第3話 腹を満たす我が子?
深夜のリビングは、ミルクの匂いで満ちていた。
金属の我が子――ロボ子にミルクを飲ませようとして、ことごとく顔面に噴き返された、その結果だ。
そうしてようやく、俺は悟ったのだった。こいつは人間の赤ん坊じゃない。ミルクなんてものが、そもそも間違っていたのだと。
じゃあ、ロボの腹を満たすには、何を食わせればいい――?
念のためスマホで検索してみる。
「ロボット 赤ん坊 食事」。
当たり前だが、まともな答えはなかった。
わかっていたことだが、偉大なる先達の親たちの中に、ロボットを育児した人はいないらしい。
俺はミルクまみれの顔をタオルで拭きながら、必死に頭を回転させた。
ロボ。機械。
機械を動かすもの。
……電気、か?
そうだ。電気だ。家電製品ならコンセントに挿せば動く!
俺は、はっとしてロボ子の体をひっくり返したり、裏返したりして調べた。
どこかにコンセントの差込口はないか? 充電ケーブルを挿すところは?
……ない。
つるつるのボディには、それらしき穴はどこにも見当たらなかった。
あるのは、あの、ミルクを噴き出す口だけだ。
……もしかして、ここから?
俺は慌てて首を振る。
いやいや。コンセントを咥えさせるわけにもいくまい。はたから見れば、もはや虐待だ。
電気は却下。
次。
口から入れるエネルギー。
液体で機械を動かすもの。……燃料、か。
たとえば、車だ。
車はガソリンを入れれば動く。
こいつも、そういうタイプなんじゃないか?
ガソリン。
そうだ、ガソリンだ。それなら手に入る。
ガソリンスタンドに行くまでもなく、俺の車の燃料タンクに入っている。
俺は勢いよく立ち上がり――そこで、はたと止まった。
……いや、待て。どうやって抜くんだ?
車のガソリンを哺乳瓶に移す。そんな器用なこと、できるのか? ホースか何かで吸い出せば……。
……口で吸って……間違えて飲んだら、どうなる? 確か、死ぬぞ、あれは。
それに、と俺はさらに青ざめた。
ガソリンは揮発する。
部屋に充満して、何かの拍子に引火したら……この家が吹き飛ぶ。
住宅ローンを何年も残した、この家が。
ダメだ。ガソリンは危険すぎる。
赤ん坊に飲ませる前に、一家心中ならぬ、一家爆発だ。
却下。即、却下。
……だが、方向性は悪くない気がする。
液体の燃料。もっと、安全な何か……。
そこまで考えて、俺の頭に一つの心当たりが浮かんだ。
――灯油だ。
物置にある。
冬場に使う、石油ファンヒーター用の灯油が、まだポリタンク一つ分まるまる残っていたはずだ。
灯油ならガソリンほど揮発しない。引火点も、もっと高い。
つまり、ガソリンよりずっと安全。
そして、これも間違いなく燃料だ。
石油ストーブが、灯油であれだけ暖かくなるんだ。エネルギーとしては申し分ないはず。
……ちょっと待て。
冷静に考えると、俺は今、我が子に与える食事として、灯油を検討している。
正気か、俺は?
……正気じゃ、ないのかもしれない。
考えてもみろ。托卵されたうえ、生まれてきた子供がロボだったんだ。正気を疑う段階なんてとっくに過ぎている。
それよりも重要なのは、目の前のこいつが、今、腹をすかせて「ぴゅるるる」と泣いているってことだ。
そんな子供を目の前にして、躊躇っている場合か。
俺は物置へ、灯油を取りに向かった。
灯油はすぐに見つかった。
青いポリタンクから、慎重に哺乳瓶へ移す。
とぷ、とぷ、と透明な液体が満ちていく。
独特のつんとした匂いが、鼻を刺した。
……我が子の食事から、灯油の匂いがする。
こんなこと、誰かに話したら確実に通報される。
哺乳瓶を持ち上げて、ふと手を止めた。
……冷たい。
物置に置いてあった灯油は、すっかり冷え切っていた。
そういえば、ミルクには適温があった。冷たすぎると、赤ん坊は飲まないし、腹を壊すとも書いてあった。
人肌――三十七度。
ロボ子だって同じかもしれない。こんな冷たいものを、いきなり飲ませるのはかわいそうだ。
灯油に適温があるのかは知らないが、温めてやりたかった。せめて人肌くらいには。
とはいえ、冷たいものを人肌に温めるには、どうすればいい?
火で直接あぶるわけにもいくまい。
考えて、ふと思いついた。湯せんというやつだ。
鍋にお湯を張って、そこに哺乳瓶を浸ければ、じんわり温まる。チョコを溶かすときなんかにやるあれだ。結婚当初に妻がそうやってバレンタイン用のチョコを作ってくれたことがある。
……いや、今は妻のことはいい。
俺は台所へ行き、鍋に水を入れ、コンロに置いた。
哺乳瓶をその中に立てて、点火のつまみに手を伸ばす。
その手がつまみに触れたとき――
……待て。
手が止まった。
全身から、血の気が引いていく。
コンロの火。
そのすぐそばに灯油。
……俺は今、灯油を火にかけようとしている?
さっき、ガソリンのときに考えたばかりじゃないか。
灯油だって燃える。引火点は高いとはいえ、温まれば話は別だ。
火のそばで、灯油を温める。そんなことをすれば――
俺はつまみから、そっと手を引いた。
火はつけていない。つける寸前だった。
……危なかった。
ミルクを顔にかけられるどころの騒ぎじゃない。
もし、あのまま火をつけていたら……。
危うく、台所ごと火の海にするところだった。
どっと冷や汗が出た。胃も痛い。
……火はだめだ。湯せんはできない。
じゃあ、どうやって温める?
お湯も火も使えないなら、残っている熱源は――
……俺の体温くらいしかない。
馬鹿げていると思った。
灯油の入った哺乳瓶を、人の体温で温める。
なんの冗談だ?
……でも、他に方法が思いつかなかった。
俺は哺乳瓶をシャツの中に入れ、胸に抱え込んだ。
ひやりとした感触が肌に伝わる。
その冷たさを、自分の体温でじわじわと押し返していく。
深夜の台所で。
顔からミルクの匂いをさせたまま。
四十二歳の男が、灯油の瓶を大事そうに抱いている。
……俺は、何をやっているんだ?
ふと、我に返ってそう思った。
こんな姿、誰にも見せられない。妻に逃げられた話より、よっぽど恥ずかしい。頭がおかしくなったと思われても不思議じゃない。
だが、リビングの隅では――
ベビーベッドに寝かせたロボ子が、まだしおれた耳のまま、こちらへ顔を向けている。
ぴゅるるる、と力なく泣く。
その、空っぽの電池マークを見ていたら――
……まあ、いい。
恥も、外聞も、今はどうでもいい。
哺乳瓶が温まるまで抱いていてやる。
それだけのことだ。
どれくらいそうしていただろう。
哺乳瓶の灯油が、ほんのりぬくもってきた。
俺は懐からそれをそっと取り出し、ロボ子を抱き上げた。
「……ほら。今度こそ、どうだ」
微笑んだ形の口元に、哺乳瓶を近づける。
ぱかっ、と口が開いた。
……また、吐かれるんだろうか?
灯油はミルクよりいやだな……。
半ば諦めの境地で、俺は灯油入りの哺乳瓶の乳首を含ませた。
こく。
……ん?
こく、こく、と。
何かが流れ込んでいく音がした。
飲んでいる。
吐き出さない。
ロボ子は、確かに灯油を飲んでいた。
そして――
ゴーグルの中で点滅していた赤いマーク。
空っぽだったあのゲージが、すうっと緑色に満ちていく。
一目盛り、二目盛りと。やがて、満タンに。
しおれていたウサ耳が、ぴんと立った。
ゴーグルに浮かんでいた四角い電池のようなマークが消え、青い光の目が浮かび上がる。
やがて、まんまるな光が、すっと細くなって、両端がちょこんと持ち上がった。
まるで目を細めて、笑っているみたいな[^^]こんな形に。
「ぴゅい♪」
さっきまでの力ない声が嘘みたいに、元気な声が部屋に響いた。
…………。
俺は、空になりかけた哺乳瓶を持ったまま、その顔を見ていた。
顔はミルク臭くて、指先は冷たくて、胃は痛くて。
深夜の二時。
よく考えたら、人生でこんなにみじめな夜はなかったかもしれない。
なのに――
その笑った目を見ていたら、なんだかどうでもよくなってしまった。
ミルクを顔に吐かれたことも。
灯油を胸で温めた、間抜けな自分のことも。
妻がいなくなったことすら。
ほんの少しだけ、報われた気がした。
……灯油で、報われる父親なんて、世界中で俺くらいのものだろうが。
それでも――悪くなかった。




