第20話 ベビーベッドを出る我が子
車から降ろした段ボールが、玄関に二つ積み上がった。
大きいほうがベビーゲート、小さいほうが心結の布団だ。どちらも急に必要になったものだった。
新生児のあれこれは、生まれる前にひととおり揃えてある。おむつだけは、一度も使わずじまいだったが。
だが、まさか生後ひと月にもならない子に、はいはいを飛び越えて歩かれ、ベビーベッドを卒業される日が来るとは、さすがに見込んでいなかった。
ベビーゲートも子供用の布団も、この月齢の子に用意しておくものではない。家にあるわけが、なかった。
だから、休みの日に買いに走る羽目になった。
本当は、一人で行くつもりだった。片手だろうと、車さえ出せば積んで帰れる。そう算段していたら、ちょうど灯油をやりに来ていたはるちゃんに、俺の右手を指して真顔で言われた。
「その手で持てるの?」
……持てない。何かするたびに痛みの走るこの手で、段ボールを抱えて運ぶのは、リスクしかない。
「……頼む」
口から出たのは、それだけだった。ありがとうの一言くらい添えればいいものを、俺はどうも、こういうときに素直になれない。
そんなわけで、運ぶのも選ぶのも、結局はるちゃんに任せきりになった。ベビーゲートの品定めなど、俺には高さの見当もつかなかったが、はるちゃんは商品の前で少し眺めただけで「これでいいでしょ」と迷わず決めた。
頼りにはなるが、また負けたような気にもなる。
ただ、俺も頼り切っていたわけではない。その裏で、俺は俺で、はるちゃんが子供用布団を選んでいるあいだに、別の棚へ回っていた。育児サイトに並んでいた安全対策のあれこれを、ひととおりカゴに入れておく。
こういう細かい部分の算段は、几帳面な俺の領分――そう思っていた。
ともあれ、買い出しはそれで済んだ。
あとは、玄関に積んだ荷物を家の中へ入れるだけ――なのだが、その「入れるだけ」が、片手の俺にはできない。
重いゲートも、子布団も、リビングまで運んだのははるちゃんだ。俺が提げられたのは、自分でカゴに入れた安全対策の小袋くらい。
この子に本当に要るものは、みんな彼女の腕の中にある。軽い袋一つを提げて、俺は後からのそのそと部屋へ入った。
リビングに入ると、ベビーベッドの柵でつかまり立ちをした心結が出迎えてくれた。早くこの檻から出せと言われているようだ。
――安心しろ。今日からお前の世界は広くなるぞ。
そう思いながら、運んできた小袋から商品を取り出した。
それを見て、はるちゃんが首をかしげる。
「ななさん。それ、なに?」
コンセントカバー。チャイルドロックの付いたゴミ箱。引き出しと戸棚を固定する金具に、家具の角へかぶせる緩衝材。俺が買い込んだ、安全対策の一式である。
「危険物対策だ。歩けるようになった子は、なんでもやるからな。コンセントの穴に指を突っ込んだり、床のものを拾って口に入れたり。……そういうのを、片っ端から潰しておく」
我ながら、細かいとは思う。だが、歩き始めた子の親なら、たいてい通る道だろう。
心配なものは心配なのだから、仕方がない。
はるちゃんは、俺の並べた品を一つずつ手に取って眺めていたが、やがて、ふと目もとをゆるめた。
「ななさん、そんなことまで考えてたんだ」
「……当たり前だろう。親なんだから」
「うん。えらいよ。いいぱぱだね」
さらりと言われて、返す言葉に詰まった。照れ隠しに、意味もなくコンセントカバーの袋を裏返す。
はるちゃんは、勘のいい人だ。ゲートのサイズも、布団の手ざわりも、ひと目で選び取る。だが、こういう細かな品を一つずつ思いつくのは、たぶん、俺の方が得意なんだろう。
もっとも、この一式で家じゅうが安全になるわけでもない。
心配なのは、台所まわりに近づくことと、リビングの外に出ていくこと。階段はどう考えても危険だし、玄関にも大きな段差がある。
だからこそのベビーゲートだ。
台所へ近寄れないよう、廊下に出られないよう、柵を立てれば、リビングの安全対策だけでことは済む。それに、リビングには段差もなく、この家の中でももっとも安全な部屋の一つだ。
「組み立ては、私がやるね」
二人で箱からベビーゲートを取り出すと、はるちゃんが腕まくりをした。
片手の俺への気遣いだろう。ありがたく任せることにした――のが、間違いだった。
はるちゃんは本体を箱から出すと、向きも確かめずに、いきなり壁と壁のあいだへ押し込もうとしている。突っ張り棒の締め具合も、見ちゃいない。
説明書のほうは開けた箱の底で、まだビニールに包まれたままだ。
「はるちゃん。マニュアルを見ないと」
「マニュアル?」
心底、不思議そうな顔をされた。
「こんなの、見なくてもなんとなくで組めるって」
なんとなく、で料理をひととおりこなし、心結の服の背中まで直してみせたこの人が柵一つに、なんとなく、で挑もうとしている。
大丈夫か?――と思って見ていると、案の定だった。
パネルは上下が噛み合わず、無理に押し込んだ留め具が斜めになる。壁との境に突っ張るはずの支えが、立てたそばからずるりと滑って傾ぐ。
「……あれ?」
「そこ、上下が逆だ。ロックのある側を手前に、だろう、たぶん」
「たぶんって。ななさんも分かってないんじゃない」
「マニュアルを見ればわかる。だから、それを、先に」
片手では、俺が代わってやることもできない。口で言うしかないのがもどかしい。
這いつくばって斜めの柵を睨むはるちゃんに俺はとうとうそのビニールを剥がし、開いた説明書を横から指し示す羽目になった。
ベビーベッドでは、心結が大人二人のあたふたを見ながら[^^]を浮かべている。おもしろい見世物だとでも思っているらしい。
「まず、その本体を、境の幅に合わせる。話はそれからだ」
「……はいはい」
手順どおりにやり直すと、今度は留め具が小気味よく噛み合っていった。斜めだった柵が、壁と壁のあいだにまっすぐ突っ張って立つ。
「ほら。組めた」
「マニュアル、やっぱり要るじゃないか」
俺がぼそりと言うと、はるちゃんは立ったゲートをしげしげと眺めて、しれっと言い返した。
「まあ、結果は同じでしょ」
……この人は、こういう人だ。
とはいえ、手伝ってもらっているので、下手に言い返すこともできない。
「……そうだな」
ため息まじりにそう返して立ち上がる。
ベビーベッドのそばにいき、心結を抱きかかえて下に降ろしてやる。
床に足がつくと、心結は座りもせず、まっすぐ柵のほうへ向かっていった。俺とはるちゃんがかかりっきりになっていたものだから、興味を引かれたのかもしれない。
……できれば近づいてほしくなくて、立てた柵なんだがな。
そんな俺の気も知らないで、心結は柵に手をかけると、がしゃがしゃと揺すっている。
「これ、心結ちゃんが乗り越えたり、くぐったりしないよね?」
はるちゃんが、ふと真顔になった。
重要な指摘だ。この子はつい先日まで、ベビーベッドの柵の上端に手をかけて、体を乗り出すような動きさえしていた。
不安を覚えつつ見ていると、心結は柵に手をかけ、例によって精一杯に伸び上がった。上端に指をかけようと、う、う、と背伸びをする。だが、届かない。
次は下の隙間へ丸い体をねじ込もうとして、つかえて、きょとんとしている。
開け閉めのロックにも手を伸ばしたが、片手で外す大人向けの造りは、この子の指では歯が立たなかった。
俺とはるちゃんは、その一部始終を、口を出さずに見ていた。……越えられない。
「……とりあえず、今日のところは大丈夫そうだな」
今日のところは、と口が勝手に言い添えたのは、この子の成長が速すぎるからだ。今は大丈夫でも、この先いつまでベビーゲートがもつのかはまったく読めない。
それでも、俺とはるちゃんと、二人ぶんの息が同時にゆるんだ。
ベビーゲートが済むと、残る箱は一つ。
これは今日買ってきたものじゃない。ネットで注文して、昨日届いた二台目のベビーカメラだ。
ベビーベッドから出た心結の姿を追うには、今までのような一台のカメラでは足りない。ベビーベッドを置いていた側と、台所に近い側、広いリビングをわけて映すようにして、心結の姿を確認できるようにする。
どうしても、今までより遠景から心結を見ることになるが、こればかりは仕方があるまい。帰ってくれば、いくらでも近くで見られる。
元のカメラの位置を変え、新しいカメラのコードをコンセントに挿すと、それを目ざとく見つけた心結が、とことこと寄ってきた。新入りのコードに、青い光の目をまるくして、じっと顔を近づけている。
「それは、食い物じゃないぞ」
言ってから、苦笑した。この子の食べ物は灯油だ。ミルクでさえ吹き出すんだから、誤飲の可能性は低いに違いない。
スマホを出して、確かめる。
画面が二つにわかれて、片方にリビング奥側、片方に台所側が映った。
これで、会社からでも、両方の様子が見られる。
カメラも据え終えて、夕飯まで一緒に食べて――この日も作ったのははるちゃんだ――気づけば、外はすっかり暗くなっていた。
「じゃあ、私はこれで」
はるちゃんはいつものように、あっさりと帰っていった。
玄関先から奥のリビングにいる心結に手を振って、「また明日ね」と言い残して。
……また明日、が、もうすっかり当たり前になっている。
俺は、リビングに布団を敷いた。
自分の布団の隣に、もう一枚――今日買ったばかりの、心結の布団を並べる。小さい。俺のものの、半分もない。
この子は灯油で動く体で、寒さを感じているのかどうかはわからない。布団を敷いたところで、暖かいとも、柔らかいとも、もしかしたら感じていないのかもしれない。
それでも、敷く。
子の寝床を用意しない、という選択肢は俺の中にはなかった。服を着せたときと、結局は同じことだ。
廊下の奥で、寝室の扉が閉まっている。あの部屋では、もう長いこと寝ていない。クローゼットには、まだ――まあ、それはいい。今日は、そういう日ではない。
俺は扉から目を戻して、心結の布団の皺を片手で伸ばした。
寝る前に、念のため灯油をやっておく。満タンにしておけば、朝まではもつ。別に、腹が減ったから眠るというわけでもないのだが、そこはまあ、俺の性分だ。
給油を終えると、心結の目に青い光がまるく戻った。
電気を消して、俺は自分の布団に横になる。心結は隣の――用意したばかりの、あの小さいほうに寝かせた。
……はずだった。
目を閉じてしばらくすると、かさ、と衣擦れの音がした。
薄目を開けると、心結が自分の布団から転がり出て、俺の掛布団の上に乗っていた。
ベビーベッドのときは実に寝相がよかったのに。新しい布団に慣れないのだろうか?
元の布団に戻してやろうとして――やめる。
自分の掛布団をめくり、心結を横に寝かせ、掛布団を戻した。
また転がり出るかと思ったが、ベビーベッドのときのようにおとなしくしている。
せっかく延べた子布団は空のままだ。
……まあ、いい。用意はしたが、今夜はこれで問題ない。
隣で、心結がこちらへ顔を向けている。
青い光の目が、すう、と細くなって――やがて、[- -]の形になった。眠るときの、この子の顔だ。
寝顔と呼んでいいのかは分からない。だが俺はもうずいぶん前から、これを寝顔だと思っている。
柵を一つ出た子に、今日はまた、越えるなと一つ柵を立てた。それでもいつか、この子はどの柵も要らなくなって、どこへでも歩いていくのだろう。二本の足で。
……その日のことは、今夜は考えないことにする。
片手の包帯が暗がりに、ぼんやりと白い。明日には、少しは治っているだろうか。




