第2話:侯爵家の不適切会計
馬車の揺れが止まり、重厚な扉が開かれた先には、リリアーヌがこれから「戦場」と呼ぶことになる侯爵家の壮麗な屋敷がそびえ立っていた。
両親を亡くした悲劇の令嬢として、叔父であるヴィクトール侯爵に引き取られたリリアーヌ。彼女が馬車から降り立つと、そこには既に整列した使用人たちと、そして何より、秘蔵の宝石をうっとりと眺めるような、どこか陶酔を孕んだ瞳で彼女を待ち構えるヴィクトールがいた。
「よく来たね、リリアーヌ。……ああ、本当に。まるでお母様が帰ってきたかのようだ」
ヴィクトールが歩み寄り、リリアーヌの手を執る。その指先がわずかに震えているのを、彼女は見逃さなかった。前世の記憶を呼び覚ました今の彼女にとって、この過剰な歓迎は、顧客からの過剰な期待——すなわち、高すぎるハードルと同じだ。
「……叔父様。私のような身寄りのない者を温かく迎えてくださり、感謝の言葉もございませんわ」
リリアーヌは伏せ目がちに、震える声で答えた。完璧な「庇護欲をそそる姪」の演技。脳内では冷静に、ヴィクトールの心理的エンゲージメント率を計算している。彼が求めているのは、亡き母の面影を宿した、清らかで壊れそうな少女。
今のリリアーヌにとって、その「期待」に応えることは、この家における自分の『存続価値』を高めるための最優先事項だった。
しかし、華やかな出迎えの裏で、リリアーヌの「元経理」としての鋭い感覚が、周囲の違和感を敏感に捉え始めていた。
(……おかしいわ。この屋敷、無駄が多すぎる)
エントランスに並ぶ装飾品、贅沢に焚かれた香炉、そして必要以上に人数の多い使用人たち。それだけなら「侯爵家の威厳」で片付くが、彼女の目は細部に及ぶ。
庭園の隅に放置された高価な肥料の袋。まだ十分に使えるはずなのに、煤が少しついただけで取り替えられる高級なキャンドル。そして、案内される途中で通りかかった厨房から漂う、過剰な食材の破棄される匂い。
(この屋敷の『管理会計』はどうなっているの? 表面上の華やかさに隠れて、流動資産が垂れ流しになっているわ……)
その夜、用意された豪華な客間に落ち着いたリリアーヌは、身の回りの世話を焼くサリヴァンを近くに呼んだ。
「サリヴァン、少し話があるの」
「何なりと、お嬢様。まだその『叔父様の理性を溶かす、あざといほどの愛らしさ』を武器に戦われますか? それとも、そろそろ本題に入られますか?」
サリヴァンは慇懃無礼に頭を下げながら、唇の端を吊り上げた。彼はリリアーヌが昼間に見せていた「可憐な少女」が、中身を完全に入れ替えた別人であることを確信している。
「話が早くて助かるわ。サリヴァン、この屋敷の帳簿……いえ、家計の管理状況を探ってほしいの。できれば、表に出ている数字ではなく、現場の『生きた数字』を」
「……お嬢様、それはまた、令嬢の趣味としては少々風変わりですね」
「趣味じゃないわ、死活問題よ。叔父様は私という存在に目を奪われて、足元の綻びに気づいていないみたい。このままじゃ、私がこの家に馴染む前に、お屋敷そのものが立ち行かなくなってしまうわ」
リリアーヌの瞳には、昼間の弱々しさは微塵もなかった。
数日後、サリヴァンは驚くべき速さで「収支の概算」を報告してきた。
サリヴァンがリリアーヌの元へ持ち帰った報告書は、公的な帳簿よりも遥かに生々しく、正確な実態を映し出していた。 彼は持ち前の情報収集能力を使い、家令や厨房の責任者から、雑談を装って数字を抜き出してきたのだ。
その手法は、実にスマートで、そして恐ろしいほどに「効果的」なものだった。
例えば、頑固な女性料理長が仕切る厨房。サリヴァンは忙しなく立ち働く彼女の隣にふわりと歩み寄り、絶妙なタイミングで、疲れを癒やすための最高級のハーブティーを差し出す。
「マダム。今日も貴女の仕切る厨房は、まるで一糸乱れぬオーケストラのようです。……ですが、その瞳にわずかな翳りが見えるのが、私の心を痛ませます」
低く、甘く、鼓膜を優しく撫でるような声。サリヴァンは料理人の荒れた手に自身の指先をわずかに触れさせ、吐息が届くほどの距離で、労るように微笑みかける。
「貴女ほどのプロフェッショナルが、最近、食材の仕入れ値のことで眉をひそめておられる。……商人の横暴に心を削っておられるのではないですか? 私にだけ、その苦労を分けてはいただけませんか。貴女のその美しい指が、数字の計算などで汚されるのは忍びない」
ほんの数秒の「色仕掛け」という名の蜜。 サリヴァンの瞳に見つめられ、完璧な距離感で特別扱いをされた料理長は、頬を染めて堰を切ったように話し始める。卸値の不自然な高騰、裏で発生している中間マージン、不透明な伝票の数々――。
サリヴァンはそれを「同情的な聞き役」としてすべて受け止めながら、脳内ではその情報を冷徹な「データ」としてアーカイブしていく。
サリヴァンが次に向かったのは、屋敷のすべての備品と消耗品を厳格に管理する家政婦長、グレタの執務室だった。
グレタは先代から勤める古参で、その「氷の規律」に妥協はない。若い使用人たちは彼女の鋭い視線に震え、おべっかや甘言が一切通じないことを知っている。だが、サリヴァンだけは例外だった。
夕闇が迫るリネン室。山積みのシーツを整理するグレタの背後に、サリヴァンは音もなく忍び寄った。
「……グレタさん。また、お一人で重荷を背負っていらっしゃる」
耳元で、深くなめらかな低音が響く。それは耳を撫でるというより、脳の奥に直接甘い蜜を流し込むような、抗いがたい熱を帯びた囁きだった。グレタが息を呑み、振り返る間もなく、サリヴァンは彼女の背後から手を伸ばし、シーツを棚に収めるのを手伝う。
彼の長い指先が、グレタの手にわずかに触れた。それは偶然を装った、確信犯的な接触。
「サリヴァン……貴方は、いつもそうやって……」
グレタの声は、自分でも驚くほど湿り気を帯びていた。彼女は、この若く美しい従者だけが、自分の孤独な献身を「正しく理解している」という錯覚に、熱く、とろけるように絡め取られていく。
「無理もありません。この屋敷の『秩序』を守っているのは、主ではなく貴女なのですから。……ですが、貴女のその清廉な瞳が、最近の不自然な在庫の目減りに、ひどく傷ついているのが分かります」
サリヴァンはさらに距離を詰め、彼女の首筋に熱い吐息が触れるほどに顔を寄せた。
「貴女を独りで苦しませたくない。……私にだけ、その『重荷』を分けてはいただけませんか? 誰にも知られぬよう、私がその汚れをすべて引き受けますから」
熱を帯びた囁きが、グレタの理性を甘く溶かしていく。サリヴァンの瞳に見つめられ、熱に浮かされたようになった彼女は、自らの内に秘めていた「秘密の帳簿」のありかを、まるで愛の告白でもするように、切なげな吐息とともに漏らしてしまった。
それは、分家筋が換金目的で持ち出した美術品のリストと、それを隠蔽するために偽造された受領証の存在だった。
あるいは、分家筋に媚びを売る副家令に対しては、共犯者を装う。
「今のうちに、賢く『備えて』おくべきだと思いませんか?……あの方(分家)のやり方では、この家の資産はいずれ底を突く。貴方のように有能な方が、共倒れになるのはあまりに惜しい」
肩を叩き、二人だけの秘密を共有するような密やかな囁き。サリヴァンが醸し出す「君だけの味方だ」という錯覚に、保身に走る男たちは容易く転落し、隠し口座の存在やリベートの比率を自白してしまうのだ。
「……以上が、現時点での当家の『実効支出』の推計です。マダムからは砂糖の横流しの証言を、分家筋が換金目的で持ち出した美術品のリストを、副家令からは修繕費の水増しルートを、それぞれ『譲渡』していただきました」
リリアーヌの前に戻ってきたサリヴァンは、先程までの甘い雰囲気など微塵も感じさせない、冷徹で忠実な従者の顔に戻っている。
「ご苦労様、サリヴァン。……あなたのその『ルックスによる情報コストの削減』は、相変わらず素晴らしいわね」
リリアーヌが皮肉混じりに称賛すると、サリヴァンは恭しく一礼した。
「お褒めに預かり光栄です。私の皮相が、お嬢様の資産形成の役に立つのであれば、いくらでも安売り(ディスカウント)いたしましょう。……もちろん、本質を捧げる相手は、世界にただ一人しかおりませんが」
影の中から向けられるその視線だけは、どんな市場にも出回らない、彼がリリアーヌという「経営者」だけに贈る、最高純度の利息だった。
サリヴァンが差し出したメモには、リリアーヌが作成したフォーマットに従って、簡略化された損益計算書が記されていた。
そこにあったのは、凄まじい額の「使途不明金」と、相場を大きく上回る「備品購入費」。
「家令が業者と結託してキックバックを受け取っているわね。それに、在庫管理が全くされていない。これだけの規模の屋敷で、仕入れと消費の照合が行われていないなんて、経理担当者がいたら発狂するレベルよ」
リリアーヌはこめかみを押さえた。
ヴィクトールは軍事や外交には長けているが、家庭内の細かい金銭管理には無頓着らしい。そして叔母のイザベラも、高価なドレスや宝石を買うことには熱心だが、それがどこから算出されているかには興味がない。
この屋敷は、内部の人間によって食い荒らされている「空洞化した大企業」と同じ状態だった。
「サリヴァン、これを見て」
リリアーヌは、サリヴァンが持ってきた数字をもとに、脳内で弾き出した予測を書き留めた。
「今のペースで資産が流出していけば、数年後には侯爵家のキャッシュフローは深刻な状態に陥る。そうなれば、叔父様は真っ先に『利益を生まない固定資産』を切り捨てるはずよ」
「……つまり、お嬢様のことですね」
「正解よ。今は亡き母への執着で守られているけれど、金がなくなれば背に腹は代えられない。政略結婚の駒として売られるか、維持費削減のために廃嫡されるか。どちらにせよ、私の『事業計画』には致命的なリスクだわ」
リリアーヌは立ち上がり、窓の外に広がる月の光に照らされた庭園を見つめた。
彼女が生き残るためには、ただ「愛される」だけでは不十分だ。
ヴィクトールにとって、リリアーヌが「精神的な癒やし」であると同時に、「この家の財政を立て直す唯一の救世主」であるという実利的な価値を証明しなければならない。
「愛と利益。その両輪を回してこそ、私の持続可能な生活が守られるのよ」
リリアーヌは冷たく、そして美しく微笑んだ。
その表情を見たサリヴァンは、ゾクりとするような興奮を覚え、深いお辞儀をした。
「承知いたしました。では、最初の大掃除のターゲットは誰にいたしましょう?」
「まずは、一番私を甘く見ている『家令』からね。彼が握っている裏帳簿を、私の『資産』に変えさせてもらうわ」
リリアーヌ・ド・ヴァロワ。
可憐な少女の皮を被った最強の会計士が、侯爵家の闇を暴き、自らの価値を絶対的なものにするための「監査」を開始した。
(……一円の狂いも、一滴の無駄も、私は許さないわよ)
その夜、侯爵家の静寂の中で、紙をめくる音とペンが走る音だけが、密やかに、そして力強く響いていた。




