14話 化学室の笑い声
ルキアのクラスに、新しい先生が赴任してきた。
「今日から新しく化学を担当する篠原だ。よろしく頼む」
白衣を羽織った細身の男が、眼鏡の奥に笑みを浮かべて教壇に立つ。
声はよく通り、教室の後ろまで真っ直ぐ届いた。
「みんなの力になれるよう頑張るから、遠慮なく頼ってほしい」
前の席の誰かが小さく笑い、張っていた空気がふっとやわらぐ。
教室のあちこちで、椅子のきしむ音や控えめなざわめきがした。
けれど、ルキアの背中の奥だけが、ひやりと冷えた。
笑っている。
それなのに、目を向けられた瞬間だけ、何かがわずかに噛み合わない気がした。
隣で、清之助が小さく囁く。
「なんか、やけに人気出そうな先生だな」
「……そうだな」
ルキアは表情を変えないまま答えた。
「じゃあ、授業を始めようか」
篠原は軽い調子でチョークを走らせた。
酸化還元反応式を黒板に書き、手振りを交えながら説明を続けていく。
「この反応を見てくれ」
黒板を指しながら、篠原は言った。
「酸化還元反応ってのは、要するに電子のキャッチボールだ」
そう言って、投げる仕草と受け取る仕草を交互にしてみせる。
「片方が投げて、もう片方が受け取る。教科書には難しく書いてあるけど、本質はそれだけなんだよ」
教室のあちこちから、「なるほど」と声が上がった。
いつもはぼんやりと授業を受けている生徒まで顔を上げている。
清之助は机に肘をつき、感心したように頷いた。
「マジでわかりやすいっすね」
「だろ。難しく考える必要はないんだよ」
篠原が笑う。
それに合わせて、また教室に笑いが広がった。
けれどルキアだけ、その笑いの置きどころを見失う。
意味が届いた頃には、篠原はもう次の説明に移っていた。
声は聞こえているのに、笑みだけが妙に目に残った。
「エルヴァン、今の反応式を板書してみて」
その声に、視線が一斉に集まる。
ルキアは反射的に立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、少しだけ遅れて響く。
黒板の前へ出た。
差し出されたチョークを受け取ろうとして、指先が触れそうになる。
その瞬間、ルキアは手をわずかに引いた。
触れてはいけない気がした。
「えっと……」
教室の静けさが耳に刺さる。
だが次の瞬間には、迷いなく反応式を書き上げていた。
「おお、完璧」
篠原が軽く拍手する。
「さっすがルキア!」
清之助が親指を立てた。
教室の空気がまた緩み、今度はその意味がすぐに届いた。
ルキアは頬にほのかな熱を感じながら、小さく頭を下げて席へ戻った。
その後も授業は滞りなく進み、終わり際になると篠原は教科書をぱたりと閉じた。
軽く笑みを浮かべたまま、授業を締めくくる。
「化学ってのは、難しく考えすぎると途端につまらなくなる。本質を掴めば、案外シンプルで面白いもんだ。次回も気楽にやろう」
篠原が言い終えるのとほとんど同時に、チャイムが鳴った。
教室にはまだ、生徒たちの熱が残っている。
「俺、ちょっと頭良くなったかも」
清之助は笑いながら立ち上がり、そのまま教室を出ていった。
ルキアもその背を追いかけかけて、足を止める。
振り返ると、篠原はまだ教卓のそばに立っていた。
生徒のいなくなった教室の中で、ひとり板書を消している。
こちらに気づいていない。
ただ、その姿を見ているだけなのに、さっき感じた違和感だけがまだうまく言葉にならなかった。
ルキアは視線を外し、何も言わずに教室を後にした。




