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第3話:侯爵家の財布を握る令嬢

 深夜の侯爵家。豪奢な天蓋ベッドの置かれたリリアーヌの自室には、蝋燭の控えめな明かりだけが灯っていた。


 分厚いマホガニーのテーブルの上には、サリヴァンが「調達」してきた厨房や備品管理の帳簿の写しが山のように積まれている。リリアーヌは美しい金糸の髪を無造作に束ね、羽ペンを猛烈な勢いで走らせていた。


「見事なまでの二重帳簿ね。古典的すぎて欠伸が出るわ」


 冷え切った声で呟きながら、リリアーヌはインクの染みがついた一枚の紙を指で弾いた。


「小麦粉、オリーブオイル、そして銀器の研磨剤。この三つの項目だけで、毎月市場価格の約三倍の経費が計上されている。業者が納品した実際の数量と、帳簿上の数字が全く合っていないわ。典型的な『架空仕入』と『水増し請求』のコンボ。家令のバーンズが業者と結託して、差額を自分の懐に入れているのよ」


「お見事な分析でございます、お嬢様」


暗がりから音もなく進み出たサリヴァンが、湯気を立てる紅茶を静かにテーブルに置いた。


「バーンズは長年この家で実務を取り仕切ってきた男。侯爵様も奥様も数字には無頓着ゆえ、彼はすっかりこの屋敷を自分の『財布』だと勘違いしているようです」

内部統制インターナル・コントロールが全く機能していない証拠ね。経営層の怠慢が招いた腐敗よ」


 リリアーヌは紅茶を一口啜り、ふう、と息をついた。その碧眼には、獲物を前にした狩人のような鋭い光が宿っている。


「でも、好都合だわ。彼が溜め込んだ横領金は、私の生存戦略のための『初期投資資金』として有効活用させてもらうから」


 翌日の午後。

 リリアーヌは自室のサロンに、家令のバーンズを呼び出していた。

バーンズは白髪混じりの初老の男で、表面上は恭しい態度を取っていたが、その目には明らかに「身寄りのない哀れな小娘」を見下す色が浮かんでいた。


「リリアーヌお嬢様、お呼び出しとはいかなるご用件でしょうか。私めは屋敷の管理で少々立て込んでおりまして……」

「ごめんなさいね、バーンズ。お忙しいのに」


リリアーヌは小鳥のように首を傾げ、潤んだ瞳で彼を見つめた。

「実は、叔父様にご恩返しがしたくて、私なりに屋敷のお手伝いをしようと思ったの。それで、お勉強のために少し帳簿を見せていただいたのだけれど……私、頭が悪くて、どうしてもわからない計算があるの」


「ほう。帳簿、でございますか」

 バーンズの顔に一瞬、微かな警戒が走ったが、すぐに油断したような薄笑いに変わった。どうせ小娘の遊びだろうと高を括ったのだ。


「ええ。例えば、この先月の小麦粉の仕入れ額なのですけれど」

リリアーヌはテーブルに一枚の紙を滑らせた。それはサリヴァンが用意した、不正の証拠となる数字の羅列だった。

「市場の相場では銀貨十枚で買える量が、なぜか銀貨百枚(金貨一枚)で計上されているの。それに、消費量もおかしいわ。この屋敷の人数で一ヶ月にこれだけの小麦粉を消費するには、毎日全員がパンを五斤ずつ食べなければ計算が合わないのよ」


バーンズの顔から、さっと血の気が引いた。

「そ、それは……高級な品種を仕入れておりまして、さらに保存用として……」

「言い訳は不要よ、バーンズ」

 リリアーヌの声色が、甘ったるい少女のものから、絶対零度の「監査官」のものへと一変した。

 ビクッと肩を震わせたバーンズが見上げた先には、怯えた孤児の面影は微塵もなく、冷酷に数字を詰める氷のような美少女が座っていた。


「架空計上による横領。過去三年分だけで、ざっと金貨百枚といったところかしら。侯爵家の資産を食い物にしていたと叔父様が知れば、あなたはただの解雇では済まないわね。横領罪で投獄されるか、あるいは……叔父様の性格なら、物理的に首が飛ぶかもしれないわ」


「お、お嬢様……! そ、それは誤解で……!」

「誤解かどうかは、業者の裏帳簿と照合すれば一発でわかるわ。サリヴァン」

「はっ。すでに取引先の商人には私から『ご挨拶』を済ませております。彼らも侯爵家の怒りを買うくらいならと、喜んで証拠を提出してくれました」


 サリヴァンが背後から冷ややかに告げると、バーンズはついに膝から崩れ落ち、床に額を擦り付けた。


「お許しください! 出来心だったのです! どうか、どうか侯爵様にはご内密に……!」

「そうね、私も無益な血が流れるのは好まないわ」

リリアーヌは冷たく見下ろしながら、あらかじめ用意しておいた書類を彼に突きつけた。

「条件は三つ。一つ、過去に横領した金額の全額を、私が指定する口座に『匿名』で振り込むこと。二つ、癒着していた業者のリストと今後の適正な仕入れルートの全権をサリヴァンに引き継ぐこと。三つ、あなたは『重い病』を理由に、明日をもって家令を円満に辞職すること」


 バーンズはガタガタと震えながら、もはや選択肢などないことを悟り、絶望の表情で書類にサインをした。


 数日後。

 リリアーヌは、叔父ヴィクトールの執務室のドアをノックした。


「叔父様……お忙しいところごめんなさい」

 彼女は目を赤く腫らし、今にも泣き出しそうな表情で部屋に入った。


「リリアーヌ! どうしたんだい、誰かにいじめられたのか!?」

ヴィクトールは血相を変えて立ち上がり、彼女の肩を抱いた。彼にとって、亡き母の面影を宿すリリアーヌの涙は、胸を締め付けられるほどの劇薬だった。


「違うの、叔父様。家令のバーンズが、急なご病気で辞職されると聞いて……」

リリアーヌはヴィクトールの胸に顔を埋め、震える声で訴えた。


「叔父様はただでさえお仕事でお忙しいのに、屋敷の管理まで滞ってしまったら、お身体を壊してしまわないか心配で……。私、叔父様のお役に立ちたいの。これからの私の花嫁修業も兼ねて、内向きの家計管理を、少しだけ私に任せていただけないかしら?」

 上目遣いで健気に訴えるその姿に、ヴィクトールは完全に打ちのめされた。


「ああ……なんて優しい子なんだ、君は。母様もよく、そうやって私の身を案じてくれた……。もちろんいいとも。君の好きにしなさい。金庫の鍵も帳簿も、すべて君に預けよう」

「ありがとう、叔父様! 私、叔父様のために一生懸命頑張るわ!」


 無邪気に微笑みながらヴィクトールに抱きつくリリアーヌ。しかし、ヴィクトールの背中に回した彼女の腕の先で、その冷ややかな碧眼は、影で控えるサリヴァンと視線を交ませていた。


(チョロすぎるわね。これで、侯爵家の『財布』は完全に私が握ったわ)


 その夜、リリアーヌの自室では、サリヴァンが淹れた最高級の紅茶の香りが漂っていた。

 横領金という名の「簿外資産(裏金)」を手に入れ、さらに侯爵家の正式な予算管理権限という「強大な権力」を掌握した記念すべき日だ。


サリヴァンは音もなく歩み寄り、机に向かうリリアーヌの傍らで静かに跪いた。


彼は恭しく、彼女の背に流れる金の髪を一房掬い上げると、細長い指でゆっくりと、まるで逃げ場を奪うかのように巻き取っていく。白手袋越しに伝わる微かな熱を慈しむように、彼はその髪を自身の唇へと引き寄せた。


「完璧な手腕でございました、お嬢様。これで当家の財政は、お嬢様の指先一つでどうにでもなります」


髪に唇を寄せたまま、サリヴァンは視線だけをリリアーヌへと向けた。

その瞳には、彼女の冷徹な知性に対する陶酔と、自分だけがその本性を知っているという優越感が混じり合った、昏く甘い光が宿っている。


リリアーヌがその視線の強さに息を呑むと、サリヴァンは唇を離さぬまま、喉の奥でくくくと愉しげに笑った。


「どうか、これからも私にだけはその『悪女の計算ロジック』をお見せください。その冷徹な眼差しこそが、私にとって何よりの報酬なのですから」


触れているのは髪の毛一房。それなのに、リリアーヌはまるで心臓の鼓動まで彼に「監査」されているような、甘やかな支配感に囚われていた。



サリヴァンの唇から漏れる熱い吐息が、髪を通じてリリアーヌの肌にまで伝わってくる。そのあまりに情熱的で、独占欲に満ちた仕草に、リリアーヌの心臓は不規則なビートを刻み、脳内の計算機がエラーを起こしそうになっていた。


「……っ」


リリアーヌは小さく息を呑み、逃げるように自身の髪をサリヴァンの指先から静かに引き抜いた。指先に残る彼の余熱から逃れるように、震える手でティーカップを手に取る。磁器が触れ合う微かなカチャリという音が、静まり返った室内で驚くほど大きく響いた。


「まだまだよ、サリヴァン。これはただの『止血』に過ぎないわ」


彼女の声は、自分でも驚くほどわずかに上ずっていた。動揺を隠すように、彼女は熱い紅茶を一口含み、その苦味で無理やり理性を呼び戻そうとする。だが、頬に上った熱までは制御しきれず、彼女は慌てて窓の外、領地に広がる深い闇へと視線を逸らした。


「分家から実権を取り戻したところで、それはマイナスがゼロに戻っただけ。これから学園という名の巨大な市場マーケットへ飛び込めば、さらに複雑な利害関係という名の『負債』が私を待ち受けているわ……。叔父様の溺愛も、王女の嫉妬も、すべてを私の利益ベネフィットに変えるまでは、一息つく暇なんてないの」


窓ガラスに映る自分の顔が、ひどく赤らんでいるのがわかる。サリヴァンから向けられる執拗なまでの熱視線を背中に感じながら、彼女は必死に、冷徹な「経営者」としての仮面を剥がれまいとしがみついていた。


雨音に消えてしまいそうなほど頼りなく、かすかに震えていた。  領地の闇を見つめる彼女の瞳は、未来への野心に燃えているようでいて、その実、背後に控えるたった一人の従者が与えてくれる、数値化できない「無償の愛」に激しく揺れ動いていた。



リリアーヌは、喉元までせり上がってきた熱い動悸を無理やり飲み下した。サリヴァンの甘く昏い視線に搦め取られ、思考が麻痺してしまいそうな自分に、必死で「経営者」としての冷徹な号令をかける。


(……流されてはだめ。甘い言葉は、判断を鈍らせる最大のノイズよ。今は数字を、目的ゴールだけを見つめるの)


彼女はサリヴァンを見ないよう、手元の資料をあえて乱暴にめくった。そして、自分自身に言い聞かせるように、震えそうになる声音を強引に張り詰める。


「次は、傲慢な叔母様と、取り巻きの貴族たちが無駄遣いしている流動資産を徹底的に監査するわ。私がこの家で絶対に捨てられない『圧倒的な価値』を持つために、利益率を限界まで引き上げてみせる」


その言葉は、彼への返答というよりは、自分を律するための盾のようだった。

 叔母イザベラの浪費、取り巻きたちの不透明な会食費、形骸化した社交という名の赤字垂れ流し――。それら具体的な「修正項目」を口にすることで、彼女はどうにか自分の主導権マインドシェアをサリヴァンから取り戻そうとする。


「誰にも、私を『損切り』なんてさせない。……叔父様にも、叔母様にも、そして、貴方にも。私がこの家において代替不可能な、唯一無二の資産であることを、帳簿の数字で分からせてやるんだから」


リリアーヌは窓ガラスに映る、まだ少し赤みの引かない自分の顔をきっと睨みつけた。

 感情に支配されそうな胸の痛みを、「経営上のリスク」として冷酷に処理しようと足掻きながら。


「ええ、どこまでもお供いたしますよ、私の愛おしい『冷酷な支配者』様」

 サリヴァンは恭しく一礼し、影の中で歓喜に満ちた笑みを浮かべた。

愛と利益。

 その両方を貪欲に喰らい尽くす、元経理令嬢の華麗なる「資産形成」は、まだ始まったばかりだった。

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