第十六話 7月12日(金)21:10
母親の眼差しには、記録も、黒い表紙のノートも要らない。
日本の家庭では、和を乱さぬよう、率直な言葉は避けられる。痛みは名指しされない。背中の傾きや、台所の明かりに照らされたこけすぎた頬や、もう廊下の床板を震わせなくなった足音から、察せられるだけだ。
夜の九時だった。父は、まだ帰っていなかった。
僕はひとりで夕食を済ませていた。母は流しの前に、僕に背を向けて立ち、汁椀を洗っていた。熱いお湯の湯気が、昆布と柑橘系の石鹸の濃い匂いで台所を満たしていた。
皿を下げようと立ち上がった。調理台に置いたとき、制服の袖が二センチずり上がった。
母が振り向いた。
赤く濡れた手が、スポンジの上で止まった。食器は見なかった。僕の手首を見た。
袖がたくし上がったところに、肩の痣の緑がかった縁が、長い影のように前腕へ伸びているのが見えた。その影の隣には、前の晩に暗がりで洗おうとしたシャツの、白っぽい跡があった。
二人のあいだに落ちた沈黙は、水の音よりも重かった。
「ハルト」
声は、大きくも、ヒステリックでもなかった。古い絹がふいに裂けるような、かすれた囁きだった。
僕は頭を下げた。タイルの模様に目を落とした。
「また、痩せたわね」
母は言った。一歩近づいたが、触れるところまでは来なかった。震える手が、熱い空気の中に宙づりになっていた。
「今朝のシャツ、背中にチョークの粉がついてた。それに上着……湿った匂いがした。古い倉庫の匂い」
答えなかった。
この家の作法なら、すぐに言い訳が要るところだった。体育で転んだ、机にぶつけた。けれど言葉は、口に収まらないほど小さくなっていた。
母は手を下ろし、すり切れたエプロンに押しつけた。
「学校で……」
言葉が詰まった。唇を結び、もう一度やった。
「まだ、倉庫にいるの?」
「はい」
かすかな息が漏れた。ほとんど音にならなかった。
母は目を閉じた。深い新しい皺が、額を横切った。母親というものは、子どもがもうここにいないことを知る。玄関から入ってくる様子で。靴を引きずって脱ぐ様子で。床を踏んでしまうことを、床に謝っているみたいに。
「お父さんはね、辛抱が大事だって言うの」
母は続けた。声には、数週間前の張りがなかった。すり減って、ほとんど子どものようだった。
「我慢していれば、二学期には椅子を返してもらえるって。これは人間としての試練にすぎないって」
間があった。顎に、震えが走った。
「でも、あなたはもう、ここにいないのよ、ハルト」
僕は、ほんの少しだけ目を上げた。
一か月ぶりに、母の目を見た。
そこに怒りはなかった。ノートの文面のような厳しさも、父の硬さもなかった。凍りつくような怖れがあった。自分の育てた子が、透けた輪郭になってしまったと気づいた母親の、打ちのめされた確信。まだご飯を食べ、制服を着ているのに、ガラスに映った姿からはもう光が返ってこない、幽霊。
「見て」
母は囁くように頼んだ。
「私を、見て」
僕は見た。
母に見えたものは、きっと恐ろしかっただろう。涙はなかった。救われたいと願う者の怒りもなかった。すべての答えをもう差し出してしまった人間の、空っぽの静けさ。現在にはもう住んでおらず、時間が自分の荷物をまとめ終えるのを、辛抱強く待っている人間の目。
「ハルト……お願い」
母は言った。そして初めて、建前を破った。僕のほうへ身をかがめ、痣のちょうど上の袖を、そっとつかんだ。
「もし何かあるなら……部活がきつすぎるなら……お父さんに話せる。体調が悪いって言える。休ませてもらうこともできる」
その申し出は、痛ましいものだった。
息子の欠席を病気ということにするのは、禁じられた言葉を口にせずに、世間の目から子を守ろうとする母親の、最後の手段だ。熱の仮面をかぶった、静かな降伏。
それは、遅すぎた。
三週目に来ていたなら、最初のチョークの粉が机に落ちたころなら、命綱になっただろう。自分が欠陥品だという数学的な確信とともに受け取る今、それは、すでに粉になってしまった花瓶の破片を、つなぎ合わせようとする試みのようにしか響かなかった。
僕は微笑んだ。
小さな、機械的な、迷惑をかけないように練習された微笑みだった。
「いらないよ、お母さん」
声はきれいに出た。震えもなく、苦しみの気配はどこにもなかった。
「病気じゃない。遠藤先生が、パートには秩序が必要だって。僕は、僕のやるべきことをしてるだけだよ」
「ハルト……」
「ごはん、おいしかった」
僕は付け加えて、きれいで、遠い礼儀正しさで頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
背を向けて、階段を上がった。
背後に、それ以上の言葉はなかった。調理台に手をつく鈍い音と、嗚咽が壁を越えて通りまで届かないように、必死に押し殺す人の、途切れた息遣いだけがあった。
踊り場で、一秒だけ立ち止まった。
母のために痛みは感じなかった。
最終電車が目の前でドアを閉めるのを見る、駅に遅れてきた見知らぬ人に抱くような、冷たく遠い同情を感じた。
母は、知っていた。
黒いノートを一行も読まず、造花も、「消えろ」の文字も見ないまま、この家に残っていた唯一の真実を理解していた。
もう、この過程は止められない。
他の人たちが残酷すぎるからではない。
僕が、もう別れを告げていたからだ。
部屋に入り、音を立てずにドアを閉め、床に座った。黒いノートを取り出して、その日のページを開いた。
— 21:10 台所でのやりとり。母の眼差しが、身体的密度の不在を記録した。
— 家庭環境の状態:和は、不可逆的に壊れた。
— 結論:僕の存在という迷惑が、表面から染み出しはじめた。
ノートを閉じた。
暗闇の中で、家の鼓動は、もっとゆっくりに聞こえた。
まるで、母もまた、数えはじめたかのように。




