第7話 受理される我が子?
出生届は鞄の中にある。
白紙じゃなくなったあの届と、母子健康手帳。今朝、家を出るときに、封筒ごと放り込んできた。
役所に着いてからも俺はそれを出さず、机の脇に置いた鞄のことばかり気にしていた。
問題はいつ出しに行くか、だった。
朝一番はだめだ。
朝の窓口は転入だの、証明書だのを求める市民で混み合う。それに、こっちの課はこっちの課で、朝は片づけることが山ほどある。届け出のために時間休を取るとしても、朝一から抜けられるわけがない。
昼休みもだめだ。市民課が一番立て込む時間帯だからと、職員は昼どきに私用の届を出さないよう通達が出ている。守る側の人間が、率先して破るわけにはいかない。
それにその昼どきは、窓口は開いてはいるものの、担当職員は、十一時半と十二時半の二班に分かれて、交替で飯を食う。つまり、ただでさえ人手が薄い。
通達がなかったとしても、のこのこ顔を出して手を煩わせるのは気が引けた。
消去法でいくと、残るのは午前なら十時から十一時。午後なら二時から四時あたり。あとは、こっちの仕事に一区切りついて、時間休が取れる頃合いを選ぶしかない。
だとすれば――昼を過ぎて、二時。
午前の決裁を全部片づけ、昼飯も済ませ、フロアがいくらか凪いだその時間に、俺は狙いを定めた。
我が子の出生届を、たった一枚出すだけのことに、なんだって俺は、犯行時刻でも見計らうみたいな真似をしているんだか。
二時、少し前。俺は席を立って、課長に声をかけた。
「すみません、ちょっと、時間休で抜けさせてもらいます。娘の出生届を出しに行きたいので」
「ああ、係長。どうぞ、構わないよ」
課長は書類から顔も上げずに言った。
子供が生まれたことは、とっくに、みんな知っている。半休を取った、あの日から。
隣の席の今年度に異動してきた若いのが、へえという顔をした。
「係長、出生届、まだ出してなかったんですか。珍しいですね」
……珍しい。ああ、そうだろうとも。書類なら五分で片づける、三十七・〇度まで測るのが取り柄の男が、届出の期限をずるずるとぎりぎりまで放っておいたんだ。
「まあ、いろいろ、立て込んでてな」
口をついて出たのは、そんな言い訳だった。
立て込んでいたのは事実だ。なにしろ、托卵され、ロボが生まれて、妻に逃げられたんだから。
だけど、出せなかったのは、俺が書けなかったためだ。……が、そんな本当のことを、この若いのに聞かせたところで仕方がない。
パソコンで時間休の入力をして、俺は鞄から封筒と母子手帳を抜きとり、濃い色のクリアファイルに入れると、フロアを出る。
階段を下りて一階へ。同じ庁舎の、市民課の窓口。俺が普段いるフロアから、ほんの少し下りるだけの場所だ。
そのわずかな距離が、やけに遠く感じた。
歩きながら、クリアファイルの、軽いはずの妙な重さを感じる。
中身は、昨夜さんざん見返した。子の名前。俺の氏名。母親欄の名前。届出人の欄。……何度確かめても、不備はないはずだ。
ないはずなんだが……。
気がかりなのは、右半分――医者が書く、出生証明書のほうだった。
あそこに書かれていること自体は、別に難しくもなんともない。身長、体重、子の性別、生まれた時刻。俺にだってちゃんと読める、当たり前のことばかりだ。
……当たり前のはずなんだ。
だが、ふと思う。この当たり前に見える文字の、どこかに――たとえば体重の数字の並びだとか、ほんの一画の書き癖だとかに、俺には読み取れない、なにか特別な符牒が紛れ込んでいやしないか。
医者が書いたときにペン先から落ちたらしい、小さなインクの染み。あれはただの染みか、それとも――この子供は普通ではありませんよ、という専門家同士にしか通じない目印だったりはしないか。あるいは、モールス信号的に極秘に伝えるためのものだったり……。
…………。
いや。落ち着け。染みは染みだ。俺はなにを疑っているんだ。人を疑うのなんて、一番苦手なはずだろう、俺は。
なのに、我が子のことになると、紙の染み一つにありもしない意味を探してしまう。
……我ながら、疑い方が下手くそだ。
それに、もう一つ気がかりがあった。
もしも。もしも窓口で、この子がロボットだと気づかれてしまったら――
守秘義務がある、とは言う。届の内容をみだりに他言してはいけない。……が、俺は内側の人間だ。それが、どういうものか知っている。
同じ課の職員同士なら、業務に必要な情報は、当然共有する。それは守秘義務違反ですらない、まっとうな仕事だ。
それに「今日、こんな届が来まして」なんていう、休憩室でのなんということもない世間話。そこへ、たまたま別の課の人間が居合わせる。人づてに聞いた話は、自分で受け付けたときよりも、ずっと口が軽くなる。
――そうやって、話はあっという間に庁舎じゅうを回る。
七尾係長のところの子は、どうやらロボらしい。
頭の中でその伝播の経路が、いやになるほど克明に描けてしまう。なにしろ、俺自身がその庁舎の人間なのだから。
一階に着いた。
市民課の窓口は、思ったとおり空いていた。昼の混雑も引けて、待っている市民もほとんどいない。
――しまった、と思った。
気を遣って、わざわざ空いている時間を選んできた。できるだけ手を煩わせないように。
だが、空いているということは、つまり、この一枚の届に、窓口の職員がたっぷり時間をかけて、じっくり目を通せるということだ。
混んでさえいれば、急かされるように、流れ作業でさっと通してくれたかもしれないのに。
……律儀が裏目に出た。
番号札を取るとすぐに、俺の番号が呼ばれた。
窓口の職員は、同じ部署で働いたことはないが、顔と名前くらいは知っている若い女性職員だった。廊下ですれ違えば、会釈くらいはする。……その程度の間柄。
「出生届、お願いします」
俺はクリアファイルから届と母子手帳を取り出し、そっと台の上へ滑らせた。
職員がそれを受け取る。
……見ている。
一行、一行。俺の書いた欄を、上から順に。届出人。父の氏名。母の氏名。子の氏名。生年月日。
その視線が右半分――医者の証明書の欄へ移った。
俺は息を止めた。
染みだ。あの染み。気づくな。頼むから、なにも――
職員は、証明書の欄をほんの一瞥した。そして、なにごともなかったように、視線を次へ滑らせた。
……なにもなかった。
当たり前だ。染みは、ただの染みだったんだ。
ほっと肩の力が抜けかけた、そのときだった。
「あの、こちら――」
心臓が跳ねた。
バレた。やはり、あの染みか?
どうやってかはわからない。だが、この子が金属だと気づかれた――
一瞬のうちに、頭の中を最悪の想像が駆け抜けた。守秘義務。休憩室。庁舎じゅうを回る噂。七尾係長のところの子は――
「――こちらの、性別の欄なんですが」
……性別。来た。俺が「女」につけたあの印。どこか自信なさげに、迷いながらつけたチェックだ。
やはり金属に性別なんてなかったのか……。見た目はあんなに女の子っぽいのに……。
「少し、チェックが薄くなってしまっているようで。恐れ入りますが、はっきりわかるように、もう一度、濃くなぞっていただけますか」
…………。
……なぞる?
それだけ?
職員が見ていたのは、この子が女か男か、なんてことですらなかった。ただチェックの線が薄い。それだけの話だった。
差し出されたペンを、俺は受け取った。
□に小さくつけたチェックの印。あの夜、まだ名前を決めきる前に、迷いながら付けたあの印だ。
ペン先を、そこにそっと当てる。
……一瞬。ほんの一瞬だけ、手が止まった。
――だが、今度は迷わなかった。
ぐっと力を込めて、俺はその印を、はっきりと濃くなぞった。
女の子だ。俺の娘だ。……もう迷いはない。
「はい。結構です。ありがとうございます」
職員は届を、実に事務的に手元に引き寄せた。
「受理いたしました。母子健康手帳のほうにも、届出済みの証明をお入れしておきますね」
事務的な言葉がいくつか続く。
俺はほとんど上の空で、はあとか、どうもとかうなずいていた。
ぽん、と母子手帳が戻ってきた。
届を書くのに悩んだことも、出すのにびくびくしていたことも、まるで拘るほどのことじゃなかったみたいに。台の上に、ぽつんとその手帳だけが。
……終わった。
この子が金属だろうがなんだろうが、この国はなんの迷いもなく届を受け取った。
……なんだ。誰も咎めやしないじゃないか。
母子手帳に手を伸ばすと、職員がふと顔を上げた。
「七尾係長。お子さん、ご誕生、おめでとうございます」
向こうも、俺が誰だかわかっていたらしい。
「心結ちゃん……いいお名前ですね」
いい名前。……そうだろうか? 自分でもまだ据わりが悪いような気もする。
だが、悩んだとは少し違う。名前のほうは、決まるときは一息で決まった。俺がずっと決められずにいたのは、もっと手前の――この子を、我が子としてこの世に届け出す、その覚悟のほうだった。
……が、そんなことは、この人には関係のない話だ。
この人は、この子を普通の赤ん坊だと思っている。悩みに悩んで名づけた、子煩悩な父親だと思っている。……なにも知らないから言える「おめでとう」だ。
それでも、そのなにも知らない「おめでとう」が、不思議と悪い気はしなかった。
窓口を離れる。
クリアファイルはもう軽い。あの届は今、この役所の公文書の一枚になった。
七尾心結。血の一滴も繋がっていない金属の娘が、俺の姓を分け与えられて、この国の戸籍に、確かに載った。
前例があるんだろうか? 金属の娘を持つ父親として、正式に登録された男なんて。
まあ、いないだろうな。統計にも載りようがない。
階段を上る。自分のフロアへ。時間休はまだ残っているが……まあ、休みを切り上げて、仕事に戻るとするか。
そして、あと少しだけ働いたら帰ろう。
帰って、娘の腹を満タンにしてやらないと。
……娘の腹を、満タン。
妙な父親だと思う。……が、まあ、俺は今日、そういう妙な父親に、この国で正式になったわけだ。
悪い気分じゃなかった。




