第6話 我が子?の名前
あれから何日が過ぎただろう。
出生届は、相変わらずテーブルの上に置かれたままだった。子の名前の欄は白いまま。ペンも、その隣でじっと出番を待っている。
生活のほうはどうにか回り出していた。
朝七時半に灯油を満タン。昼はスマホのカメラでちらりと様子を確かめて、夕方に帰って、もう一度満タン。カメラのおかげで、昼のダッシュはしなくて済むようになった。
なのに、あの届だけがどうしても進まない。
名前を書けば、それでいいだけだ。ただ、それだけのこと。
三十七・〇度まで測る几帳面が取り柄の俺が、たった数文字を書けずにいる。
カレンダーに目をやる。生まれた日から数えて――残りは、あと三日。
……三日。いよいよ、まずい。
公務員が、届出の期限を破るわけにはいかない。頭ではわかっている。わかっているのに、ペンを持つと指が止まる。
その日の昼も、俺は半ば無意識にスマホを開いていた。
小さな画面の中に、寝室が映っている。
ベビーベッド。その中でピンクと白の丸っこいのが、ぽつんと寝ていた。ゴーグルの青い光が、ぼんやりと明滅している。
誰もいない部屋で、たった一人。
ちくりと、また胸の奥が痛んだ。ここのところ、この痛みにもすっかり慣れてしまった。
ふと思う。
俺は、いつからこうしているんだろう。
昼休みのたびに車を飛ばして、顔だけ見てとんぼ返り。カメラが来てからは、暇さえあれば、この手のひらの画面を覗き込んでいる。無事を確かめて、それでようやくほっと息をつく。
姿が見えないと、落ち着かない。顔を見ないと、安心できない。
……これはなんだ?
いや。わかっている。とっくに、わかっていた。
心配だの、放っておけないだの、もっともらしい言い訳を並べて、認めずにいただけだ。
昼に走って帰る男を、世間はなんと呼ぶ。画面の中の子が一人でいるだけで、胸を痛める男をなんと呼ぶ。
……親、だろう。
血が繋がっていようが、いまいが。金属だろうが、なんだろうが。
俺はもう、とっくにあいつの親をやっていた。
届を出す覚悟が決まらないなんて、ずっと言い訳していたが――
覚悟なんて、とっくの昔に決まっていたんじゃないか。俺が、気づいていなかっただけで。
その夜。俺は家に帰るなり、ロボ子の腹を満タンにしてやってから、テーブルの前に座った。
出生届。白紙のままの名前の欄。
戸籍に載せていいのかなんて、ずっと自分に問うていた。
馬鹿な話だ。とっくに答えは出ていたのに。
ペンを取る。……今日は、書ける気がした。
いや、書く。書くと決めた。
問題は――名前だ。
どんな名前を、つけてやろうか。
うんうん唸りながら、俺はロボ子の方に目を向けた。ベビーベッドの中で、ウサ耳をぴこぴこと動かしている。
血は繋がっていない。それどころか、人間ですらない。どこの誰の子とも知れない、金属の塊だ。
でも――血は繋がっていなくても、心だけは繋がっていると信じたい。
……まあ、ロボットに心があるのかどうかは、ともかくとして。
心を、結ぶ。
……心結、か。
試しにメモ用紙に書いてみる。
悪くない。いや、悪くないどころか、これしかないという気がした。
血の繋がりの代わりに、心で結ばれた子。この子のための名前として、これ以上のものは思いつかなかった。
漢字は決まった。「心」に「結」で、心結。
問題はなんて読ませるか、だ。
「こころゆ」……いや、据わりが悪い。「しんゆ」……語呂が硬い。うんうん唸っても埒が明かないので、スマホで「心結 名前 読み方」と検索してみた。
ずらりと候補が並ぶ。みゆい。みゆ。みう。ここな。同じ漢字でも、世の親たちはいろんな読ませ方をするものらしい。
その中の、一つに、目が留まった。
――みゆ。
なぜだか、すとんとしっくりきた。理由はうまく言えない。ただ、この子は「みゆ」だ。そう思った。
心結と書いて、みゆ、と読ませる。
初めて見た人には、読めないかもしれない。心を「み」とは、普通、読まない。
真面目だけが取り柄の、面白みのない公務員が。よりにもよって、一発では読めない、当て字みたいな名前をつける。……柄にもない、とは思う。
でも、いい。初見で読んでもらえなくたって構わない。この名前こそが、この子の名前だ。俺にはもう、そうとしか思えなかった。
俺はペンを握り直した。
出生届の、子の氏名の欄。
まず、氏を書く。
……俺の、氏だ。
妻が白紙で残していった、その欄に。俺は自分の姓を書き入れた。
七尾。
……親父から受け継いだ、この姓だ。親父を亡くしたのは、俺が二十代の頃。お袋も三年前に逝った。……血の一滴も繋がっていない金属の子に、亡くなった親の姓を分けてやる。
我ながらおかしな話だと思う。
でも、不思議と手は止まらなかった。
姓の隣に、名を続ける。
心結。
一画、一画。いつもの書類より、ずっと丁寧に。
――七尾 心結。
うん。悪くない。悪くない名前だ。
父の氏名の欄には、俺の名も書き入れた。母の欄は、しばらくペンを浮かせて……決意を込めて、あいつの代わりに俺が書いた。
家を飛び出したのはロボが生まれてパニックになったためで、落ち着いたら戻ってくるんじゃないかと、心のどこかで期待していた。でも、その気配すらない。――なら、母親の役目も俺がやる。そういう決意の代筆だ。
書き終えて、俺はペンを置いた。
テーブルの上の紙には、確かに名前があった。七尾心結。……俺の娘の名前だ。
娘、か。自分で思って、なんだかむずがゆくなった。
立ち上がってベビーベッドのそばに行き、覗き込む。ロボ子に、いや――
「……心結」
初めてその名を呼んでみた。
ゴーグルの青い光が、ふとこちらを向く。ウサ耳がぴくりと立った。
呼んでみたはいいが、なんというか、こう、気持ちが落ち着かない。長年連れ添った相手を、急に改まって名前で呼ぶようなそんな気恥ずかしさだ。
……まだ慣れない。
「まあいい。ロボ子、飯は足りてるか?」
結局、いつもの呼び方に戻ってしまった。
「ぴゅい♪」
ロボ子は機嫌よさそうに鳴いた。青い光の目が、すっと細くなって笑った形になる。[^^]こんな形に。
……立派な名前をもらったところで、こいつには関係ないらしい。
心結。みゆ。
いい名前だと思う。俺が生まれて初めて、誰かのためだけに、必死で選んだ名前だ。
まあ、当分はロボ子と呼んでしまいそうだが。
俺は白紙じゃなくなった出生届を、そっと封筒にしまった。
明日役所に出しに行こう。……よりにもよって、俺の職場に。




