第2話 腹をすかせて鳴く我が子?
妻の置手紙をテーブルに戻したその夜。
俺はまだ現実を受け止めきれずにいた。
明かりもつけていないリビング。ソファにぐったりと座り込む。
……これから、どうするんだ?
ロボ。托卵。失踪。住宅ローン。
考えなきゃいけないことが多すぎて、もう頭が回らない。
せめて今夜くらいは、少し悲しませてくれ。
八年連れ添った妻に、逃げられたんだ。それくらいの権利はあるだろう。
誰に言うともなく、俺は天井を見上げた。
すると――
ぴゅるるる……。
部屋の隅のベビーベッドのほうから、聞き慣れない音がした。
あの、元気な「ぴゅい」じゃない。なんというか、力の抜けた音。空気が、抜けていくみたいな。
……悲しむ暇もくれないらしい。
俺はのろのろと立ち上がった。
近くに寄って、ベビーベッドを覗き込む。
ロボットの様子がおかしい。
さっき見たときは、ぴんと立っていたあのウサ耳が、今はしょんぼりと垂れている。
そして、顔のゴーグル。
さっきまで青い光がまんまるに灯っていたそこに、おかしな記号のようなものが表示されていた。
赤い四角。中身がほとんど空っぽの。
それが、ちかちかと点滅している。
……これは。
俺はその記号に見覚えがあった。というか、毎日のように見ている。
スマホの電池が切れかけてるときの、あれじゃないか。
残量、わずか。充電してください。そういう警告の表示。
……いや、待て。
なんで、こいつがそんな表示を知ってるんだ?
スマホなんか、見せた覚えもない。
いったい、誰がこんな記号を教えた。
「ぴゅるるる……」
ロボットがもう一度、力なく鳴いた。
垂れた耳はぴくりともしない。
その姿は、なんというか――見るからにしおれていた。
……まあ、いい。
記号の出どころは、この際どうでもいい。
言いたいことはわかった。痛いほどわかる。
こいつ――腹をすかせてるんだ。
そうだ。考えてみれば、当たり前のことだった。
赤ん坊は腹が減る。人間だろうが、ロボだろうが、動いている以上、何かエネルギーがいるはずだ。
それくらいのこと、なんですぐに思い至らなかったんだ。
……いや。
妻に逃げられたその日に、いきなりロボの食事の心配。思い至らなくても無理はない、と思う。
……うん。改めて考えてもやっぱり無理はない。
ロボットよ。お前だって、そう思ってくれるだろ?
ロボット……か。
自分で呼んでおいてなんだが、この期に及んで「ロボット」呼ばわりも、少し味気ない気がした。相手は正真正銘、そのロボットなんだが。
ロボットの子。だから……ロボ子ってところか。
とりあえず、こいつをそう呼ぶことにした。
ともかく、飯だ。まずは、こいつに飯を食わせてやらないと。
幸い、粉ミルクは買ってある。
俺が用意したものだ。
臨月の妻に重いものを持たせるわけにはいかないと、休みの日に、俺が買い込んできた。
粉ミルクに、哺乳瓶に、消毒のセット。
どれがいいのか、さっぱりわからず、店員さんに、おすすめを根掘り葉掘り聞いて。
……我ながら、張り切っていたと思う。
まさか、その粉ミルクの最初の一杯を、金属の塊に飲ませることになるとは思いもしなかった。
俺はスマホを取り出した。
「粉ミルク 作り方」で検索する。
……世の中の親は、みんなこうやって、手探りで覚えていくんだろうか。
でも、ロボに飲ませる前提で検索してる親は、世界で俺一人だろうな。
画面の手順を声に出して読む。
まず、一度沸騰させたお湯を用意する。
粉を規定の量、入れる。
七十度以上のお湯で溶かす。これは雑菌を殺すためらしい。
……ふむ。几帳面な説明だ。嫌いじゃない。
そして、ここからが肝心だった。『熱いまま飲ませると、やけどします。人肌――三十七度ほどに冷ましてから飲ませましょう』か。
……三十七度。人肌。
なるほど。冷ましすぎても、よくないと書いてある。
冷たいと赤ちゃんは飲まないし、お腹を壊すらしい。
三十七度。きっちり、三十七度。
俺はその数字を、頭に刻み込んだ。
言われた通りに作る。
哺乳瓶を流水に当てて冷ます。
手首の内側に一滴垂らして、温度を確かめる。
……うん。熱くも冷たくもない。これが人肌か。
念のため、料理用の温度計まで引っ張り出して測った。
……三十八度。
一度高い。
俺はもう少しだけ、哺乳瓶を流水に当てた。
三十七.〇度ちょうど。よし。これでいい。
……ロボに飲ませるミルクを、コンマ単位で調整している。我ながら、何をやっているんだか。
だが、やると決めたらやる。中途半端は性に合わない。
俺は自分の几帳面さに、少しだけ自信を持って、ベビーベッドに向かった。
「ほら、ロボ子。飯だぞ。ミルクだ」
ロボ子をそっと抱き上げる。
見た目よりも重い。金属だから当然か。腕にずしりとくる。
その微笑んだ形の口元に、哺乳瓶の乳首を近づけた。
……ぱかっ。
ロボ子の口が開いた。
おお。
開いた。受け入れる気はあるらしい。
俺は哺乳瓶の乳首をそっと含ませる。
――飲んだ。
こく、と喉が動いた――気がした。喉があるのかどうかは、知らないが。
やった。
飲んでくれた……!
と、思った、次の瞬間。
「ぶびゅっ」
…………。
顔に、生温かいものがかかった。
ミルクだ。
ロボ子が、含んだミルクを勢いよく、俺の顔めがけて噴き出したのだ。
頬をぬるい液体が、つたって落ちていく。
ぽた、ぽた、と顎の先から滴る。
俺はしばらく、ミルクを浴びた姿勢のまま、固まっていた。
…………。
……俺は今。
深夜のリビングで。
金属の塊に。
ミルクを、顔面に噴射されたわけか。
手の甲で顔をぬぐう。
ふわりと甘い匂いが、鼻をかすめた。
……ミルクの匂いだ。
赤ちゃんの、あの優しい匂い。
幸せな家庭の匂い。
……なんで俺は、その匂いを顔から漂わせながら、深夜にロボを抱きかかえているんだ?
ロボ子はけろりとしていた。
いや、顔の表情は変わらないんだが、雰囲気でわかる。けろりとしている。間違いない。
ゴーグルの赤いマークは、点滅したままだ。
腹は満ちていないらしい。
「ぴゅるるる……」
……だよな。
飲んでないもんな。全部、俺の顔に出したもんな。
まず疑ったのは、温度だった。
三十七度は完璧なはずだ。だが、赤ん坊によって多少好みの差があるかもしれない。
熱め。ぬるめ。温度を変えていろいろと試した。
飲ませ方も変えた。縦抱き、横抱き、背中をさすってからと。
……金属の背中をさする俺。何の儀式だ、これは。
結果はすべて同じだった。
ぶびゅっ。
俺の、顔。
ぶびゅっ。
俺の、顔。
深夜のリビングでミルクまみれになりながら、俺はようやく悟った。
……ちょっと待て。
そもそも、なんで俺はロボにミルクを飲ませようとしてるんだ?
考えてみれば、当たり前の話だった。
こいつは、人間の赤ん坊じゃない。金属でできたロボットだ。
その口に、牛の乳から作った粉ミルクを流し込んで、飲むわけがないじゃないか。
ガソリンスタンドで、店員に「コーンスープ満タンで」と頼むようなものだ。
……いや、その例えは、自分でもよくわからないが、とにかく、ミルクが間違っている。
そういうことだ。
じゃあ、ロボには何を与えればいいんだ?
ミルクまみれの顔のまま、俺は途方に暮れた。
かたわらでは、腹をすかせたロボ子が、相変わらず「ぴゅるるる」と力なく鳴いている。
……我が子の、初めての食事。それが人生でこれほどの難題になるとは。
世の父親たちが聞いたら、揃って腰を抜かすに違いない。




