、その足が辛うじて受け止める。
倒れかけては、次の一歩が拾う。倒れかけては、拾う。前へ、前へ。まっすぐに、俺のほうへ。
歩いている。
この子が、なにものにも掴まらず、自分の二本の足で。
あと一歩、というところで、こらえきれずに体が前へ倒れ込んだ。
俺は両手を出して、それを受け止める。
右手に、白い熱が走った。包帯の下の傷が締めつけられて、悲鳴を上げかける。息が一瞬詰まる。
だが、腕は緩めなかった。緩めるものか。この腕の中へ飛び込んできたものを、痛いくらいのことで取り落としてなるものか。
小さな、けれど確かな重みが胸に収まる。
「ぱぱ」
腕の中で心結が言った。歩いてきた先で、俺をそう呼んだ。
……そういえば、この子が四つん這いで床を這う姿を、俺はとうとう一度も見なかった。
はいはいという回り道をまるごと飛ばして、この子はいきなり、俺と同じ二本の足で、俺のところまで歩いてきた。
なぜ、とはもう問うまい。問うたところで、答えてくれるやつなんていない。
俺は痛む手のことも忘れて――いや、忘れてはいない、じくじくと痛んではいる――ただ、その痛む手ごと、腕の中の小さな体をもう一度抱き直した。
鼻をすするような音がした。
顔を上げると、はるちゃんが心結を離した格好のままで、こっちを見ていた。俺と目が合うと、慌てて顔を背けて、それからいつもの調子で言った。
「……ほらね。歩けたじゃない」
声が少し湿っている。
ずるい人だと思う。
この子の最初の一歩を引き出したのは、俺じゃない。この人の、あのひと言だ。
負けたような気になるが――
「悪くない負けだ」
俺がそうつぶやくと、はるちゃんは「なんの勝負をしていたのよ」と言って、声を上げて笑った。ひくひくと、しゃっくりみたいに。
腕の中の心結は、もう一度歩きたいのか、足をぱたつかせて[^^]を浮かべている。
……これは、おとなしくベビーベッドに戻しておくわけにはいかなくなったな。
柵の中の子は、もう、柵の中の子ではない。いずれはこの家じゅうを、二本の足で歩き回るようになる。危なくなりそうなものを、片づけないといけない。転んで頭をぶつけそうな角も、なにか対策がいりそうだ。
……やることが、また一つ増えた。
増えたな、と思いながら、それがちっとも嫌ではない自分がいる。
包帯は、まだ、しばらく取れそうにない。




