第4話 妻の置いていったものと我が子?
――ぴゅるるる。
力の抜けた、その泣き声で、俺は跳ね起きた。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
リビングのソファ。
つけっぱなしの電気。
手には、空になった哺乳瓶。
……そうだ。灯油を飲ませ終えたのが、確か深夜の二時。そのまま気を失うように、眠り込んでいたらしい。
「ぴゅるるる……」
リビングの隅のほうから、もう一度。
寝ぼけ眼で、ベビーベッドを覗き込む。
ゴーグルの中に、赤い電池のマークが、ちかちかと点滅していた。『残量わずか 充電してください』と主張している。
……スマホでさんざん見せられる、あの表示そのものだ。腹をすかせているらしい。
壁の時計に目をやって、俺は瞬きした。
……午後二時。最後に満タンにしたのが、深夜二時。今が、午後二時。ちょうど、半日が経っていた。
のろのろと部屋の隅に向かい、青いポリタンクから哺乳瓶に灯油を移す。
温めの儀式は、今日は省略だ。物置だと冷え切るので、灯油は部屋の中に移しておいた。そこそこの常温、火の気はなし。問題はない。
乳首を含ませると、ロボ子はこくこくと素直に飲んだ。
ゲージが緑に満ちていき、耳がぴんと立つ。
「ぴゅい♪」
目が、笑った形になる。[^^]こんな形に。
……なるほど。満タンにすれば、半日はもつわけだ。
人間の赤ん坊なら二時間か三時間おきに泣いて、夜中だろうと容赦なく親を叩き起こすと聞く。それが半日に一度で済むなら――赤ん坊としては、随分と燃費がいい。
……いや。赤ん坊に燃費はおかしいか。そもそも灯油で動く赤ん坊の時点で、いまさらか。
ともあれ、朝晩、満タンにしてやれば回る。
……だが、入れたら、出る。育児は、そのもう一方が、本番のはずだった。
人間の赤ん坊は、上から飲めば、当然下から出す。世の親は、飲ませるのと同じくらい後始末に追われている。
俺も身構えてはいた。臨月の妻のために、粉ミルクや哺乳瓶と一緒に、おむつもひと山、買い込んである。新生児用の、いちばん小さいやつだ。
灯油なんてものを飲ませて、どこから何が出てくるのか。
……汚物の始末なら、下水道課という仕事柄、多少は肝が据わっているつもりだった。覚悟して待った。
……何も出ない。
こく、こく、と灯油だけは飲む。なのに、その後始末が、いっこうに回ってこない。
体のどこからも、何も出てこない。
そもそも半日経ったのに、ベッドがまったく汚れていないじゃないか。
……考えてみれば、当たり前か。
灯油を燃やして動くのなら、後に残るのは、せいぜい熱くらいのもの。おもらしも、その先の厄介ごとも、はなから出しようがないわけだ。
……楽なものだ。夜中におむつと格闘することも、その手の始末に音を上げることも、この子に限ってはない。世の親たちが聞いたら、羨むだろう。
押し入れの、封も切っていないおむつのひと山。あれの出番は、来ないわけだ。店で、かさばるのを承知で抱えて帰った、あれの出番は……。
……まあ、いい。使わずに済むなら、それに越したことはない。むしろ、経済的だ。うん、実にいい。
そんなことを一人で考えていたら、今度は自分の腹が、ぐうと鳴った。
そういえば、俺はいつから何も食っていないんだっけ?
妻の書き置きを読んで以来、まともに食い物を口にした記憶がなかった。ロボ子の飯の心配はしても、自分の飯はすっかり忘れていたらしい。
……我が子(?)の食事ばかり気にしている場合か。
と、そこで、ふと我に返った。半日に一度、飯をやればいい。おむつの心配をする必要もない。それはわかった。わかったが――俺、明後日から仕事だ。
明後日は月曜日。俺は市役所勤めの、地方公務員だ。有給の一日二日は融通も利くだろうが、毎日は休めない。おまけに、金曜日に半休を使って早退したばかりだ。
なのに、こいつは毎日腹をすかせ、俺は毎日出勤する。住宅ローンだって、待ってはくれない。
だが、と俺は頭の中でそろばんをはじいた。
半日もつなら、朝、家を出る前に満タンにすればいい。仮に朝七時半に飲ませれば、切れるのは夜七時半。役所の定時は午後五時十五分。残業がなければ、朝の一杯で帰るまでどうにか渡り切れる。
……飯は、なんとかなりそうだ。
とはいえ、問題は、そこじゃなかった。
朝から夕方まで、この家に、こいつがたった一人。その間、何かが起きても、俺は知りようがない。
金属だから、人間の赤ん坊よりは頑丈だろう。それでも――姿が見えない、というのは正直不安だ。
……とはいえ、考えても仕方ない。
月曜のことは月曜だ。今はこの家のことが先だった。
俺は立ち上がって、家の中をぐるりと見て回った。
妻の消えた家は、あの日から時間が止まったみたいだ。
とはいえ、ちらかっているわけじゃない。ただ一つ、玄関に、あの紺色のバッグが放り出されたまま転がっていた。
妻が入院のとき持っていって、退院の日に投げ捨てるように置いていった、あのバッグだ。
……いつまでも、ここに転がしておくわけにもいくまい。
拾い上げて、中をあらためる。
着替え、タオル、洗面道具。産後の妻が使ったのだろう。どれも、使う者のいなくなった、抜け殻のような荷物だった。
その底のほうに、一冊の手帳と、折りたたまれた書類が入っていた。
母子手帳。
……ああ、そうだ。妊娠がわかってしばらくして、妻が役所でもらってきた、あれだ。俺も一緒に行こうかと言ったのに、「一人で平気」と笑って出かけていった。
ページをめくると、几帳面な妻の字で、健診の記録がきちんと綴られていた。体重、週数、順調です、の一言。
……どこまでも、普通の記録だった。
エコーの写真だって貼ってある。白黒のざらついた画像に写った、丸まった小さな影は、どこからどう見ても、ごく普通の人間の赤ん坊だった。
なのに、生まれてきたのは金属の塊。
……わからん。考えてもわからん。
俺はそっと手帳を閉じた。ここを深掘りしても答えなど出ないのは、もう知っている。
……そうだ。あいつは、ちゃんと健診に通って、記録もつけて、母親らしいことをしていた。それが、なぜこうなった。
……やめよう。いない人間のことを考えても、腹が立つか寂しくなるか、どっちかだ。どっちも、今はいらない。
俺はもう一枚の書類を広げた。
出生届。
右半分は、病院の先生が書く出生証明書になっている。
退院のときに受け取ったものだろう。日付、時刻、体重、先生の署名。……ちゃんと、揃っている。
そして性別の欄には、「女」に丸がついていた。ついてはいるが、その丸が心なしか自信なさげに見えるのは、気のせいだろうか。
あの看護師さんの「女の子……っぽい」という声が、耳の奥でよみがえる。
……まあ、いい。プロが女に丸をつけたのなら、女なんだろう。たぶん。
問題は、左側だった。
届出人が書く、父母の氏名の欄。届出人の欄。……見事に真っ白だ。
妻は名前一つ残していない。托卵の告白とプリンの賞味期限は書き残したくせに、こっちは白紙か。
……まったく、あいつらしい。
そして、一番上。子の名前を書く欄も、当然空っぽだった。
名前……。そうだ、名前がいる。
この届を出すには、名前を書かなきゃいけない。
「ロボ子」なんて間に合わせの呼び名で、役所に出すわけにはいかない。なにしろ、部署は違えど、俺の職場だ。
戸籍に載る、ちゃんとした名前をつけないと、毒親だと思われかねない。
……しかも、のんびりもしていられない。出生届は、生まれた日を含めて十四日以内に出さなければならない。窓口の担当じゃないが、それくらいは公務員の常識だ。
期限を過ぎれば、法律上、正当な理由がない限り過料――早い話が、罰金を取られる。まあ、実際に取ったなんて話は聞いたことないが。
カレンダーに目をやる。
まだ、日はある。
……ある、はずだ。
だが、まずは名前を決めないことには、話が始まらない。
俺は出生届をテーブルに置き、ペンも隣に置いた。
……よし、考えるぞ。
そう自分に言い聞かせて――結局その日は、一文字も書けなかった。
名前が思いつかない。……いや。
思いつかないんじゃないのかもしれない。
そこまで考えて、俺はペンを置いた。今日はもう、寝る。




