第5話 手のひらの中の我が子?
週が明けた。月曜日。俺は朝五時に起きた。
目覚ましより早く、勝手に目が覚めたのだ。
朝七時半、予定通りロボ子の腹を満タンにして、ゲージが緑になるのを見届ける。
念のため、家じゅうを点検した。
ガスの元栓を締め、火の気になるものがないか、もう一度だけ見て回った。もしものときに備えて、ベビーベッドの周りにはクッションを並べておいた。
……考えてみれば、こいつは金属だ。多少ぶつけたくらいで怪我をするとも思えない。
それでも、心配は心配だった。何かあってからでは遅い。中途半端は、性に合わない。
ベビーベッドの柵を、もう一度確かめる。
「……いいか、ロボ子。おとなしくしてろよ。夕方には、帰ってくるからな」
「ぴゅい」
わかっているのか、いないのか。
いつもの調子で鳴くその声に、少しだけ後ろ髪を引かれながら、俺は家を出た。
……職場に着いてからも、どうにも落ち着かなかった。
押した印鑑は傾いているし、電話の応対も上の空になる。
頭の隅にずっとあの金属の子がいる。
今ごろ、どうしているだろう。泣いていないか、腹をすかせていないか。
……いや、腹は満タンにしてきた。大丈夫だ。大丈夫なはずだ。
だが、姿が見えないというのが、こんなにも落ち着かないものだとは。……耐えられん。
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、俺は席を立っていた。
ここは地元の役所だ。家までは車で十分とかからないし、昼休みは四十五分ある。
往復二十分。飯は道中コンビニのおにぎりを片手で放り込めばいい。梅と、鮭。
残りの二十分。
あいつの顔を見て戻ってくれば――十分いける。
俺は車を飛ばした。
玄関を開け、奥のリビングへまっすぐ向かい、ベビーベッドを覗き込む。
……いた。
ロボ子はベッドの中で、ゴーグルの青い光をぼんやり明滅させていた。俺に気づくと、ウサ耳がぴくっと動く。
「ぴゅい♪」
……ああ、なんだ。無事じゃないか。全身から力が抜ける。
……いや、こんなことでいちいち安心してどうする。金属だぞ。頑丈だと、出がけに自分で言ったばかりじゃないか。
俺はおにぎりの最後の一口を飲み込み、哺乳瓶で灯油を少し飲ませてやってから、また役所へとって返した。
午後の仕事は、少しだけ身が入った。
だが、この昼休みダッシュ、今後も続けていけるかと考えると――正直難しい。トラブルが起これば、昼休みが潰れることは決して珍しくはない。
世間の認識と違い、毎日規則正しく四十五分の休憩が取れるほど公務員は楽じゃない。
それに、見に帰ったところで、俺にできることはほとんどない。ただ顔を見て、無事を確かめて、とんぼ返り。
我ながら、非効率きわまりない。何か、いい手はないものか……。
そんなことを考えながら、火曜日、昼休みまでの残り時間を気にして、時計を頻繁にチェックしていると――
「係長、さっきから随分時間を気にしてますね」
声をかけてきたのは、隣の席の若手だった。今年度、この下水道課に異動してきた真面目な男で、確か、去年子供が生まれたと言っていた。
「……ああ、いや――」
俺は口ごもった。なんと説明したものか。
実は先週子供が生まれまして、ロボットなんですが、托卵でして、おまけに妻が逃げまして、今、家に一人でして。
……言えるか、そんなこと。
「ちょっと、家にね。小さいのが、いるもんだから」
当たり障りのない言い方に留めておいた。嘘はついていない。
「係長のとこも生まれたばかりですもんね。わかります、心配ですよね」
若手はしたり顔でうなずいた。
心配の内容が大きく違うような気もするが、子供の心配というくくりでは同じだと言えないこともないだろう。
「うちも今ちょうど一歳で。もう、目が離せなくて。夜泣きとかも、大変じゃないですか」
「……ん、まあ」
うちの子は、一度腹を満タンにしたら朝までもつから、夜泣きはない。たまに、ぴゅいという声が聞こえるが、きっとあれは夜泣きには入らないだろう。
「あ、係長。ベビーカメラ、使ってます?」
「……ベビーカメラ? ちっちゃいカメラか?」
聞き慣れない単語に、瞬きが早くなる。
「違いますって。カメラで赤ちゃんの様子を映すためのやつですよ。うちも使ってて、めちゃくちゃ助かってます」
若手は自分のスマホをこちらに向けてみせた。画面の中に小さな部屋が映っていて、その真ん中で、赤ん坊がすやすやと眠っている。
「これ、家に置いたカメラの映像なんです。今、リアルタイムで」
「……リアルタイム。ここから、家の中が見えてるのか?」
「はい。便利ですよ。いつでも可愛い我が子が見られて」
……なんだと。
俺の頭の中で、何かがかちりとはまった。
家にカメラを置いて、それをスマホで見る。……つまり、昼にわざわざ帰らなくても、役所にいながら、あの子の様子が見られるということだ。
それなら、万が一何かあれば、時間休をもらってすぐに飛んで帰ってやることができる。
「それ……高いのか?」
「ピンキリですけど、安いので問題なく使えますよ。ネットですぐに買えますし。設定も簡単で。おすすめの、送りましょうか?」
「……頼む」
思わず前のめりになっていた。
若手はきょとんとしてから、少し笑った。
「係長、めちゃくちゃお子さん好きなんですね」
「そういうわけじゃ、ないんだが……」
反射的に、否定していた。
ただ、放っておけないだけなんだ……。
その夜、俺は教わったとおり、ネットでベビーカメラを一台注文した。
……ぽちっと。
文明の利器に感謝だ。
画面には「お届け予定日」が表示されていた。
金曜日か……。配送がこれほど待ち遠しいと感じたことはなかった。
カメラが届くまでの数日は、相変わらずの昼休みダッシュだった。注文したという事実だけでは、子供の腹はふくれないし、姿も見えない。
水曜も木曜日も、俺はコンビニのおにぎりを片手に車を飛ばし、ロボ子の顔を見てはとんぼ返りを繰り返した。
……早く来い、カメラ。
注文してからというもの、そればかり考えていた。
そして、金曜日。仕事から帰ると、玄関先に小さな段ボールが届いていた。
……来た。俺は荷物を抱えて、いそいそと部屋に上がった。
夕飯の灯油を飲ませるより先に開封していて――いや、ロボ子の飯が先だな。順番を間違えるところだった。
反省して、まず給油。それから開封。
説明書とにらめっこしながら、カメラをリビングの棚に据える。教わったとおり家のWi-Fiに繋ぎ、スマホにアプリを入れる。
……映った。
小さな画面の中に、リビングが映し出される。ベビーベッド、その中の、ピンクと白の丸っこい塊。
試しにリビングを出て、トイレの便器に腰を下ろし、スマホを覗き込む。
……見える。ちゃんと見える。
別の部屋にいても、この手のひらの中に、あの子がいる。
ゴーグルの青い光がぼんやり明滅し、耳は静かに垂れている。誰もいないリビングで、ロボ子はただ、ぽつんと寝ていた。
……そうか。俺が仕事に行っている間、あの子はこんなふうに、誰もいない部屋で、たった一人でいるのか。
――ふいに、胸の奥が、ちくりとした。
安心したはずなのに。これで昼に走って帰らなくてもよくなって、楽になったはずなのに。なんだか、妙に、寂しいような。
……いや、何をしんみりしているんだ、俺は。
便利になった、それでいいじゃないか。効率的だ。我ながら実に合理的な解決策じゃないか。
……うん。そういうことにしておこう。
週末が来た。カメラのおかげで、平日をどうにか乗り切れる目処は立った。
燃料の間隔も、朝と夕方の二回で足りるらしい。それだけ満タンにしてやれば、こいつは機嫌よくしてくれる。
……生活は、回り出した。妻のいない、金属の子との、奇妙な生活が。
だが、一つだけ。どうしても手のつけられていないことが、あった。
俺はテーブルの上の、あの書類を見た。
出生届。あれからずっと置きっぱなしの、白紙のままの。
……名前か。
届を出さなきゃいけないが、そのためには名前がいる。
期限だって待ってはくれない。
わかっている。頭ではわかっている。
俺はペンを取り、子の名前を書く欄に、ペン先をそっと近づけた。
……そこで、手が、止まった。
この紙を役所に――俺の職場みたいなところに提出すれば、この子は戸籍の上で、正式に俺の子供になる。
……俺の、子供。
托卵された子だ。
妻が、俺の知らない誰かとの間にこしらえた子。
血は、一滴も繋がっていない。
いや――そもそも、金属だぞ、ロボットだぞ。血が繋がるも何も、血が通っていない。人間ですら、ない。
そんな子を、どこの誰の子とも知れない金属の塊を、俺の名前を並べて、俺の子として、この国の戸籍に載せてしまって――いいのか?
ペンが、動かない。
……何を迷ってるんだ。書けばいいだけだろう、名前を一つ。いつもの俺なら、こんな書類、三分で片づける。三十七・〇度まで測る男だぞ。
……なのに、このペンだけが、どうしても進まなかった。
俺はペンを置いた。部屋の隅から、ぴゅい、とあの子の鳴き声が聞こえた。




