17話 俺のベッド
教室の誰も、すぐには声を出せなかった。
ルキアは慌ててラジェルの腕を掴み、声をひそめて言った。
「ラジェル様。ひとまず、静かに」
ラジェルは鬱陶しそうにその手を振り払おうとした。
だが、ルキアの顔が青ざめているのを見て、わずかに動きを止める。
「……ふん。わかった。お前がそこまで言うなら、この場は合わせてやろう」
そう言って、ラジェルは静まり返った教室を見渡した。
ざわめきは戻らない。
隣では、清之助が口を半分開けたまま、二人を見ていた。
ルキアはひとつ息を吸い、どうにか表情を整える。
それから教壇へ向き直った。
「失礼いたしました、三枝先生」
声は保てた。
けれど、指先にはまだ力が入っている。
「この方は、私の国の皇太子でして……その、急に来られたので、驚いてしまって」
「こ、皇太子?」
男子生徒のひとりが、声を上げた。
それをきっかけに、張りつめていた空気が一気に崩れる。
「皇太子って、マジかよ!」
「お忍び留学ってやつか?」
「いや、そんなことある?」
三枝もまた、目を丸くしたままだった。
「え、皇太子ですか? そ、それは大変失礼しました。しかし、そのようなお話は……」
「私はここにいる。それが事実だ」
ラジェルが言い終わると、当然のようにルキアへ視線を向ける。
「ルキア。この学校の寮に滞在するのだろう? 案内しろ」
反射で、ルキアの背筋が伸びた。
「はい……」
◇
その日のうちに、ラジェルの滞在先は寮に決まった。
部屋割りを急に変えることもできず、ラジェルはルキアと清之助の部屋へ来ることになった。
夕方、三人目のための簡易ベッドが運び込まれた。
ラジェルは室内をひと通り見渡し、当然のように窓際のベッドまで歩くと、腰を下ろした。
カーテン越しの光が、その金の髪をひときわ目立たせていた。
「……なあ」
清之助が、ラジェルが座ったベッドを指差す。
「そこ、俺のベッドなんだけど」
ラジェルはちらりと目を向けただけで、素っ気なく返した。
「そうか」
「そうか、じゃなくてさ」
清之助は困ったように頭を掻いた。
怒鳴るというより、本気でどう説明したものか迷っている顔だった。
「ずっと使ってんだよ、そこ。……窓際じゃないと俺、起きれねーし」
ラジェルは一度、反対側のベッドに目をやった。
それから、何でもないことのように言った。
「こちらのほうが、光の入りがいい」
「知らねーよ、そんな基準!」
思わず清之助の声が大きくなる。
ルキアは額に手を当てた。
——本気だ。この人は。
「ラジェル様、ここは地球です。先に使っていた人の……」
「ルキア」
低く名前を呼ばれ、ルキアは反射的に口を閉じた。
「地球では、先に使っていた者が優先されるのか?」
その問いは、確認のようでいて、少しも引く気がない響きだった。
ルキアは答える。
「……まあ、普通はそうです」
「普通、か」
ラジェルは小さく鼻で笑った。
「エルセリアでは、目的に合わせて最適な場所を選ぶ。それが合理的だ」
「合理的とかじゃなくて、人としての話!」
清之助は占拠されたベッドを指差した。
「そこは俺の場所だ。譲る気はねえ」
その一言で、部屋の空気が張り詰めた。
ラジェルの視線が、初めてきちんと清之助に止まる。
ゆっくりとベッドから立ち上がり、真正面から清之助を見据えた。
「私は譲らない」
「マジか……」
清之助は困惑した顔のまま、ルキアのほうへ振り向く。
「おい、ルキア。こいつ、本気で言ってんのか?」
ルキアは、すぐに言葉が出なかった。
その数秒が、もう答えになっていた。
「清之助、すまない……少しだけ我慢してくれ」
「なんでだよ」
清之助はルキアを真っ直ぐ見た。
責めるような強さではない。ただ、納得できないという顔だった。
それを、ルキアは正面から受け止めきれない。
「僕が簡易ベッドを使うから、僕が使っていたベッドを使ってくれ。……朝は僕が起こす」
言い終えたあとも、ルキアは顔を上げなかった。
清之助はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。
「……わかったよ。でも、納得してねえからな」
ルキアを見ないまま、反対側のベッドへ歩いていく。
荷物をどさりと置き、そのまま腰を下ろした。
そこでようやく、ルキアは肩の力を少し抜いた。
けれど、部屋の空気は元には戻らなかった。
◇
昼間の騒ぎが嘘のように、夜の部屋は静かだった。
ルキアはラジェルの荷物を黙々と整理していた。
清之助はその様子をしばらく見ていた。
何か言いかけて、やめる。
「……風呂、入ってくるわ」
それだけ言って部屋を出ていった。
扉が閉まると、静けさがひとつ深くなる。
ラジェルは窓際のベッドに腰掛けたまま、夜空を見上げていた。
昼間の不遜な笑みはもうない。
ただ、横顔が妙に澄んで見えた。
ルキアは手を止め、その横顔をしばらく見ていた。
それから小さく息を吐き、ラジェルの前へ歩み出た。
自然に膝が折れる。その動きが、驚くほど身体に染みついていた。
「ラジェル様。どうして、この地球に。無断で来たのですか?」
ラジェルは真っ直ぐルキアを見た。
しばらく黙ってから、口を開く。
「お前が勝手にいなくなるからだろう」
いつもより、声が低い。
責めるようでいて、どこか子どもじみた響きだった。
ルキアは目を見開く。
「お前の任務は地球の観測だ。ただの休暇のようなものだろう。ならば、私が来てもいいではないか」
言い終えると、ラジェルは改めて部屋の中を見渡した。
「それにしても、この部屋は狭いな。宮殿の一室の十分の一もない」
「ここは地球の学生寮ですから……」
ルキアは静かに答える。
だが、ラジェルは気にした様子もなく続けた。
「まあいい。少しの間だ。我慢してやる」
「少しの間、とは……」
「お前の任務が終わるまでだ。それまでは、ここにいる」
「終わるまでって……本部には伝えているんですか」
ラジェルは何も言わず、目を逸らした。
ルキアも黙った。
沈黙が、ゆっくりと部屋を満たしていく。
やがて、廊下の向こうから清之助の足音が聞こえてきた。
その音にだけ、ルキアはわずかに顔を上げた。




