第十話 7月8日(月)16:30
トロフィーは、教室の真ん中にあった。
大きくはなかった。県大会の名前が刻まれた銀色の金属で、台座には一年B組の名前が彫られている。誰かがそれを教卓の上に置いていて、即席の祭壇のようだった。まわりには、開けたスナック菓子の袋がいくつかと、ドアが開くたびに揺れる小さな紙の旗が、二つ三つ。
教室は、勝利の匂いと、もうひとつ別のものの匂いがした。
ハルトは、いつものように最後に入った。誰も彼を見なかった。正確に言えば、誰も正面からは見なかった。視線は彼の上を滑って、そのまま通り過ぎていった。彼が占めている空気が、少し汚れているかのように。
自分の席に座った。
チョークの粉があった。
ひとつまみではない。ひとつかみ分。白く砕かれて、机の上にも椅子の上にもまかれていた。誰かが、まだ湿った指で、短くはっきりとした言葉を書いていた。
**汚物**
ハルトは数秒間、その文字を見つめていた。それからポケットからハンカチを出して、拭きはじめた。まず椅子、それから机の表面。チョークの粉が指にまとわりついた。爪の間に入り込んだ。何も言わなかった。顔も上げなかった。
隣で、誰かが短く笑った。
「うわ、また制服汚れてるよ」
あからさまな嘲りではなかった。誰に向けたわけでもない、空中に投げられた独り言だった。何人かが、同じくらい小さな声で笑った。内輪の冗談を共有しているかのように。
ハルトは拭きつづけた。
一時間目のあいだ、トロフィーは蛍光灯の下で光っていた。先生は、みんなが誇りに思うべきだと話した。集団の努力が実を結んだのだと。ひとりひとりが、自分の役目を果たしたのだと。ハルトはその言葉を、家の中で雨音を聞くように聞いた。遠く、よそよそしく。
休み時間、廊下で、誰かが通りすがりに彼を押した。
強くはなかった。バランスを崩して壁にぶつかる程度。教科書が落ちた。ノートが床に当たる音は、乾いて、はっきりしていた。
「すみません」
ハルトはすぐにしゃがんだ。
誰も手伝わなかった。上履きが二、三足、彼の手のそばで止まった。そのうちの一足が、ノートの一冊をつま先で軽く蹴って、少し遠くへやった。
「どんくさいな、お前」
ハルトは本を一冊ずつ拾った。数学のノートは角が折れていた。歴史の教科書には、ジュースのようなものの新しい染みがついていた。どこから来たのかは訊かなかった。ただ丁寧に重ねて、立ち上がった。
教室に戻ると、机はまた変わっていた。
白い花が一輪、木の上に置かれていた。
たった一輪。プラスチックの造花。百円ショップで、仏壇用に売っているような。誰かが丁寧に、真ん中に据えていた。供え物のように。
その下に、黒いマジックで、もうひとつ文が書かれていた。
**ご冥福をお祈りします**
ハルトは机の前に立ちつくした。花を見た。文字を見た。それから、二本の指で花をつまみ、制服の内ポケットにしまって、座った。文字は残っていた。消そうとはしなかった。ただ、その上にノートを開いた。時間がたてば、木がインクを吸い込んでくれるとでもいうように。
頭の中に、怒りはなかった。
冷たい、澄んだものがあった。
『これが、ふさわしいんだ』と、彼は思った。
『僕が代償だった。みんなは勝った。今は、残ったものを片付けているだけだ』
憎しみではなかった。もっと単純だった。保守作業だった。パーティーのあとに床を掃くように。彼は、空間をまた清潔にするために拾い集められるべき、残りかすだった。
午後の授業中、誰かが彼の首筋に消しゴムのかけらを投げた。小さな、無害なもの。ハルトは振り向かなかった。虫に気づいたかのように片手を上げて髪に触れ、そのまま書きつづけた。
終業のチャイムが鳴ると、教室はいつもの騒音とともに散っていった。笑い声、じゃれ合いの押し合い、週末の予定。トロフィーは先生の机の上で、光りつづけていた。
ハルトは、ほとんどの生徒が出ていくのを待った。それから立ち上がり、リュックを取り、自分の机の前で一秒だけ立ち止まった。「ご冥福を」の文字は、窓から差す夕方の光の下で、まだ読めた。
彼は軽く頭を下げた。何かに別れを告げるように。そして、無言で教室を出た。
廊下では、同じクラスの男子たちが、反対方向から歩いてきた。ひとりが、ちょうど聞こえる程度に声を上げた。
「気をつけろよ、腐ったみかんが来たぞ」
ハルトは壁際へ寄って、道を空けた。頭を下げた。
「すみません」
そう呟いて、歩きつづけた。




