9. 三百年の剣
翌朝、俺は再び結界の鍵を握ってフェルゲンの森に入った。
昨日と同じ小道を辿り、結界の前に立つ。石が蒼く光り、結界が開く。二度目だが、この結界の精緻さには改めて感嘆させられた。
湖畔の家の前に、武田嗣久はすでに立っていた。
昨日とは異なる姿だった。白い麻の衣服ではなく、濃紺の袴のようなものを穿き、上半身は薄い着物のような衣服を纏っていた。この世界の衣服を和装風に仕立て直したもののようだった。
そして、右手に壁に掛けてあった太刀を持っていた。鞘に収まった状態だが、その存在感は昨日と変わらない。
「来たか。早いな」
「武人は朝に強いものです」
「うむ。その通りだ」
武田嗣久は湖畔の、家から少し離れた場所に俺を導いた。
そこは平らな草地で、十分な広さがあった。足場も悪くない。稽古をするには申し分ない場所だ。周囲の木々が風を遮り、湖面から涼やかな空気が流れてきていた。
「佐田、おまえさんの流派は何と言った」
「佐田無心流です。江戸後期に興った総合武術ですが、中核は剣術です」
「江戸後期か。わしの時代より新しいな。わしの家伝の剣は、室町の頃から伝わる古流だ。名はない。武田の剣、としか呼んだことがない」
名のない剣。それだけで、この家伝がどれほど古いかが分かる。流派として体系化される以前の、一族の中だけで伝えられてきた武術。
「ルールを決めよう」
武田嗣久は太刀を鞘から抜いた。
刃が朝日を受けて、鈍く光った。反りの深い太刀。刃渡りは七十センチ以上。鎬造りの堂々とした刀身だった。
真剣だ。
「真剣で、ですか」
「落ち人同士だ。木剣では意味がない。それに、おまえさんの刀は真剣だろう」
確かに、俺の刀も真剣だった。学院でジリと打ち合うときは木剣を使っていたが、ここに木剣は持ってきていない。
「ただし、寸止めでやる。当てない。当てる直前で止める。わしもおまえさんも不老だが、不死ではない。腕の一本を落としては笑い話にもならん」
「了解しました。ただ、ひとつお伝えしておくことがあります」
「何だ」
「俺の理力は、色が蒼いのです。学院の教官にも珍しいと言われました。何か特別な意味があるのかは、俺にも分かっていませんが」
武田嗣久の表情が僅かに変わった。興味深そうに、だが同時に何かを慎重に見定めるような目だった。
「蒼い理力……。文献では読んだことがあるが、実際に見たことはない。ならばなおさら使え。おまえさんの蒼い理力、この目で見てみたい」
武田嗣久は二十歩ほどの距離を取り、正面を向いた。
俺も刀を抜いた。蒼い理力が、意識するまでもなく刃に流れた。
武田嗣久の目が細くなった。
「ほう……蒼か。美しい色だ」
武田嗣久の太刀にも理力が流れた。
色は白だった。純粋な白。雪のような白い理力が、太刀の刃文に沿って静かに輝いた。
蒼と白。二つの光が、朝の湖畔で対峙した。
「では、参る」
武田嗣久が構えた。
太刀を右手一本で、身体の右側にやや下げて持つ。左手は空。左足が前、右足が後。
見たことのない構えだった。無心流にも、学院で見たこの世界の剣術にも、似た型がない。
だが、隙がなかった。
ジリの構えにも隙はなかったが、あれとは質が違う。ジリの構えは鍛錬で磨き上げた完成度だった。武田嗣久の構えは、もはや構えですらないかのような自然さを持っていた。水が低きに流れるような、風が吹くような、そういう自然さ。
三百年の研鑽。その重みが、構えひとつに凝縮されていた。
俺は中段に構えた。正眼の構え。無心流の基本にして要。
「行きます」
俺から仕掛けた。
踏み込み、斬り下ろし。無心流の基本技、「正打」。
速さには自信があった。ジリを圧倒し、グラオムを斬った速度で踏み込んだ。
武田嗣久は動かなかった。
いや、動いた。だが、最小限の動きだった。上体を僅かに傾け、俺の斬り下ろしを紙一重でかわした。
刃が空を切る。
かわされた、と認識した瞬間には、白い光を纏った太刀が俺の喉元に伸びていた。
突き。右手一本の、しなやかな突き。
俺は首を捻ってかわした。太刀の切っ先が、頬の横を風を切って通過した。
寸止め。確かに寸止めだった。だが、止めたのは俺がかわしたからではない。武田嗣久が、最初から喉元の寸前で止めるつもりで突いていたのだ。
冷や汗が背中を流れた。
一合目にして、力量の差を思い知らされた。
俺は間合いを取り直した。
「……速い」
「おまえさんのほうが速い。だが、速さだけでは剣は届かん」
武田嗣久の声は穏やかだった。余裕があるのではない。これが自然体なのだ。
二合目は俺から仕掛けなかった。
構えたまま、武田嗣久の動きを待った。
相手の技を見極めてから対応する。これも無心流の戦い方のひとつだ。
武田嗣久が動いた。
歩くような速度で間合いを詰めてくる。走らない。踏み込まない。ただ歩く。
だが、その「歩き」に、俺の身体が反応した。全身の毛が逆立つような危機感。理力の感覚が、武田嗣久の全身から放たれる圧を感知していた。
殺気ではない。もっと純粋な、剣そのものの気配。
武田嗣久が太刀を振った。
横薙ぎ。右から左への、大きな弧を描く斬撃。
遅い。グラオムの前脚より遅い。ジリの斬撃より遅い。
だが、避けられなかった。
刃の軌道が途中で変わった。横薙ぎが途中から斬り上げに転じ、さらにそこから突きに変化した。一振りの中に三つの技が折り重なっていた。
俺は刀で受けた。金属がぶつかる澄んだ音が湖畔に響いた。白い理力と蒼い理力が衝突し、小さな光の粒が散った。
受けた衝撃は、見た目の緩やかさに反して重かった。腕に痺れが走る。
そのまま鍔迫り合いの形になった。
至近距離で武田嗣久の目を見た。
笑っていた。穏やかに、だが心底楽しそうに。
「いい受けだ。よくあの変化についてきた」
武田嗣久が鍔迫り合いを解いて後退した。俺も退いて間合いを取る。
「無心流、なかなかの剣だ。基本が堅い。だが、もう少し見せてくれ」
三合目。今度は俺が攻めた。
基本技だけでは通じない。それは一合目で分かった。
俺は無心流の連続技を繰り出した。「流水」。上段からの斬り下ろしを起点に、右袈裟、左袈裟、逆風、突き、と五連撃を切れ目なく繋ぐ技だ。
速度を上げた。理力を全身に巡らせ、身体能力を引き上げる。学院での五ヶ月間で培った、理力による身体強化。
五連撃のすべてが、かわされるか、受け流された。
だが、武田嗣久は後退していた。攻撃が完全に無効化されたわけではない。受け流しながらも、圧力は伝わっている。
「ふむ。力がある。理力の乗せ方も悪くない」
武田嗣久は足を止めた。
「ではわしも少し本気を出そう」
空気が変わった。
武田嗣久の全身から、白い理力が立ち昇った。湯気のように、だが湯気よりもはるかに濃く、はるかに力強く。
湖面が波立った。風もないのに、理力の放出だけで水面が揺れている。
これが、三百年の理力か。
武田嗣久が踏み込んだ。
速かった。先ほどまでの緩やかさが嘘のように、一瞬で間合いを詰めてきた。
太刀が閃いた。斬り下ろし。
俺は受けた。理力を刀に集中させ、全力で受けた。
轟音。
金属の衝突音ではない。理力同士の衝突が生んだ、空気の爆発のような音。
足が地面にめり込んだ。腕が震える。歯を食いしばって耐えた。
武田嗣久の追撃が来た。斬り下ろしから、流れるように横薙ぎ。さらに返して逆袈裟。
三連撃。先ほどの俺の五連撃より少ない手数だが、一撃ごとの重さと精度が桁違いだった。
二撃目までは受けた。三撃目は受けきれず、身体を捻ってかわした。太刀の切っ先が胸元をかすめ、上着の布が裂けた。
肌は切れていない。纏甲で防いだ。だが、纏甲がなければ胸を割られていた。
俺は大きく後退し、間合いを取った。
呼吸が荒い。理力の消耗も激しい。対して武田嗣久は、呼吸ひとつ乱れていなかった。
勝てない。
少なくとも、今の俺では。
だが、この瞬間、俺の中に恐怖はなかった。
むしろ、昂揚していた。
自分より遥かに強い剣士と刃を交える。それは武人にとって、最も純粋な喜びだ。皆伝を許されてからというもの、自分の限界を突きつけてくれる相手に出会えていなかった。祖父以外には。
もう一度。
俺は刀を正眼に構え直した。蒼い理力が刃で燃えるように輝いた。
「まだやるか」
「もう一合だけ。お願いします」
武田嗣久は微笑んだ。
「よかろう」
最後の一合。
俺は覚悟を決めた。
無心流奥義、「落月」。グラオムを仕留めた技。上段からの全力の斬り下ろし。
ただし、あのときとは違う。相手は獣ではない。三百年の剣士だ。同じように放っても、かわされるか、受け流される。
ならば、その先を用意する。
俺は跳躍した。理力を両脚に集中させた、全力の跳躍。武田嗣久の頭上を超えるほどの高さ。
頂点で、身体を反転させた。
落月。
蒼い光を纏った刃が、重力と理力の合力を乗せて、武田嗣久に向かって振り下ろされた。
武田嗣久は太刀を掲げて受けた。白い理力と蒼い理力が衝突し、光と音が炸裂した。
受け止められた。
だが、これは想定内だ。
俺は落月の衝撃が消える前に、刀を引き、着地と同時に身を沈めた。
低い姿勢からの、突き。
落月を囮にした、二段構えの攻撃。上を見せて、下を取る。
突きの切っ先が、武田嗣久の胴に向かって伸びた。
蒼い光が一直線に走る。
止まった。
俺の突きは、武田嗣久の胴の寸前で止まっていた。
同時に、武田嗣久の太刀が、俺の首筋の寸前で止まっていた。
相打ち。いや、厳密には違う。
俺が突きを放つのとほぼ同時に、武田嗣久は太刀を俺の首筋に当てていた。先に到達したのは、おそらく武田嗣久の太刀だ。
だが、俺の突きも届いていた。
「……見事だ」
武田嗣久が太刀を引いた。
俺も刀を引いた。
「上段からの斬り下ろしを囮にした変化。見事な組み立てだった。あの技をそのまま使うのではなく、その先を用意してきた。おまえさんは実戦の中で考えられる人間だ」
「ですが、首を取られていました」
「うむ。だが、わしの胴にも届いておった。三百年の中で、わしの胴に届いた人間は数えるほどしかおらん。五ヶ月で到達したのは、おまえさんが初めてだ」
武田嗣久は太刀を鞘に収めた。白い理力の光が静かに消えていった。
「佐田。おまえさんは強い。今はまだわしには及ばんが、この世界で生きていく中で、もっと強くなるだろう」
俺は刀を鞘に収め、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「礼を言うのはわしのほうだ。三百年ぶりに、剣を交える相手を得た。こんな喜びはない」
武田嗣久は湖を見た。白い理力の残光が湖面に映り、水面が淡く輝いていた。
「また来なさい、佐田。剣を交え、話をしよう。おまえさんがこの世界で生きていくために必要なことは、まだたくさんある」
「はい。必ず」
「それと、ひとつ忠告しておく」
武田嗣久の目が、再び三百年の深さを湛えた。
「おまえさんの蒼い理力は目立つ。蒼は珍しい。珍しいものは人の目を引く。善い目も、悪い目も。気をつけなさい」
ナターシャにも似たことを言われた。蒼い理力は稀少であり、大きなことを成し遂げた者が持っていたと。
「心得ています」
「本当に心得ているかどうかは、これからの行動で分かる。わしは見ておるよ」
穏やかな声だった。だが、その言葉の裏にある重みを、俺は感じ取っていた。
結界を出て森を歩きながら、俺は全身の疲労を噛みしめていた。
理力の消耗。筋肉の疲労。そして、打ちのめされた自尊心。
だが、心は軽かった。
自分より強い人間がいる。しかもそれが、同じ日本の剣を振るう人間だ。
追いつくべき背中がある。
それは、武人にとって何よりの幸福だった。




