第21話 映らない我が子
包帯が取れた。
抜糸のとき、若い医者は思ったよりきれいにくっついたと言った。跡は残るが、もう痛みはない。水仕事も、もう構わないという。
分厚く巻かれていたものが取れて、右手はずいぶん身軽になった。
これで、はるちゃんに毎晩来てもらう理由もなくなった。灯油をやるのも飯を作るのも、この手でひととおりこなせる。長いこと、世話をかけた。
朝、いつもどおり心結に灯油をやりながら、ふと思った。
人間の子なら、いずれミルクを卒業し、離乳食へ進む。調べたところ、五、六か月くらいが目安らしい。
心結はまだ生まれてから二か月にも満たない。月齢だけならまだまだ早い。しかし、だ。すでに心結はベビーベッドを出て、自分の足で歩き始めている。そこまで成長した子なら、とっくに離乳食は卒業している時期だ。
仮に、この子も離乳食に進むとして――
主食は灯油だ。液体から固形へ、というのが離乳食の道理なら、灯油の次に来る固形の燃料とは、いったいなんになる。
……石炭、だろうか?
考えてみて、我ながら妙な顔になった。石炭を細かく砕いて、灯油に混ぜて、粥のようにして食わせるのか? いや、そもそも石炭など、どこで手に入る? ホームセンターの棚に並んでいるのは見たことがない。バーベキュー用の炭とは、また違うものだったか。
……待て。そもそも固形の燃料が正解だと誰が決めた。
几帳面と言われる性分は、こういうとき、答えの出ない問いをいつまでも転がしてしまう。
結局その朝は、なんの結論も出ないまま家を出た。
その日は、急なトラブルに見舞われた。
トイレの水が流れにくくなっているという住民さんからの連絡を受け、念のため見に行った。そのお宅の下水の公共ますを開けてみると、蓋の高さまで汚水が溜まっていた。
慌てて道路のマンホールを開けて確認すれば、こっちも満水。
血の気が引いたが、溢れ出す前で助かったとも思った。溢れてしまうと、洗浄やら消毒やらで手間が増える。異変に気づいて連絡をくれた住民さんには感謝だ。
マンホールを一旦閉め、急いで業者にバキュームと高圧洗浄の手配を依頼する。
見積合わせをする余裕もなく、金額は相手の言い値になるが、こればかりは仕方ない。こっちだってこの仕事の経験は長くなってきた。後からになるが、多少の値段交渉はやってみせる。
それよりも、今はこの窮地を一刻も早く脱することが優先だ。
業者の到着を待つ間、なにもできないのに焦りだけが募っていくので、娘の姿でも見て心を落ち着けようと、スマホを開いた。
「……え」
思わず声が漏れる。
二分割された画面の片方には、いつものリビングが映っている。ベビーベッドはもう片付けたが、それ以外は家で見ているリビングの光景となにも変わらない。
ただ、問題なのはもう片側だった。――真っ暗。なにも映っていない。
カメラを二台にしてから何度も見てきたが、こんなことは初めてだ。
更新のボタンを押す。
読み込みの輪がしばらく回って――やはり真っ暗だった。
――心結は?
映っているほうの画面を凝視し、心結の姿を探す。とりあえず心結の無事さえ確認できれば安心できる。
けれど、映された範囲内に心結の姿はない。いくら探してもウサ耳のさきっぽさえ見当たらない。
マンホールを開けて満水の汚水を見たときより、心臓の音がうるさい。
落ち着け。
まず一つ確かなことは、スマホや通信の問題ではないということだ。片方のカメラはちゃんと動いている。
家も無事だ。火事で家がなくなっているとかそういう問題でもない。今映っているリビングが、ちゃんと家が無事なことを証明してくれている。
だが、この一台だけのカメラは、心結が無事なことを証明してくれはしない。
台所側のカメラ。そっちの映る範囲にいるのだろう。
――本当に?
もしベビーゲートになにかがあって、その先に進んでいたら?
台所には刃物に火の元と危険がいっぱいだ。おまけに、ゲートを越えれば、台所側から廊下にも出られる。玄関には鍵をかけているので外に出るようなことはないだろうが、玄関の段差から落ちればどうなる? 心結のあのロボの身体はどこまで耐えられるんだ? 万一、階段を上り出して、その途中で落ちたりしたら――
考えただけで胃がきゅっとなる。
――待て。
単に台所側にいるだけかもしれない。むしろ、その可能性のほうが高い。きっとベビーゲートをがちゃがちゃとしながら、ゴーグルに[^^]を浮かべているに違いない。
そう思って、映っているほうの画面を注視するが、飽きた心結が戻ってくる様子はない。
そうこうしているうちに、業者の車が到着した。
「……くそっ」
早く来てくれと待っていたはずのバキュームカーが着いたというのに、そんな言葉が口をついて出た。
スマホをしまい、状況説明のために業者のほうへと走り寄る。
汚水のバキューム、そして洗管作業の合間に、本来すべきではないが、時折スマホを確認する。
しかし、生き残っている画面に心結の姿は一向に現れない。
なにもないことを映している一方のカメラが、余計に不安を煽ってくるようにさえ感じる。
まだすべて映らないほうがマシかもしれない。そのほうが単なるカメラかルーターの故障と割り切れる。
いつまで経ってもリビングの奥側に心結が映らない。その長時間の不在証明が、現実的な心結のトラブルの可能性を俺につきつけてきやがる。
有給休暇ならたっぷりある。休日出勤の代休を優先して取るから、毎年ほぼまるまる消えていくくらいだ。だけど、こんな状況で時間休が取れるわけがない。
――くそ。公務員である俺は全体の奉仕者。娘のためだけに動くわけにはいかない。……くそぅ。
すべてが片付き、家に着いた頃には、とうに夜の七時半を回っていた。
無事かどうかも気になるが、心結の腹も気になる。朝に灯油をやったきりだ。満タンで半日、ちょうど切れる時分だった。
なにごともなかったとしても、今ごろあの子は腹を空かせて、赤い電池のマークを点滅させ、ぴゅるるると細く鳴いているに違いない。
鍵を回す手が、うまく合わなかった。
「心結!」
名を呼びながら、俺は靴も脱ぎきらずにリビングへ上がった。台所の境の柵の、手前の隅に――いた。
いた――が、腹を空かせてなどいなかった。
ゴーグルには青い光が、まんまるに灯っている。満ちている子の目だ。赤いマークの影もない。俺の顔を見て、あの子は機嫌よさげにゴーグルに[^^]を浮かべた。
そして、その口には――
細い、黒いコードがくわえられていた。
目でたどると、コードの先は壁に挿さったアダプターへ続いている。
いったいなんのコードなんだと、逆側に目を向ければ、コードの抜けたベビーカメラが、棚の上でうんともすんとも言わず、黒い目玉をこちらへ向けたまま、死んでいた。
……映らないわけだ。
端子が緩んで勝手に抜けたのか、この子が自分で引き抜いたのか。見ていないから、わからない。
ただ、抜けたコードの先を、あの子はためらいもなくくわえていた。
そうすればいいと、はじめから知っていたみたいに。
しゃがんで、口からコードをそっと取り上げる。抵抗はしなかった。もう満ちているから、未練もないらしい。[^^]の顔で、俺の手つきを面白そうに眺めている。
ふと、床に目がいった。先だって買い込んだ、あの安全対策の一式。コンセントの穴は、どれも律儀にカバーされたままだった。指を突っ込んで感電しないようにと、俺が一つずつ塞いで回ったものだ。
塞ぐべきは、穴では、なかったらしい。穴は塞いだのに、まさかケーブルのほうから食うとは。
「……電気で、よかったのかよ」
抜けたアダプターを、とりあえずカメラに挿し直した。棚の上で、黒い目玉に小さなランプが点る。生き返った。
これで明日から、朝に灯油をやらなくても、この子はコード一本くわえて、勝手に満ちる。
首を傾けて量を見て、こぼさないよう乳首をあてがう、あの半日ごとの手間が要らなくなる。手が治って、ようやく両手が自由になったところなのに。
開いて、閉じてみる。もう包帯はない。なんでもできる手だった。
なんでもできる手で、この子にしてやることが、また一つ、減った。
……いや。手が空いたなら、それでいい。楽になった。腹が減ったと泣かれるより、勝手に食べてくれるほうが、よほど助かる。助かるに決まっている。
その晩も、リビングに布団を敷いた。
電気を豆球のオレンジ色だけ残して落とす。
横になってしばらくすると、心結が俺の布団のほうへ、ころりと転がり込んできた。相変わらず自分の布団では寝てくれない。
迎え入れてやると、青い光がすうと細くなり、やがて[- -]になった。
見慣れた、この子の寝顔だ。
薄闇にぼんやりと、部屋の隅の青いポリタンクが見えた。この前入れ替えたばかりで、まだなみなみと重いはずだ。
……あれも、物置に片づけないとな。




