第24話 言葉を話す我が子
包丁がまな板を叩く音に、はるちゃんの声が重なる。
背中では、はるちゃんが心結に電気をやってくれている。
「はいはい、そろそろ時間ね」
コードの先から、心結が引き離される気配があった。口が自由になって、ぴゅい、と満足げな音が一つ鳴った。
俺が決めた時間を、彼女はきちんと守ってくれる。俺のように時計とにらめっこするわけでもないのに、なぜか時間の狂いがほぼない。
最初にこの子が電気を食べ始めたと話したときは、さすがのはるちゃんも「えっ」と目を丸くしていた。
それがどうだ。今ではもう、夕飯の支度を頼めば当たり前の顔で引き受けてくれる。
「ななさん、鍋、噴きそうだよ」
「うわ」
慌てて火を弱める。危ない。つい余計なことを考えてしまっていた。
週に何度か、はるちゃんはこうして様子を見に来る。怪我のときに毎日通ってくれたのが癖になったわけでもないだろうに、抜糸が済んで手が元どおりになった今も、ふらりと現れては夕飯を一緒に食べていく。
子どもの頃から面倒をみてきた年下が、いつの間にか俺と娘の面倒をみている。順序がおかしい、と思わないでもない。
まな板に向き直る。
今日はカレーだ。心結は食べないが、はるちゃんの分と俺の分。二人分。
背中で、椅子に座ったはるちゃんが、心結を膝に乗せて話しかけ始めた。
「心結ちゃん、歩けるようになったんだもんね。えらいねえ」
「はる~」
「はいはい、はるだよ。心結ちゃん、賢いね。……そうだ。歩けるのなら、そろそろお喋りもできるんじゃない?」
聞こえてきた会話で、人参でなく指を切りかける。
「……いや、まだ早いだろ」
振り向かずに言った。
歩いたのだって、こっちが驚いているうちの話だ。言葉となればまた別の話じゃないのか。
……いや。歩けるなら、もしかして、そろそろなのか?
人間の子なら、歩き出す頃には初めの言葉も出ると、どこかで読んだ気もする。
その理屈で自分を黙らせて、玉ねぎに手を伸ばした。
だいたい、この子が最初に言った言葉は「ぱぱ」で、二つ目が「はる」だ。それ以上増える気配はずっとない。
急がなくていい。ただでさえ早すぎる成長スピードだ。これ以上急いでどうするというんだ。
「かわいい、心結ちゃん、わかった? かわいい。心結ちゃんも言ってみて」
はるちゃんの声が、やけに弾んでいる。
確かにうちの子は可愛い。自分のことを可愛いと教えてやりたい気持ちはわからないでもない。
でも、「ぱぱ」「はる」の次が「かわいい」ってどうなんだ? 「ぶーぶー」とか「わんわん」とか、普通はそういうのを教えないか?
「かーわいい。ほら、はるは、かわいい」
手が止まった。
ちょっと待て。
今、彼女は何を教えている?
「はるは、わかーい。それから、やさしい」
玉ねぎがしみて、目の奥がじんとした。
心結自身のことを「かわいい」と教えているのかと思って聞いていたが、どうやらはるちゃんのことを指していたらしい。
…………。
背中ではるちゃんの声が繰り返し聞こえてくる。
俺は黙って聞いていた。まだ早いと言った手前、ちょっと口出ししにくい。
それに、どうせ覚えやしないだろう。「ぱぱ」と「はる」から先に進まない子だ。好きに話しかけさせておけばいい。相手をしてもらえるだけ、心結だって嬉しかろう。
鍋に肉を放り込む。じゅう、と音が立った。切った野菜も加えて、しばらく炒める。それから水を注いで、蓋をした。煮えたら、ルウを入れるだけだ。
背中では、はるちゃんがまだ性懲りもなく続けている。
「はるは、かわいい。ね、心結ちゃん」
どうやら、「かわいい」一点に絞ったらしく、さっきからその言葉ばかり聞こえてくる。
いつまでやる気やら……。
「かわいい」
息が、止まった。
はるちゃんの声じゃない。
考えるより先に、体が動いていた。振り返るやいなや、足が勝手に心結のそばへと向かっていく。
その先では、青い光の目が、まっすぐはるちゃんを見上げていた。
心結が、口を開く。
「かわいい」
「言った! 今、言ったよね!? ななさん!」
はるちゃんが膝の上の心結をぎゅっと抱き寄せ、頬をすり寄せている。ウサ耳がぴんと立って、[^^]の顔になった。
……言った。この子が、三つ目の言葉を。
胸の奥が、妙に熱くなる。この歳で、こんなことで、と思う。
歩いたときもそうだった。分単位で成長を記録するような柄でもないのに、こういう瞬間だけは、あとから何度でも思い出せる気がする。
俺は、心結の顔を覗き込んだ。
「すごいな、心結」
声が少し掠れた。心結がこっちを向いて、ぴゅい、と鳴いた。
だが、はるちゃんの膝で得意げにしている心結を見ているうちに、胸の奥の熱に、別の何かが混じってきた。
嬉しい。それは間違いない。ただ、引っかかる。
この子が覚えた三つ目の言葉が「かわいい」。
悪くはない。悪くはないが――これでいいのか?
几帳面な性分が、こういうときに顔を出す。
念のため、と手が動いてしまう。エプロンのポケットからスマホを抜いて、調べ始めた。
赤ん坊が、言葉をどうやって覚えるのか。
出てきたのは、思っていたのと少し違う話だった。
子どもは、目の前にあるものを指さされて、名前を繰り返し聞いて、それでようやく言葉と物を結びつける。だから最初に覚えるのは、まんま、わんわん、ぶーぶー――手で触れて、目で見て、暮らしの中にある、実体のあるものばかりなのだという。
逆に、目に見えないもの――気持ちや、様子を表す言葉は、ずっと後になる。指させないからだ。
画面をスクロールする指が、途中で止まった。
一つの物には、名前は一つ。子どもはそう思い込んで言葉を覚える、と書いてある。だから、いつも同じ人が自分を指さして「かわいい」と繰り返していたら――子どもは、それを覚え違える。
「かわいい」を、その人の名前だと思い込む。
スマホから顔を上げる。
目の前では、はるちゃんが相変わらず、自分を指さして「かわいい」を繰り返している。
まずいんじゃないか、これは。
このまま毎日あれを続けられたら、心結は「かわいい」を、はるちゃんの名前だと思い込む。だとしたら、本当の「かわいい」は心結の中でどうなるんだ?
「……はるちゃん。あのな」
「ん?」
「その、かわいい、なんだけどな」
俺は、たった今調べたことを、なるべく順序立てて話した。
物を指して名前を覚えること。一つの物に一つの名前だと思い込むこと。だから同じ人が繰り返し自分を指さすと、その言葉を、その人の名前だと覚え違えるかもしれないこと。
はるちゃんは、聞き終わると、ぱっと顔を輝かせた。
「えっ、じゃあ心結ちゃん、私のこと、かわいいって覚えてくれたってこと? やだ、心結ちゃんめっちゃいい子じゃない」
「いや、そこは喜ぶところじゃなくて……」
「だってかわいいでしょ、そんなの」
「だからな――」
どう言えば伝わるのか。俺は言葉を探す。
「このままだと……心結が、はるって言わなくなるかもしれないぞ」
はるちゃんの動きが、止まった。
「――え?」
「かわいいが、はるちゃんのことだと思い込んだら……そのうち、はるちゃんを見てかわいいって呼ぶようになって……はるのほうを、使わなく……」
自分でも、どこまで本当か怪しかった。そんなふうにまでなるとは、さすがに記事には書いてない。あくまで俺の想像だ。ただ、いちばん最悪の場合を並べたら、そうなった。実際にはそのうち正しく理解できるようになるのかもしれない。
だが、はるちゃんには効いた。
「それはいや」
ぽつりと落ちた声は、さっきまでの弾みがすっかり抜けていた。
「心結ちゃんに、はるって、呼んでほしい」
「ああ。だから――」
「わかった。ちゃんと、いろんなものを順番に教えることにする」
うなずいて、それから、はるちゃんは少し目を伏せ、独り言みたいにこぼした。
「……かわいいなんて、久しぶりに言われて嬉しかったんだけどな」
その横顔に、いつもの軽さがなかった。
俺は、深く考えずに口を開いていた。
「前から変わらず、はるちゃんは可愛いだろ」
はるちゃんが、目を見開いて、こっちを見た。何か言おうとして言えずにいる、そんなふうにも見える。
俺のほうも、なぜそんなことを言ったのか、自分でよくわからなかった。わからないまま、耳のあたりが熱い。
取り消すのも変だし、続けるのはもっと変だ。行き場をなくして、俺は意味もなく心結のウサ耳を、指先で軽くつついた。
はるちゃんが、ふいに顔をそらした。
「……えっと」
声が、少し上ずっている。
「心結ちゃんに、なにから教えようか。ええと……テーブルでしょ、テレビ、あと、電気……」
部屋のあちこちに顔を向けていく。
頬が少し赤い気がしたが、顔が動くのでよくわからない。……よくわからないことにしておいた。
実体のあるもの。指させるもの。さっき読んだ記事が正しいなら、それでいい。
テーブル、テレビ、電気。はるちゃんが部屋を見回して、まだ候補を探している。
だが、俺は迷わなかった。
心結にまっすぐ指を向ける。青い光の目が、俺の指を見つめた。
俺は、力を込め、ゆっくり、そしてはっきりと言った。
「みゆ」
部屋のものじゃない。テーブルでも、テレビでもない。
一番最初に覚えるべきなのは、この子の名前だ。血は繋がっていなくても、心だけは繋がっていると信じて、俺がつけた名前。
「みゆ、だ」
心結が、青い光をまんまるにした。ウサ耳が、ゆっくり動く。
浅い横一文字の口が、小さく開いた。
「……みゆ」
鳴いたのか、言ったのか。わからない。わかって言ったのかも、わからない。
ただ、この子は確かに、自分の名前を口にした。
俺は、しばらく動けなかった。
返事のかわりに、その頭にそっと手を置いた。
かたい、金属の頭。それでも、温かい気がした。
「……やっぱり賢いね、心結ちゃんは」
心結を抱き抱えたままのはるちゃんの声は、少し鼻声っぽい気がした。
でも、確認するほど野暮じゃない。
俺の声だって怪しいもんだからな。
「……よし。じゃあ次は、テーブルだな」
わざと明るく言うと、はるちゃんが、湿った声で笑った。
「なにそれ。急に真面目」
二人で笑っていると、心結が、ぴゅいと鳴いた。
それに合わせるように、鼻の奥を、つんとしたにおいがかすめた。
……におい?
「……ななさん。火、止めた?」
慌てて振り返る。コンロにかけたままの鍋から、細い煙が立っていた。
「うわ、忘れてた!」
急いで駆け寄り、火を止めて蓋を取る。心結の言葉に気を取られているあいだに、すっかり煮詰まっていた。
水気はとうに飛んで、鍋の底で、具が真っ黒に焦げついている。これはもう、どうやっても食えたものじゃない。
火の始末にはうるさいはずの人間が、これだ。几帳面が聞いて呆れる。
俺の慌てぶりがおかしかったのか、はるちゃんが、今度は声を上げてしゃっくりみたいに笑った。
「みゆ」
その笑い声のなかで、心結がまたそう言った。
娘に自分の名前を覚えさせたかわりに、今夜の晩飯を丸ごと焦がした。……まあ、いい。たまには寿司の出前でも取るとするか。




