第四話 6月19日(水)08:15
学校の事務の世界には、愛撫のような柔らかさで発音される言葉がある。「指導」だ。担任が生徒を導き、社会の機能的な部品に育て上げる過程、ということになっている。だが北野高校における指導とは、クラスの平穏を脅かす者の角を削り落とす技術にすぎなかった。
森田先生は、八時十五分に2年B組へ入ってきた。四十代半ば、灰色のスーツは肘のあたりが擦り切れ、目まで届いたことのない機械的な笑みを貼りつけている。現代文の教師で、僕たちの担任だった。
「みんな、おはよう」
出席簿を教卓に置いて、先生は言った。
「夏目漱石の本文に入る前に、学期の発表課題のグループを決めます」
かすかなざわめきが、列を伝っていった。日本の教室では、グループ作りは、この世でもっとも容赦のない社会学的な試験だ。くじ引きはない。「自由に組んでいい」と言われる。それは実際には、ひとりひとりの身体の価値を、その場で計測するということだった。
「四人一組。五分間で相談して、各列の先頭の机にある用紙に名前を書くこと」
椅子を引きずる音が、ほとんど同時に響いた。男子も女子も振り返り、素早く視線を交わし、小さく手で合図する。右隣の斉藤は、もう後ろの席のほうへ体ごと向き直り、ほかの二人と閉じた三角形を作っていた。彼らの背中が、僕のノートから数センチのところに壁を作った。左側では、今朝椅子を引いた女子が、先頭列のグループと小声で話し始めていた。
誰も僕を見なかった。
誰も「もう四人そろってるから」とは言わなかった。それを言うには、僕が存在していると認めなければならない。
僕の机のまわりの空間は、教室の幾何学に属さなくなった。僕は、木と金属でできた小さな島になった。あらゆる方向へ流れていく海の中で、僕のほうへだけは流れてこない、島に。
三分が過ぎた。グループが次々に用紙を提出し始めた。
森田先生を見た。先生は窓際に立ち、出席簿をめくっていた。教壇から見れば、三列目にひとりぼっちで座っている生徒がいることに、気づかないほうが難しい。
目が合った。一瞬だけ。
その目に悪意はなかった。もっと悪いものがあった。疲れと、計算。もし「誰か、ハルトを入れてくれる班はないか」と声に出せば、クラスがすでに切り捨てた者を、どこかの班に無理やり引き受けさせることになる。摩擦を生むことになる。担任にとって、輪から外れた生徒は被害者ではない。クラスの「和」の数字を汚す、進行上の厄介事だ。
森田先生は、興味のない本のページをめくるのと同じ自然さで、目をそらした。
「よし」
先生は乾いた拍手を二回した。
「ほとんどの班が決まったようだね」
後ろのほうから、高橋先輩が声を上げた。いつもどおりの、落ち着いた、ほとんど優しげな声で。
「先生。僕たちの班は三人しかいません。ですが、作業量とコンクールの近さを考えて、誰も加えずに引き受けられると判断しました。そのほうが時間も効率的に使えますから」
敬意に満ちた沈黙が、その言葉を迎えた。森田先生は微笑んだ。本物の、安怠の笑みだった。
「わかった、高橋君。吹奏楽部がそう考えるなら、問題ない」
先生は黒板に向き直り、課題の概要を書き始めた。
僕の名前は、ただの一度も出なかった。
「君はどうする、ハルト」の一言も、なかった。
システムは、問題に名前をつけずに解決してしまった。僕はどの班にも割り当てられなかった。つまり、排除されたのではない。ただ、方程式の外に残されただけだ。告発できるような、いじめという行為は、どこにも存在しなかった。もし誰かが森田先生に尋ねれば、先生はこう答えるだろう。あの生徒は、クラスの流れが定めたタイミングで、輪に溶け込めなかったのだと。
国語のノートを開いた。鉛筆の先を紙の上に滑らせ、先生が黒板に書いていく文字を写し始めた。
手はもう震えていなかった。
朝の怒りは冷えていき、胃の底に沈む薄い澱の層になった。
先生の加担が痛かったのは、それが不当だからではない。この学校でほんとうに意味を持つ唯一の掟を、それが裏づけたからだった。
日本では、真実は重要ではない。
重要なのは、水面が、その下で誰かが溺れていることに誰も気づかないほど、平らなままでいることだけだ。




