第8話 公園デビューする我が子?
出生届を出してから、妙な責任感のようなものが、腹の底にずっと居座っていた。
あの子はこの国の戸籍に、俺の姓で確かに載った。血の一滴も繋がっていない金属の娘が、正式に俺の娘になった。
つまり俺は正式に、あの子の父親になったわけだ。
だったら、と思う。父親が我が子を、家の中にばかり閉じ込めておくのはどうなんだ。外の世界を、見せてやるべきなんじゃないか。空だの風だの、そういうものを。
それに――これは自分でも、少々気恥ずかしい理屈なんだが。
誰になにを言われても、「これは、俺の娘です」と胸を張って言い返せる。そういう父親に、俺はなりたかった。届を一枚出しただけじゃ足りない。外へ連れ出して世間の風にあてて、それでも娘だと言い切れて、初めて本物なんじゃないのか。
……我ながら、ずいぶんと力の入った理屈だ。
とはいえ、いざ連れ出すとなると、そもそも赤ん坊を外に出すのに、決まった頃合いのようなものがあるんじゃないかという気もする。
俺はスマートフォンの検索窓に、「公園デビュー いつから」と打ち込んでみた。
出てきたのは、どれも判で押したように、「一歳前後が目安」。ついでに、砂場のものを口に入れる時期は目を離さないように、などと書いてある。
……砂場のもの。うちの娘は、灯油を口に入れるんだがな。
それはさておき、だ。一歳である。うちの子は、まだ生まれて二週間だ。二週間で公園なんぞ、人間の子なら正気を疑われる。……俺だってそう思う。
しかし、記事をいくつか読み進めていくうちに気づいた。どうやら、この「一歳」という数字そのものには、たいした意味はないらしい。
肝心なのは月齢じゃなかった。首がすわっているか。支えなしで、きちんと姿勢を保っていられるか。ベビーカーに、ぐらつかず座っていられるか。
要するに、身体のほうだ。「一歳前後」というのは、人間の子がだいたいその頃にそこへ届く、というだけの目安にすぎない。
だとすれば、見るべきは数字じゃない。この子の身体が、もうそこへ届いているか。……確かめるべきはそこだ。
俺は傍らのベビーベッドを覗き込んだ。
心結は、白い丸っこい体がまるでそここそが自分の城であるかのように、でんと収まっている。試しに、その頭を指先でそっと横へ傾けてみた。
と、心結は自分の力でゆっくりと首を起こして、頭を元へ戻した。支えてやらなくても、ぐらつかない。ついでとばかりに、こちらへ手を伸ばしてくる。五本ある機械の指を、にぎにぎと開いたり閉じたり。そうして、「ぴゅい」と一つ機嫌よく鳴いた。
……首もすわっている。手も自分の意思で動かしている。人間の子なら、首がすわるのに三、四か月、手を狙って動かすのにもそれなりの月日がかかると記事には書いてあった。
それを、この子は生まれて二週間で、まとめてやってのけている。
もっとも、金属でできた子に人間の発達の物差しを当てるのも、我ながら妙な話ではあるが。
ともかく、身体のほうは、とっくに追いついている。追い越しているくらいだ。
なら。連れていっても、まあ、問題はないだろう。
それに、公園には同じように子供を連れた父親もいるだろう。うまくすれば、話の一つも、するかもしれない。……いわゆる、パパ友とかいうやつだ。
この歳になって、新しく友達を作るなんて、考えたこともなかった。職場の人間とは、三年もすれば、辞令一枚で散り散りになる。学生時代の連中とは、年賀状のやりとりくらいだ。
それでも、子育てという同じ苦労を抱えた相手となら。案外、歳の差なんぞ関係なく、話せるものかもしれない。
……いや、なにを浮かれているんだ。まずは、公園デビューを無事に済ませてからの話だろう。
休みの日の午前。俺は、慌てて買い揃えたベビーカーに心結を乗せて、近所の公園まで歩いた。
公園に着いて――俺はいきなりたじろいだ。
休日の公園は、思ったよりも賑わっていた。そして、子供を連れているのは、揃いも揃って若い親ばかりだった。当然、父親たちも皆若い。
二十代か、いっても三十そこそこ。Tシャツにハーフパンツといった身軽な格好で、子供を肩車したり、一緒にボールを追いかけたり。
……みんな、若い。動きがいちいち軽い。
その真ん中に四十二歳。頭頂部が心もとなくなってきた男が、ベビーカーを一台押して、ぽつんと突っ立っている。
……場違い、という言葉がこれほど似合う光景も、そうはない。
ベンチの端に腰を下ろす。心結のベビーカーをそっと脇に寄せて。
……さて。パパ友とやらは、どうやって作るものなんだ。
まさか、こっちから「どうも、パパ友になってください」と、飛び込み営業みたいに声をかけるわけにもいくまい。相手だって、見ず知らずの中年にいきなり話しかけられても、面食らうだけだろう。
結局、俺はしばらくただ座っていた。心結と二人きりで。
若い父親たちは、それぞれの子供とそれぞれの時間を過ごしている。その輪の中に、俺が割って入る隙間は、どこにもなさそうに見えた。……場違いな空気の中に座っていると、神経がじりじりとすり減っていく気がする。
……いや。だめだ。
これじゃあ、なにも変わらない。ベンチで縮こまっているだけなら、家にいるのと同じじゃないか。
誰になにを言われても、娘だと言える父親になる。……そう決めて、ここまで来たんだろうが。それが、若い連中の顔色をうかがって、身動きも取れずにいるとは。情けない話だ。
俺は、意を決して立ち上がった。
すぐそばで、同じようにベビーカーを押している、一人の父親がいた。歳はやはり若い。が、他の連中よりは、いくらか落ち着いて見えた。
あの人なら、話しかけても無下にはされないかもしれない。
ベビーカーの中では、その子供が、小さな手をぱたぱたと動かしていた。ふっくらとした頬の、いかにも人間らしい赤ん坊だ。
俺はぎこちなく口を開いた。
「あの……可愛い、お子さんですね」
我ながら硬い。まるで面接みたいな声が出た。
だけど、相手の父親は、ぱっと顔をほころばせた。
「あ、どうも! いやあ、うちの、もう手がかかっちゃって」
……通じた。
どうやら、無下にはされなかったらしい。子供の話というのは、案外、他人どうしの垣根をあっさりと越えるものらしい。
二言、三言。月齢がどうの、夜泣きがどうの、という話を向こうが気さくに振ってくれる。あいにく、うちには夜泣きも月齢もないので、俺はその半分もまともに相槌が打てなかったが、それでも、会話はどうにか成り立っていた。
……いけるかもしれない。パパ友。
「そちらのお子さんは、おいくつなんですか?」
……来た。
ごく自然な流れだった。こっちが向こうの子を褒めたんだ。向こうがこっちの子を覗きに来るのは、当たり前の礼儀だ。
止める間もなかった。父親は人懐こい笑顔のまま、俺のベビーカーをひょいと覗き込んだ。
そして――
固まった。
笑顔を貼りつけたまま、微動だにしなくなる。
ベビーカーの中の、白い、丸っこい、金属の塊。ゴーグルの奥では、青い光が記号みたいな目を二つ灯している。頭の上にはウサギみたいな耳。
……そりゃあ、固まるだろう。誰だって固まる。
しまった、と思ったときには、もう遅かった。
この人の目に、俺はどう映っている?
……おもちゃを、いや、ロボットを、後生大事にベビーカーに乗せて、「うちの子です」と言い張っている、頭のおかしな中年。そうとしか、見えていないはずだ。
違う。違うんだ。俺は慌てて言葉を継いだ。
「あ、いや、これ、こんな見た目ですけど……ちゃんと、生きてるんです。私の、娘なんですよ。ほら」
言いながら、俺はベビーカーの中の心結に、望みを託した。
……頼む。いつもの、あれをやってくれ。「ぴゅい」と、一声、鳴くだけでいい。それが無理なら、家の中でやるように、手を伸ばすでも、首を動かすでも、なんでもいい。おまえが、ただの機械じゃないってことを、この人に見せてやってくれ。
だが――
心結は動かなかった。
いつもなら、頼みもしないのに、こちらへ手を伸ばしてくるくせに。今は手をだらんと下げたまま。ぴんと立っているはずのウサ耳も、ぺたりと伏せている。ゴーグルの青い光は、いつもより心なしか沈んで見えた。
……緊張、しているのか。初めての外。初めての他人。それとも――
それとも、こんなふうに、見世物みたいに他人へ差し出されるのが嫌なのか。
……いや。この子にそんな込み入った考えがあるものか。ただ、固まっているだけだ。そうに決まっている。そうに決まっているんだが――
「ちょっと……心結。いつもみたいに、やってくれよ。な?」
声がみっともなく上ずった。
いつもは、放っておいても、うるさいくらいに「ぴゅい、ぴゅい」と鳴くくせに。よりにもよって、なんでこういうときに限って。
心結はぴくりともしなかった。青い光をただ静かに灯したまま。まるで、電源の切れた玩具みたいに。
相手の父親は、しばらく俺とベビーカーの中を交互に見比べていた。
やがて、その顔に貼りついていた笑顔が、ゆっくりと別のものに変わっていった。
――憐れむような目だった。
困った人を、遠くから見るときの目。触れてはいけないものに、うっかり触れてしまったと気づいた、そういう目。
「……可愛い、赤ちゃんですね」
そう言い残して、父親はベビーカーを押して、そそくさと俺のそばから離れていった。
可愛い、赤ちゃん。……その言葉が、これほどこたえるとは思わなかった。
この間の、あの窓口職員の「いいお名前ですね」とは、まるで種類が違う。あれは、なにも知らないがゆえの、まっさらな善意だった。だが、今のは違う。なにかを察して、そのうえで、これ以上こちらを傷つけまいと、慎重に選び抜かれた優しさだ。
……優しくされて、こんなにこたえるとはな。
おかしなものだ。
この間、市役所の窓口は、この子が金属だろうがなんだろうが、なんの迷いもなく、あっさりと届を受け取った。国はこの子を疑いもせず受け入れた。
なのに。休日の公園の、たった一人の父親は、受け入れてくれなかった。
国家というのは、案外、こういうことには、目が節穴なのかもしれない。……いや。生身の人間一人のほうが、よっぽど正直だというだけの話か。
その後はもう、パパ友づくりもなにもなかった。俺は逃げるように、ベビーカーを押して公園を後にした。
家に着く。玄関を上がって、ベビーカーから抱き上げ、ベビーベッドの上に下ろしてやると。
心結はけろりとした顔で、ウサ耳をぴんと立てた。そして、こちらへ手を伸ばして、五本の指を、にぎ、にぎ、と動かしながら、「ぴゅい♪」と、実に上機嫌に鳴いた。
……おい。
さっきのは、いったいなんだったんだ。公園では、あれだけうんともすんとも言わなかったくせに。家に帰った途端、これか。
ベビーベッドの上で一人ご機嫌に鳴いている金属の娘を、俺はしばらく眺めていた。
誰にも娘だとは認めてもらえなかった。胸を張るどころか、憐れまれて逃げられた。子供の公園デビューのはずが、いつの間にか俺自身の社交デビューにすり替わって――そいつが、それはもう無残にこけた。
……まったく締まらない。
俺は、心結の丸くて硬い頭を、指先でこつんと小突いた。
「……俺の公園デビュー初日は。大失敗だ」
心結は、そんな俺の気も知らずに、「ぴゅい♪」と、もう一度上機嫌に鳴いた。




