第十三話 7月10日(水)08:40
声が足りなくなっていることに初めて気づいたのは、火曜日だった。
森田先生が、出席簿から目を上げもせずに言った。
「ハルト、四十二ページ。二段落目を読んで」
立ち上がった。本を開いた。字ははっきり見えた。何が書いてあるかも、わかっていた。けれど口を開くと、低い、ほとんど形のない音しか出なかった。言葉の一部にもならない、ただの一音節。咳払いをした。もう一度やった。二度目で、ようやく二文だけ声にできた。クラスは黙って待っていた。それは、注意深い沈黙ではなかった。もう完全には動かなくなった機械を眺める人間の、沈黙だった。
「もういい」
森田先生は言った。手を振って、座るように合図した。
「次」
座った。本は机の上に開いたままだった。もう目で文字を追おうとはしなかった。次の生徒が話しはじめるまでにかかった秒数を数えた。七秒。七秒で、僕が立っていたあいだ占めていた空間は、完全に閉じていた。
その日から、答えは勝手に減っていった。
「わかった?」
「はい」
「教材は持ってきた?」
「はい」
「何かあった?」
軽く頭を下げただけ。それには声さえ要らなかった。
廊下で、誰かが肩に触れたり、押したりしても、もう「すみません」とは言わなかった。ただ頭を下げて、道を空けた。その言葉は、必要がなくなっていた。口の中で、場所を取りすぎた。
黒いノートは、それも記録しはじめた。
— 08:40 音読を指名される。回答不完全。発話の合計時間:11秒
— 10:15 数学教師の質問。回答:「はい」
— 13:20 廊下での接触。発声なし
夕方は、倉庫の掃除を終えてから、駅へ降りていった。
五時半のローカル線のホームは、暗い制服とリュックの川だった。以前は、小声で謝りながら慎重に進んでいた。今は、柱の縁にぴったり沿って歩いた。人は、僕を見ずによけてくれるか、よけないときは、僕のほうが止まって、空間がひとりでに開くのを待った。誰も僕にぶつからなかった。誰も、触れたときに謝らなかった。僕のまわりの空気は、他の身体が本能的に避ける、違う密度を持っているかのようだった。
水曜日、駅の近くの百円ショップに入った。新しいシャープペンと、黒いノートがいっぱいになったときのための替えのノートが必要だった。狭い通路のあいだを歩いた。店員は、誰も顔を上げなかった。レジで、店員は商品をスキャンし、金額を言って、手を出した。僕は小銭を置いた。店員は、僕の顔まで目を上げずに、お釣りを渡した。僕に向けられた「ありがとうございました」はなかった。ただレジの音と、僕の位置を取ろうと、そっと背中を押してくる次の客だけがあった。
袋を持って外に出た。通りの人の流れは、苦もなく僕を取り囲み、そして置き去りにしていった。しばらく自動販売機の脇に立って、身体が通り過ぎていくのを眺めた。僕のために軌道を変えた人間は、ひとりもいなかった。僕が占める空間は、あまりにも小さくて、摩擦さえ生まなかった。
その夜、暗い洗面所で、記録を更新した。
— 体重:記録開始から−1.8kg
— 推定睡眠時間:4.5
— 現在の痣:左肩甲骨(黄色く変色中)、左膝(腫れが残る)、右手の指関節(チョークの掃除による小さな擦り傷)
— 当日の発話:7回。すべて単音節か、お辞儀
その下に、もっと小さな字で、新しい行を書いた。
『声は、僕がまだ許可なく占めている最後の空間だ。
それを完全に使わなくなったとき、輪郭はもっと正確になる。』
ノートを閉じた。
表紙の音は、いつもと同じだった。
布団を整えずに横になった。肩は、もう同じ強さでは痛まなかった。もうなくなった重さの記憶のような、鈍い圧迫だけが残っていた。暗闇の中で、遠くの家の呼吸を聞き、冷蔵庫の周期のあいだの秒数を数えた。
棚卸しは続いていた。
数字は減っていた。
空間は縮んでいた。
そして僕は、数週間ぶりに、その過程に、ほとんど数学的な優雅さを感じた。
もう、何も無理に進める必要はなかった。
ただ、数えつづければよかった。




