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第二話 6月18日(火)19:30

出汁の香りと、焼き鯖の匂いが食堂に満ちていた。僕が入ったとき、時刻は七時半だった。普通の日本の家庭では、夕食は会話の場ではない。箸が陶器に当たる音と、居間のテレビのくぐもった声に区切られた、静かな手続きだ。その時間のテレビは、関東地方の天気予報を流していた。


母は、明るい色の木のテーブルにご飯のお櫃を置いた。玄関で僕が靴を脱ぐ音がしても、振り向きもしなかった。


「遅いわよ、ハルト」


エプロンを直しながら母は言った。


「お父さんは九時までに、名古屋支社向けの報告書を仕上げなきゃいけないの」


「ごめん」


僕は呟き、リュックを下ろして、玄関脇の棚のそばにきちんと置いた。ベルトは内側に折り込んで。小学校の頃から、そう教え込まれてきたとおりに。


三人で席についた。父はワイシャツのままで、ネクタイを二センチだけ緩め、左手でご飯茶碗を持っていた。目は、皿の横に開いたノートパソコンの画面から離れない。


「いただきます」


声が揃った。魂のない、呟きだった。


最初の十分間、聞こえるのは魚の皮が割れる音とテレビだけだった。胃が痛んだ。胸骨のすぐ下に、固く締まった結び目があって、飲み込めない。米粒の一つひとつが、乾いた砂のように喉に引っかかった。手はまだ、トランペットの手入れで強張っていた。耳の奥では、高橋先輩の言葉が鳴り続けている。


『バンドみたいに鳴らせないなら、せめて、他のみんなが鳴らせるように役に立て』


「部活のことなんだけど……」


切り出した声は、かすれて、ひび割れていた。


母は、口へ運ぶ途中で箸を止めた。僕を見たのではない。父を見た。食卓の空気がどう動くかを、測るように。父は画面から目を上げなかったが、キーボードの上の指のリズムが止まった。


「部活がどうしたの」


母は静かに訊いた。壁にひびが入る気配を感じ取った人の、潜んだ硬さを含んだ声で。


「今日、練習でミスをして。金管パートで。高橋先輩に、明日から朝七時に来て、みんなの楽器を掃除しろって言われた。それから、コンクール前の全体合奏にも出なくていいって。僕は、倉庫に残されることになった」


そのあとの沈黙は、激しいものではなかった。濃くて、重くて、家族にしか作れない、ぬるい失望が染み込んでいた。


父はパソコンの蓋を、乾いたカチッという音で閉じた。緑茶の湯呑みを唇に運び、ゆっくり一口すすり、そしてようやく僕を見た。その目には、五十歳のサラリーマンの疲れが映っていた。一生、上司に逆らわずに従ってきた男の疲れが。


「なぜ、そんな罰を与えられた」


怒りではない。事実を確認する口調だった。


「何時間も練習してて、唇が一小節で震えて。ほんの一瞬だったんだけど……」


「ハルト」


父は遮った。声は一デシベルも上げなかった。それが、いちばん恐ろしかった。僕の存在を解体していくときの、完全な静けさ。


「高橋君がその役目を割り当てたのなら、それはお前の準備が、北野高校の水準に達していないと判断したからだ」


「でも、小林だって昨日、第二楽章で間違えたのに、何も言われなかったじゃないか!」


食卓で声を荒げてはならないという、暗黙の掟を破って、僕は言い放った。


「みんな、何でもいいから口実を探してるんだ! 高橋先輩は、僕が成績がいいから、自分の時間のほうが価値があると思ってるんだって言った……わざと外されてるんだよ」


母は、かすかなため息を漏らし、片手をこめかみに当てた。


「ハルト、やめなさい。先輩のことをそんなふうに言うものじゃないわ。音楽部には、全員が守るべき上下関係があるの。被害者ぶったりしたら、扱いにくい子だと思われるだけよ」


「被害者ぶってなんかないよ、お母さん。明日は倉庫でひとりきりなんだ、あの人たちは……」


「お母さんと父さんが、保護者会の会費と楽器の維持費を払うのに、どれだけ苦労していると思っている」


父はテーブルに前腕をついた。その視線は、欠陥のある報告書を見るように、僕の視線を貫いた。


「北野高校には評判がある。吹奏楽部は、この地区の誇りだ。失敗しておきながら、集団のせいにして言い訳するのは、我慢がまったく足りないということだ」


我慢。忌まわしい言葉。耐えがたいことを黙って耐え、誰の重荷にもならないこと。それが、この国の美徳だ。


「お父さんの言う通りよ」


母は、僕の茶碗を下げながら言った。ご飯はほとんど減っていなかった。三口しか食べていなかったのだから。


「世の中ではね、人にどう扱われるかは選べないの。選べるのは、どう反応するかだけ。高橋君が朝七時に楽器を掃除しろと言うなら、六時半に行きなさい。誰よりも上手にやるのよ。パートの迷惑にならない子だって、見せなさい」


「わかってないよ……掃除のことじゃないんだ。みんな、僕をまるで……もう仲間じゃないみたいに見たんだ」


「ならば、また仲間に戻れるまで努力しろ」


父はそう断じて、パソコンの蓋をふたたび開いた。


「来週は一学期の期末試験だ。部活のことで成績に響くようなことがあってはならん。成績不振者の名簿に載れば、学校から家に電話が来る。そんなものは、今の父さんと母さんには必要ない。わかったな」


僕は母を見た。母は背を向けて、流しで中華鍋を洗っていた。熱いお湯の流れが、僕たちのあいだに湯気のカーテンを作っていた。母は振り向かなかった。肩を叩いてもくれなかった。「大丈夫よ」という言葉もなかった。ただ、たわしが金属をこする、規則正しい音だけがあった。


「……わかりました」


僕は席を立ち、父の背中に向かって軽く頭を下げ、自分の部屋へ行った。


襖を閉めた。部屋は、六畳の大きさにまで縮んだ。壁に背をあずけて床に座り、夜が東京に降りてくるにつれて、窓の格子の影が天井に伸びていくのを見ていた。

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