第七話 6月26日(水)11:00
三メートル×四メートルの空間の中で、時間は時間や分では流れない。埃の層になって積もっていく。
本館の奥にある楽器倉庫には、窓がなかった。北の壁の高いところに、細長い天窓がひとつあるだけで、錆びた金網と、何十年分もの汚れに覆われていた。そこから差し込む光は、金色でも白でもなかった。朝の八時も、正午も、午後四時も、まったく変わらない灰色の薄闇だった。
空気は、カビと、劣化していく合皮と、手の毛穴から染み込んで皮膚の一部になってしまう安物の鉱物油の匂いがした。
僕の日課は、目的のない機械的な動作の連続に縮んでいた。
六時十五分に着く。倉庫の南京錠を開ける。蛍光灯をつける。それは二回またたいてから、低く鈍い唸りを出しつづける。クロス、研磨剤の缶、掃除用の棒、固くなったバネ用のペンチを取り出す。
最初の一時間は、誰も使わないケースを拭いた。ファゴットの予備管、昭和五十三年製のシンバルのカバー、廃棄寸前の備品として置かれているアルトサックス。誰にも頼まれていない。でも手を止めると、倉庫の静けさが濃くなりすぎて、肺に空気を入れるのが苦しくなった。
八時になると、建物全体が振動を始める。
倉庫と音楽室を隔てる石膏ボードの壁を通って、音が伝わってくる。オーケストラのきれいな音ではない。準備の音だ。ばらばらの音階、キーの鳴る音、オーボエのチューニング。僕はコントラバスのケースが並ぶ棚に背を向けて床に座り、冷たい壁に後頭部をつけた。
壁の木の振動だけで、楽器がひとつひとつ聞き分けられた。
ファーストクラリネットは、佐々木。高音に少しためらいがあって、大きすぎるビブラートでそれを隠している。
バストロンボーンは、山本。肺活量なら誰にも負けないと見せつけたい人間の、空気を殴りつけるような吹き方。
そして、ファーストトランペット。高橋。
高橋は、絶対に外さなかった。彼の音は、磨かれた大理石の塊だった。冷たく、幾何学的で、完璧だった。『四季』の第二楽章のソロが始まるたび、その振動が壁を越えて、歯の中まで入ってきた。
そんなとき、僕はケースを開けて、トランペットを取り出した。
唇には当てない。もう、当てなかった。
ただ、暗記している楽譜のリズムに合わせて、ピストンを無言で押した。一番と三番。一番と二番。二番。息はなく、音もない。僕が空けた穴を埋めるために、もう隊列を組み直してしまったバンドのための、幽霊の演奏だった。
椅子ひとつ分の空間は、そう大きくない。半平方メートルだ。六十人が、その距離を再配分して、誰かの不在が亀裂ではなく、ぴったりした調整になるまでに、どれほど速く動けるものか。驚くほどだった。
午前十一時になると、足の感覚が鈍った。
僕は、床の湿り気で時間を測ることを覚えた。左隅のコンクリートが汗をかきはじめると、食堂の厨房がうどんの湯を沸かしているとわかった。蛍光灯の唸りの周波数が変わると、建物の電気が技術室のほうへ回されているとわかった。
普段の教室、一年B組でも、僕の存在は縮みつづけていた。
僕は、完全な不動の技術を身につけていた。三列目の自分の席で、背筋を伸ばし、両手を机の上で組み、五十分の授業のあいだ、不必要な動きをひとつもせずにそこにいた。まばたきをしなければ、人は輪郭に気づかなくなる。
森田先生は、出席を取るとき、もう僕のほうを見さえしなかった。名前は暗記で読み上げられた。
「太田」
「はい」
「斉藤」
「はい」
「佐々木」
「はい」
僕の欄は、白紙のページを飛ばすような、自然な滑らかさで通り過ぎた。意識的な省略ですらなかった。僕の名前は、活字の影になっていた。朝のリズムを乱さないように、先生の目が無視することを覚えた、誤植だった。
ある木曜日の午後、ホルンの水抜き管を拭いていると、奥の段ボール箱のひとつに、置き忘れられた手鏡を見つけた。枠は壊れ、鏡面は指紋で曇っていた。
覗き込んだ。
灰色がかったガラスに映った少年は、一か月前より頬骨が目立っていた。少しくぼんだ目は、蛍光灯の光を映さず、吸い込んでいた。顎の線の下には、暗い影があった。倉庫の薄闇が、少しずつ皮膚の中へ入り込んでいったかのように。
いちばん恐ろしいのは、疲れではなかった。自分だと認めるのに、三秒かかったことだった。
二度まばたきして、下唇を動かし、鏡の中の人影が僕と同じように動くのを確かめなければならなかった。自分の身体の密度に対する確信が、溶けていく。誰にも見られず、誰にも名前を呼ばれず、廊下で誰にもぶつからないなら、いったい、どれだけの質量が残っているのだろう。
五時半、校舎が空になり、部員たちが荷物をまとめて、みんなで帰っていくころ、僕は倉庫に戻った。
蛍光灯を消す。
クロスをしまう。
南京錠をかける。
金属がはまる音は、毎日、小さな棺の蓋が閉まる音のように響いた。
駅へ向かって歩いた。暗い制服の生徒たちの波の中を。みんなは笑い、軽くぶつかり合い、角の自動販売機で買ったソーダ味のアイスを分け合っていた。僕は建物の壁にぴったりくっついて歩いた。空っぽのリュックを背負い、もし猛スピードのトラックが通りを走って僕の身体を通り抜けても、アスファルトに残るのは冷たい風と鉱物油の匂いだけだろう、という恐ろしい感覚を抱えて。
倉庫は、僕を閉じ込めたのではなかった。
倉庫はただ、この世界における僕の本当の大きさを、正確に見せてくれただけだった。




