第22話 怪奇現象に遭遇する我が子
心結専用のコードを、リビングの隅にこしらえた。
毎回ベビーカメラのコードを引き抜かれては、カメラを増やした意味がない。
カメラ用のコードは手が届かないようにし、コンセントの一つを心結専用にすることにした。延長コードを一本引いて、先を手の届くところに転がしておく。
危なくないよう、根元のカバーと配線の取り回しだけは、念入りに確かめた。
……といっても、この子にとっては危ないどころか、これがごちそうなのだから、世話はない。
これで、灯油をやる必要も、もうない。
ポリタンクは、物置の奥にしまった。朝に注ぎ、帰って注ぎ、寝る前に念のためもう一度――あの毎日の手間が、そっくり消えたわけだ。
楽になった。……いや、楽になってしまった、と言うべきか。
灯油を飲ませてやったあのひとときは、もう来ない。
その、コードを一本引いただけの新しい暮らしに、妙なことが起き始めたのは、それからすぐのことだった。
初めはスマホだ。家の中でだけ、電波が急に細る。
廊下へ出れば戻り、リビングへ入ればまた途切れる。
……ルーターの不調か、あるいは寿命か。
何度も再起動を繰り返しては、首をひねった。
次はテレビもだった。つけた覚えのないチャンネルに変わっている。ひとりでに消え、ひとりでにつく。
……そう安物でもないんだがな。
とはいえ、その程度なら、まだ機械の不調で片づけていられた。
一度だけ、夜、ノートパソコンの画面に、見たこともない文字が並んだことがある。
細かい線のようでもあり、記号のようでもある。ぐにゃりと崩れた行が、一瞬――なにか、呪文めいたものに見えて、背筋がひやりとした。
……いや。まばたきの間に、画面はただのエラー表示に戻っていた。文字化けだ。そう自分に言い聞かせて、そっと蓋を閉じた。
どれもこれも、俺の身のまわりで起きることだった。薄気味が悪くはあっても、まあ、俺が我慢すれば済む話ではある。
……今夜までは、そう思っていた。
その晩は、夕飯のあとだった。
心結はさんざんコードをくわえたあとで、青い光の目をまんまるに灯し、上機嫌で[^^]の顔をしていた。腹いっぱいなのが、こちらにも伝わってくる。
俺が皿を洗っていると、天井の照明が、ふっと暗くなった。
すぐ戻る。また、暗くなる。……明滅、というやつだ。
と思えば、電子レンジが、誰も触れていないのに、ぶうん、と低い音を立てて動きだした。表示窓の数字が、勝手に進んでいく。
「……おい、勝手に動くなよ」
言ってはみたが、相手が聞くわけもない。
スマホを取ろうとして――圏外。家の中で、だ。
どうにも、様子がおかしい。
――背後で、音がした。
振り返る。棚に飾っていた写真立てが、床に落ちていた。
誰も触れていない。
俺はその場に立ち尽くした。
「……なんだ、これは?」
ポルターガイスト。
その一語が、頭をよぎった。
……ばかばかしい。そう笑い飛ばせるはずだった。俺はその手の話を信じたことがない。占いだの、まじないだの、そういうものとは、縁のない人間だった。
だが――ロボの子が生まれた。
托卵の果てに、灯油を飲み、電気を食い、二本の足で歩く子を、現に俺は育てている。この世に常識の通じないことが一つ起こるのなら、もう一つ起こったところで、なにを今さら驚くことがある。霊がいても、呪いがあっても、不思議じゃない――そんなふうに思えるようになっていた。
だけど、その手のものが俺に降りかかるのなら、まだいい。
胃の奥がひやりと縮んだ。
娘だけは、だめだ。
「心結!」
考えるより先に、体が動いていた。
名を呼びながら、あの子のほうへ駆け寄る。
抱き上げ、小さな体を胸に抱え込む。
その瞬間――びりっ、と指先から肘まで、電気が駆け上がった。
霊の狙いは、俺ではなく心結だというのか?
「心結、大丈夫か!?」
しびれの残る腕を、それでも放さなかった。放すものか。
しびれは抱いている間、ずっと走り続けるわけではないらしい。心結が身じろぎするたび、思い出したように、ぴりっと来る。
「くそっ! これはどういう霊現象なんだよ!」
寡聞にして電気を伴う霊現象というのを聞いたことがない。こんなことなら、もっと霊について興味を持っておくべきだったか。
そうすれば、適切な対処法がわかったかもしれないのに……。
塩でも撒けば、多少はましになるのだろうか?
そんなことを考えながら、心結の様子を調べるため、そっと指先を、この子の頬にあてた。
……なんともない。
もう一度。今度は、さっきまでコードをくわえていた口もとのあたりへ、そっと。
ぴりっ。
角度を変え、場所を変え、確かめる。
最初に抱きしめたときは体に触れた途端、電気が走ったのに、今しびれを感じるのは、心結の口もとに触れたときだけだった。
……口?
心結の口。そこになにか霊や呪いに関係するものがあるかと考えてみる。
思い当たるものはない。少なくとも、霊や呪いに関しては。
代わりに、一つ脳裏をよぎるものがある。――電気だ。
心結が食べていたのは電気、今、口から感じるのも電気。
思い出す。
スマホが途切れたのは、いつだった。テレビが勝手についたのは。ノートパソコンが誤作動したのは。
どれもこれも、この子がたっぷり食べたあとだ。今夜もそうだった。
満腹の心結が、上機嫌で[^^]の顔を浮かべている――そのそばでばかり、機械は狂っていた。
……もしかして、電気の食べすぎが原因なんじゃないか?
腹に収まりきらないぶんが、体の外へ漏れ出し、それがまわりの機械を勝手に動かし、電波を乱し、俺の指をぴりぴりとしびれさせていたとしたら――すべて納得がいく。
……霊の仕業なんかじゃ、なかった。
この子が、電気を食べすぎただけだ。
全身から、力が抜けた。
「……食べすぎ、かよ」
あれだけ身構えて、呪いだのなんだのと肝を冷やして――たどり着いた真相が、それか。
「……腹八分目って、言葉、知ってるか?」
思わず、そんな声が漏れた。
心結は、なにを言われたのかもわからない顔で、[^^]とこちらを見上げてくる。
……知っているわけが、ないか。教えてすらいないんだから。
考えてみれば、当たり前の話だった。
好きなだけ食べられるようにと、専用のコードまで用意してやったのは、ほかならぬこの俺だ。腹いっぱいどころか、あふれるほど食べれば、そりゃあ、こんなことも起きるだろう。
自由に食わせた結果が、これか……。
俺は、コードをコンセントから引き抜いた。
これからは、時間を決めて、食べすぎにならないように食べさせてやらないとなるまい。
朝に、帰ってから、寝る前に――なんだ、結局、灯油のときと同じだ。手のかけ方が、また一つ、戻ってきただけの話だった。
楽になったと、思っていたんだがな。
……まあ、いい。手はかかる。かかって、いい。
抜いたコードを握ったまま、俺は心結を見た。
もう電気も漏らさず、ただ機嫌よさそうに、青い光を灯している。
その子が、俺の膝によじ登ってこようとする。
「ぱぱ」
……ああ。
俺は、その小さな体を抱き上げた。
今度は、なんともなかった。




