第23話 予防接種を受ける我が子
朝、心結にコードをくわえさせながら、俺は手帳を開いて今日の日付をもう一度確かめた。
先月末、市から分厚い封筒が届いた。中には予診票が五、六枚と、接種スケジュールの案内が入っていた。
俺はすぐに病院に電話をかけ、土曜日の予約を入れた。「二か月児のワクチンデビューですね」と、受付の女性が事務的に返してきた。デビュー、と言う。この子は、二本の足で歩くほうをとっくにデビューしている。
予診票は昨夜のうちに埋めておいた。
熱、なし。既往歴、なし。服薬、なし。
書ける欄は、あまり多くなかった。
予防接種。一か月健診の帰りに「次は二か月になりましたら、予防接種がありますので」と告げられて、あのとき胃がきゅうと縮んだ。
あれから、この子は歩いた。ベビーベッドを出た。灯油ではなく電気で満ちるようにもなった。
世界がひとつずつ広くなっていくあいだ、俺の胃だけが、あの日と同じ場所で縮んだままだった。
金属の腕に、はたして針が通るものかどうか。
考えても答えは出ない。行けば出る。
病院は、心結が生まれ、一か月健診も受けた、同じ病院だ。
支度を済ませ、車を出した。
待合室の隅に腰を下ろし、心結を膝に乗せた。前は、腕から下ろすなり俺のズボンを掴んで立ち上がったこの子が、今日はおとなしく膝の上に収まっている。
いくつかの視線が流れてくるのは感じたが、数える気にもならなかった。
頭の中は、これから先のことでいっぱいだった。
「七尾さん。七尾心結ちゃん」
名を呼ばれて、診察室に通された。
診察室は、前と同じつくりだった。
こちらも前と同じ、白髪まじりの年配の男の先生だった。
先生はカルテに目を落として、それから心結を見た。
ほんの一瞬、先生の視線が止まる。だが、それだけだった。前より短い一瞬だった。
「では、体調のほうから確認します。今日、熱はありませんね」
「……ええ、たぶん」
たぶん、としか答えようがない。生まれて間もない頃に一度、額にかざす体温計を試した。ピッと鳴って、表示に出たのは体温ではなく、エラーだった。かざす角度を変えても、距離を変えても、電池を新しくしても、この子の額の上では、体温計は数字を出さなかった。以来、俺は熱を測ることを諦めていた。
先生は、それ以上を求めなかった。うなずいて、次の欄に目を移した。
「……接種は、五種混合、肺炎球菌、B型肝炎の三本と、ロタウイルスの経口薬の予定です」
三本。予定どおりに、と言われて、俺は無意識に唾を飲んだ。あの金属の腕に、三本。
診察台の上に、心結を横向きに寝かせる。左の腕が上に来る。
傍らの若い看護師が消毒綿を心結の腕にあてがった。
無論、無反応だ。心結の金属の肌には、綿がかろうじて触れているだけで、なにかが染みこんでいく気配はない。
消毒を終え、看護師が注射器を先生に手渡した。
俺は反対側から心結の体を支え、そっと動かないようにした。
先生が最初の一本の針をあてがい――滑った。
金属の表面で、針先が横へ流れた。先生は無言で角度を変える。もう一度。今度は、より真上から。
――滑った。
三度目。先生が心結の腕に自分の指を添えて、皮膚を張るような手つきで支え、その上から針を落とす。
――入らない。針先が、僅かに、外へ逃げるように曲がった。
先生が針を持った手を止めた。しばらく、その針先を目の前で確かめている。
誰も、口を開かなかった。
診察室に、しんと沈黙が落ちた。
その沈黙を先に破ったのは、消毒綿を手にしたまま横に立っていた、若い看護師のほうだった。
「あの……こういう場合、ウィルスバスターとか、そういう……」
語尾がしぼんでいく。言いながら、これは違うと気づいたらしい。
胸のあたりで、なにかが熱くなった。俺は口を開きかけて――
「……余計なことは、言わないの」
先生が看護師のほうへ目を向けて、低く言った。
口を開きかけた息が、そのまま行き場をなくした。
看護師が頭を下げる。
「……申し訳ありません」
先生は、もうそちらを見ていなかった。曲がった針を、静かにトレイに戻している。
俺は診察台に手を伸ばして、心結を抱き上げた。
先生はトレイを傍らに寄せて、カルテに目を戻した。しばらく、そこにペンを走らせている。
やがて、顔を上げた。
「……今日のところは、これで結構です」
「……はい」
「今後のことは、この子の様子を見ながら、考えていきましょう」
「……はい。ありがとうございました」
俺は頭を下げて、心結を抱いたまま診察室を出た。
家に帰ってから、俺は母子手帳を開いた。
妻の字で受診票が挟まれていた、あの母子手帳だ。
予防接種の記録のページを開く。ワクチンごとに、ページが分かれている。五種混合。肺炎球菌。B型肝炎。ロタウイルス。どのページも、一回目の欄が、まだ白いままだ。当たり前だ。今日、なにも打てなかった。なにも飲めなかった。
しばらく、その白さを見ていた。
次に、いつ、この欄が埋まるのか。あるいは、いつまでも埋まらないのか。
俺には、なにひとつわからない。
母子手帳を閉じた。棚の引き出しに戻す。
振り返ると、心結がリビングの隅で、あのコードをくわえていた。青い光の目がまんまるに灯っている。
「……お前は、そっちで足りるんだから、いいよな」
言ってから、苦笑した。この子に、あんなたくさんの注射が、そもそも要るのかどうかさえ、俺にはもうわからない。
……いや。要らないのなら、それでいい。
心結がコードを口から離して、[^^]の顔でこちらを見上げた。
「ぱぱ」
その一言に、朝からずっと縮んでいた胃が、ようやく、少しずつゆるんでいった。




