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 10. アスファの街

 武田嗣久を訪ね、その翌日に仕合をしてから一夜が明けた。快晴の朝だった。


 結界の中の湖、その畔に佇む小さな家、そしてそこに住む三百年を生きた日本人。交わした言葉の一つひとつが、まだ生々しく記憶に残っていた。あの仕合のことも。


 だが、今日は別のことに集中しよう。


 エルティアとの約束がある。


 第二刻に総督府の正面玄関で落ち合う手はずだった。


 俺が玄関の階段を降りると、エルティアはすでに待っていた。


 先日の謁見の間で見た正装ではなく、動きやすそうな旅装に近い服装だった。淡い青色の上着に白い下衣。栗色の髪は後ろでひとつに束ねられていた。


 その後ろにヘルダが控えている。こちらは地味な灰色の衣服。目立たないが、目配りのきく位置に立っている。


 さらに、少し離れた場所に護衛の兵士が二人。サミンともう一人、見覚えのない若い兵士だった。リーダルは腕の怪我の療養中だろう。


「おはようございます、カズマさん。良い天気ですね」


「おはよう。案内、よろしく頼む」


「はい。任せてください。この街のことなら、誰よりも詳しい自信があります」


 エルティアは胸を張った。十六、七の少女らしい、素直な自信だった。


「まずは中央市場に行きましょう。朝のこの時間が一番活気があるんです」




 総督府を出ると、昨日馬車で通った大通りに出た。


 朝の陽光が石畳を照らし、通りにはすでに人があふれていた。商人、職人、買い物客、荷車を引く労働者。さまざまな人々が行き交っている。


 歩き始めてすぐに気づいたことがあった。


 すれ違う人々が、エルティアに気づくたびに会釈や敬礼をしていくのだ。エルティアはそのひとつひとつに、笑顔で頷きを返していた。


「顔が知られているんだな」


「総督の娘ですから。この街で知らない人はいません。良いことも、面倒なことも」


 面倒なこと、という言葉に微かな影が差したが、すぐに消えた。


 大通りを五分ほど歩くと、広い広場に出た。


 中央市場だった。


 広場いっぱいに露店が並び、色とりどりの商品が並べられていた。野菜、果物、肉、魚、香草、布、陶器、金物。屋根のない露店もあれば、布の天幕を張った大きな店もある。


 声が飛び交っていた。商人の売り声、客の値切り声、荷物を運ぶ者の掛け声。活気と喧騒が渦を巻いている。


「ここが中央市場です。アスファの台所であり、この地域の交易の中心でもあります。国内だけでなく、他国の商人もここに店を出しています」


 エルティアは慣れた様子で人混みの中を歩いた。護衛の兵士が少し離れて周囲を警戒している。ヘルダはエルティアのすぐ後ろにぴったりとついていた。


 俺は露店を一つひとつ観察した。


 商品の種類、価格帯、客層、商人たちの出身地。こういった情報の蓄積が、この世界を理解する土台になる。


 ある露店で足を止めた。金属製の道具を並べている店だった。鍛冶屋が直接売っているらしく、刃物類が充実していた。


「カズマさん、やはり刃物に目がいくのですね」


「職業病だ」


 並んでいる刃物の質を見た。鍛造の技術は悪くないが、鋼の質にばらつきがある。地球の、それも日本の鍛冶技術に比べると、やはり差がある。だが、この世界の技術水準としては上等な部類だろう。


「この店の主人は、アスファでも指折りの鍛冶師です。衛兵の剣も、この人が作っています」


 エルティアの解説に、店の主人が照れたように頭を掻いた。総督の令嬢に紹介されて、悪い気はしないだろう。


 市場を抜けると、エルティアは次の目的地へ足を向けた。




「次はここです」


 エルティアが立ち止まったのは、大きな石造りの建物の前だった。


 三階建て。正面に大きな木の扉があり、扉の上に文字が彫られていた。


「アスファ図書館」


 ジリが言っていた、大陸最大の図書館。


「入りましょう」


 扉を押して中に入ると、書物の匂いが鼻腔を満たした。紙とインクと、古い革装丁の匂い。地球の図書館と同じ匂いだった。


 中は広大だった。一階から三階まで吹き抜けになっており、壁面のすべてが本棚で埋め尽くされていた。木製の書架が天井近くまでそびえ、梯子が各所に掛けられていた。


 閲覧用のテーブルがいくつも並び、数人の人間が書物を広げて読んでいた。


「この図書館には、約三万冊の書物があります。この国の歴史書、法律文書、文学作品、技術書。それに、落ち人がもたらした知識を書き留めた文献も」


「落ち人の文献?」


「はい。過去の落ち人たちが、元の世界の知識をこの世界の言葉で書き記したものです。農業技術、建築技術、医学、数学。さまざまな分野の知識が、この図書館に収められています」


 これは重要だ。落ち人たちが何を持ち込み、この世界にどんな影響を与えたのか。それを知ることは、この世界を理解する上で不可欠だ。


「自由に読めるのか」


「はい。アスファの住民であれば、誰でも閲覧できます。カズマさんは総督府の客人ですから、もちろん問題ありません」


 ここには何度も通うことになるだろう。


 俺が書架の間を見渡していると、エルティアが一冊の書物を棚から取り出した。


「これ、読んでみてください」


 差し出されたのは、薄い革装丁の書物だった。表紙にゼーラ語で題名が記されている。


「『落ち人の記録――その歴史と証言』」


「この図書館の司書が編纂したものです。過去に落ちてきた人々の記録がまとめられています。どの世界から来たのか、どんな人物だったのか、この世界で何をしたのか」


 俺はその場で最初の数頁をめくった。


 落ち人の一覧が記されていた。名前、落ちてきたおおよその時期、出身世界の特徴、この世界での経歴。


 最初の落ち人として、武田嗣久の名があった。「約三百年前。日本と呼ばれる島国より。武家の出身」とだけ記されていた。簡潔な記述だ。


 他にも名前があった。知らない名前ばかりだが、出身世界の特徴は多様だった。「高度な機械文明を持つ世界」「魔法に似た力が存在する世界」「海だけで陸地のない世界」。


 落ちてくる人間は、同じ世界からとは限らないのか。


「この本、借りてもいいか」


「もちろん。司書に声をかければ、貸し出しの手続きをしてくれます」


 俺はその書物を手に持ったまま、図書館を後にした。




 図書館を出ると、エルティアは街の南側へと俺を導いた。


「次は川沿いを歩きましょう。アスファで一番好きな場所です」


 大通りから細い路地を抜けると、川沿いの遊歩道に出た。


 大河だった。幅は百メートル以上あり、ゆったりとした流れが陽光にきらめいていた。川沿いには石造りの堤防が築かれ、その上を人々が散策していた。


 対岸には緑の丘陵が広がり、その向こうに青い空が果てしなく続いていた。


「この川はゲルド川と言います。学院のあるガルディナの近くから西に大きく湾曲して流れ、この街の西側を通って、最終的には南の海に注ぎます」


「やはりそうか。同じ川だと思っていた」


「ゲルド川はこの国の大動脈です。物資の輸送、漁業、農業用水。この川がなければ、アスファは成り立ちません」


 川沿いの遊歩道を歩きながら、俺はこの都市の全体像を把握しようとしていた。


 城壁に囲まれた楕円形の都市。北に城門、西に川。東に市場と住宅街。中央に総督府。図書館は北東の区画にあった。


「エルティア、この街の人口はどれくらいだ」


「最近の調査では、約十二万です。近隣の村落を含めると、もっと多いですが」


「軍事施設は?」


「兵営は東門の近くにあります。あとは城壁の各所に詰め所が。……カズマさん、もしかして、観光ではなく偵察をしていますか?」


 鋭い。


「半分はそうだ。すまない。職業病は治らない」


「謝らないでください。父も同じことをします。新しい街に行くと、まず城壁の高さと門の数を数えるそうです」


 エルティアは笑った。俺の「職業病」を批判するでもなく、理解を示してくれた。元軍人の父親を持つ少女ならではの反応か。




 昼食は、川沿いの食堂で取った。


 エルティアの行きつけの店だという。小さいが清潔な店で、川魚の焼き物と香草のサラダ、温かいスープが出てきた。


 ヘルダと護衛のサミンたちは、少し離れた席に座った。気を遣ってくれているのだろう。


「カズマさん、昨日のことを聞いてもいいですか」


 エルティアが遠慮がちに切り出した。


「タケダ様のこと?」


「はい。もちろん、話せないことは話さなくていいのですが」


 俺は少し考えた。武田嗣久との会話の内容をすべて話すわけにはいかない。だが、差し支えない範囲なら。


「穏やかな人だった。エルティアが言った通りだ」


「そうですか」


「日本語を話したよ。三百年経っても、忘れていなかった。ただ、少し古い言い回しが混じっていた。当然だが」


 エルティアは目を細めた。


「やはり嬉しかったですか。同じ国の言葉を話す人に会えて」


「ああ。正直に言えば、かなり」


 声に感情がにじんだ。自分でも意外だった。


 五ヶ月間、日本語を話す相手はビンデンだけだった。そのビンデンの日本語も流暢とは言えなかった。


 武田嗣久の日本語は、古風ではあったが、紛れもない日本語だった。その言葉を聞いた瞬間、自分の中の何かが緩んだのを感じた。


「よかった」


 エルティアは素直にそう言った。


「カズマさんも、時々寂しそうな目をしますから」


「俺が?」


「はい。ゼーラ語を話しているときは平気そうなのに、ふとした瞬間に、どこか遠くを見ているような目をされる。タケダ様と同じ目です」


 自覚はなかった。だが、否定もできなかった。


「それは……たぶん、故郷を思い出しているんだろう」


「そうでしょうね」


 エルティアは川面に目を向けた。陽光に照らされた水面が、きらきらと光っていた。


「私はこの街から出たことがほとんどありません。アトム領への旅が、一番遠くまで行った旅でした。それなのに帰り道であんな目に遭って」


 エルティアは苦笑した。


「でも、あの旅がなければ、カズマさんたちに会えなかった。だから、悪いことばかりではなかったと思っています」


「前向きだな」


「父にそう育てられましたから。起きたことは変えられない。変えられるのは、これからどうするかだけだ、と」


 良い教えだ。軍人としても、共感できる言葉だった。


「ところで、もうひとつ案内したい場所があるんです」


 エルティアは立ち上がり、食堂を出た。




 連れて行かれたのは、城壁の南西に位置する小高い丘だった。


 丘の上には小さな公園のような空間があり、石のベンチがいくつか置かれていた。木が何本か植えられ、涼しい木陰を作っていた。


「ここが、私の一番好きな場所です」


 エルティアはベンチに腰を下ろし、眼下の景色を指さした。


 そこからは、アスファの街全体が見渡せた。


 赤い屋根と灰色の石壁が織りなす街並み。中央にそびえる総督府の白い塔。北の城門から南の川岸まで、楕円形の城壁が街を抱くように囲んでいる。


 川の向こう、西の対岸には農地が広がり、その先に薄い緑の丘陵が連なっていた。


「綺麗な街だ」


「はい。私はこの街が大好きです。この丘から街を見るのが、小さい頃から好きでした。父が忙しくて構ってくれないとき、よくここに来て、街を眺めていました」


 エルティアの声に、先ほどとは違う柔らかさがあった。この場所は彼女にとって特別な場所なのだろう。


「カズマさん」


「ん?」


「この街を、好きになってくれますか」


 唐突な問いだった。だが、その目は真剣だった。


「もう好きになりかけている」


 嘘ではなかった。一日歩いただけだが、この街には人を惹きつけるものがあった。活気のある市場、知識の詰まった図書館、穏やかに流れる大河、そしてこの丘からの景色。


 エルティアは嬉しそうに笑った。


「それなら、明日からもっとたくさん案内しますね。まだ見せていない場所がたくさんあります。職人街とか、学院分校とか、それに――」


「エルティア様。そろそろお戻りの時間です」


 ヘルダが丘の下から声をかけた。


 エルティアは肩をすくめた。またか、という顔だった。


「ヘルダは時間に厳しいんです」


「教育係としては当然だろう」


「カズマさんまでヘルダの味方をするんですか」


「味方ではなく、事実だ」


 エルティアは頬を膨らませたが、すぐに笑い出した。


 俺たちは丘を下り、総督府への帰路についた。


 夕暮れが近づき、街の影が長くなっていた。商店が閉まり始め、住民たちが家路を急いでいた。


 一日かけて歩いた街の風景が、記憶の中で地図のように繋がっていく。


 中央市場、図書館、ゲルド川、南西の丘。


 ガルディナ学院で五ヶ月を過ごした俺にとって、アスファは二番目の拠点になるだろう。


 そして、この街には武田嗣久がいる。結界の向こうに。


 総督との約束もある。この街の防衛に関する助言。衛兵への指導。


 やるべきことは多かった。


 だが、不思議と重荷には感じなかった。


 この世界に来て半年。ようやく、この世界での自分の居場所が見え始めていた。

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