第十二話 7月9日(火)19:50
家に着いたのは、七時五十分だった。
玄関は、洗剤と、いつもと同じ鯖の匂いがした。借り物の上履きを脱ぎ、正確さが自動になった手つきで父の靴の隣にそろえ、リュックをいつもの場所に置いた。ベルトは、もうほとんど重さを感じさせなかった。
母が、食堂から顔をのぞかせた。
「ご飯は、ちゃんと食べた?」
「うん」と僕は答えた。
正しい答えだった。質問を生まない答え。母はうなずいて、また引っ込んだ。台所から、流しの水が出る音が聞こえた。僕は音を立てずに階段を上がった。
自分の部屋で、制服の上着を脱いで、丁寧にかけた。腕を上げると、左肩が抗議した。痣はもう五百円玉ほどの大きさになっていて、紫がかった色をしている。明日には、もっと濃くなるだろう。壁にもたれて座り、待った。
まず、居間のテレビが消えた。
それから、両親の寝室のドアが閉まった。
冷蔵庫は、遠くでいつもの周期を続けていた。
家の静けさが完全になってから、僕は裸足で廊下に出た。
洗面所は暗かった。主電灯はつけなかった。鏡の脇の小さな明かりだけ。洗面台の上に、黄ばんだ光の帯を落とすやつだ。シャツを脱いだ。綿は、チョークの粉と、乾いたジュースかもしれないもののせいで、ところどころ固くなっていた。それを浴室のシャワーフックに掛けて、水の蛇口をひねった。ハンドソープで布をこすった。音を立てないように、秒を数えながら、水を長く出しっぱなしにしないように。こんな時間の洗濯機の音は、質問になってしまう。そして僕にはもう、「迷惑」以外の答えは残っていなかった。
いちばん目立つ染みが薄れると、滴が落ちなくなるまでシャツを絞って、浴槽の上に掛けておいた。明日、三時十五分に、洗い終えて、部屋のドアの裏に干そう。誰も見ない場所に。
それから、鏡を見た。
肩。
左膝。リノリウムにぶつけた衝撃で、まだ赤い。
頬骨の下の、かすかなくぼみ。もう、疲れだけでは説明できなかった。
痣に、二本の指で、押さずに触れた。温度と感触を記録するためだけに。局所的な痛み。ある。どうでもいい。冷たい水で顔を洗い、拭いて、湿ったシャツを、見られてはならない証拠を運ぶように抱えて、部屋に戻った。
床に座り、壁に背をあずけた。上着の内ポケットから、黒い表紙のノートを取り出した。隣には、造花と、折りたたんだ「邪魔」の紙があった。三つの物は、同じ空間を占めていた。もう、おかしいとは思わなかった。
ノートを開いた。
その日のページは、まだ途中だった。小さく、はっきりした字で、急がずに、記入を埋めていった。
— 07:42 足を引っかけられる。二階廊下。膝から転倒。左膝蓋骨に局所的な痛み。
— 08:15 机:水+消しゴムのかす+メモ「消えろ」。ズボン、ずぶ濡れ。
— 10:47 弁当をひっくり返される(斉藤)。唐揚げを踏まれる(小林、右踵)。
— 14:20 ロッカーに押しつけられる。左肩甲骨に衝撃。腹部に打撃。
— 19:50 自宅清掃手順、開始。洗面所の主電灯を消し、シャツを処理。
その下に、もっと短い行を足した。
『推定体重:記録開始から−1.2kg』
『空間占有能力:継続的に縮小中』
ノートを閉じた。
表紙の閉じる音が、部屋の中できれいに響いた。
壁を見つめた。窓の格子の影は、もう天井だけに映ってはいなかった。ノートの上にも、僕の手の上にも、布団の端にも落ちていた。空間そのものが、そこにまだ残っているわずかなものの寸法を、測っているかのように。
安堵はなかった。
恐怖もなかった。
ただ、棚卸しは予定どおりに進んでいるという、冷たく正確な確信だけがあった。
明かりを消した。
布団を整えもせずに横になった。
肩が、ゆっくりと一定の脈で痛んだ。誰にも聞く必要のない時計のように。
暗闇の中で、家は僕のまわりで息をしていた。僕がまだそこにいることを、知らずに。




