8. 結界の向こう
翌朝、俺は一人で総督府を出た。
ジリは同行を申し出たが、断った。これは俺個人の用件だ。それに、総督から預かった結界の鍵が落ち人の理力に反応するものだとすれば、ジリが来ても結界を通れるかどうか分からない。
南門から街道に出て、南へ歩く。
乳白色の石を右手の掌に乗せていた。石は微かに脈動を続けている。昨日、総督から受け取って以来、ずっとだ。
朝の街道は静かだった。商人の荷馬車が数台通り過ぎるだけで、人通りは少ない。
一刻ほど歩いた頃、街道の左手に深い森が見えてきた。
フェルゲンの森。総督が言っていた場所だ。
街道から森に入る小道があった。獣道のように細いが、踏み跡がわずかにある。誰かがごく稀に通っている証拠だ。
小道に足を踏み入れた瞬間、掌の石が強く脈動した。
それまでの緩やかな脈動とは違う。まるで何かを訴えるかのような、急速な明滅。石の内部で乳白色の光が蒼く変わり、明確な方向を示すように一方が強く光った。
導かれている。
俺は石の光が示す方向へ歩いた。
森は深かった。木々が頭上を覆い、昼間だというのに薄暗い。下草が茂り、足元には苔むした岩が転がっていた。
十分ほど歩いたとき、空気が変わった。
理力の感覚が、明確にそれを捉えた。前方に、壁のような理力の層がある。
目には見えない。だが、理力の感覚で見れば、それは巨大な球体のような構造だった。森の一角を丸ごと包み込むように、理力の膜が張られている。
これが結界か。
近づいて観察した。緻密だった。理力の編み方が、ナターシャから教わったどの技法とも次元が違う。一本一本の理力の糸が精密に絡み合い、隙間なく空間を覆っている。これを維持し続けるだけでも、膨大な理力が必要なはずだ。
掌の石が一際強く光った。蒼い光が溢れ、結界の表面に触れた。
結界が、開いた。
目の前の空間が揺らぎ、水面に指を入れたときのように波紋が広がり、人ひとりが通れる大きさの穴が現れた。
穴の向こうに、光が見えた。
森の薄暗さとは対照的な、明るい光。
俺は穴をくぐった。
息を呑んだ。
湖だった。
森に囲まれた、静謐な湖がそこにはあった。
広さは直径三百メートルほどか。水は透き通り、湖底の白い砂が見えるほどだった。湖面は鏡のように穏やかで、周囲の木々と空を完璧に映していた。
湖の畔に、一軒の家が建っていた。
小さな家だった。木造の平屋で、屋根には苔が生えていた。家の前に小さな庭があり、手入れされた菜園と花壇が見えた。
庭の一角に、人影があった。
膝をついて花壇の手入れをしている。背中が見えた。やや小柄な体格。白い麻のような衣服を着ている。
俺が近づく気配で、その人物が顔を上げた。
若い顔だった。二十代の半ばに見える。だが、目だけが違った。
目が、若くなかった。
澄んでいるのに、途方もなく深い。三百年という時間を湛えた瞳が、俺を見つめていた。
しばらく、互いに無言で見つめ合った。
先に口を開いたのは、その男だった。
「……日本人か」
日本語だった。
古い響きを持つ日本語。現代の日本語とは少し違うが、間違いなく日本語だった。
「はい。佐田和真と申します」
自然と、丁寧な口調になった。年長者に対する敬意が、無意識に出た。見た目は俺より若いが、この人は三百年を生きた先達だ。
「佐田……。武家の名だな」
「はい。父方は帝国陸軍の軍人で、母方は古武術の宗家です。俺自身は帝国海軍陸戦隊の士官です」
「帝国海軍……。陸戦隊、か。軍人の家系だな」
その男は立ち上がり、手についた土を払った。
「わしは武田嗣久。ここに来てから、長い時間が経った。日本語を話す相手に会うのは、ずいぶんと久しぶりだ」
武田嗣久の声は穏やかだった。エルティアが言っていた通りの、穏やかな人物だ。
「中に入りなさい。茶は出せんが、水ならある」
武田嗣久は俺を家の中に招き入れた。
家の内部は、外観と同じく質素だった。
板張りの床に、低い卓と座布団に似た敷物。壁には書棚が据えられ、書物や巻物がぎっしりと詰まっていた。一角には筆記用の机があり、紙と墨が置かれていた。
そして、壁の一面に掛けられた一振りの刀が、俺の目を捉えた。
太刀だった。反りの深い、古い時代の太刀。拵えは簡素だが、刀身の存在感が尋常ではなかった。
「どうぞ、座ってくれ」
武田嗣久が卓の向かい側に座り、水の入った器を差し出してくれた。
俺は腰を下ろした。
「まず聞きたいのだが」
武田嗣久が静かに切り出した。
「おまえさんの日本は、今、西暦で何年だ」
「二〇二五年です」
「二〇二五年……。わしが落ちたのは、昭和二十年だった。一九四五年、終戦の年だ」
昭和二十年。一九四五年。昭和という元号は聞いたことがない。俺の日本では、大正の次は「弘文」だ。
「昭和……? すみません、その元号は俺の知っている日本にはありません」
武田嗣久の目に、怪訝な色が浮かんだ。
「昭和を知らん? 大正の次だ」
「俺の日本では、大正の次の元号は弘文です。それに一九四五年に終戦があったとは……。すみません、何の戦争ですか」
「大東亜戦争だ。アメリカとの戦争だ」
「アメリカと……?」
俺の日本は、アメリカと戦争したことがない。第二次世界大戦ではアメリカ、イギリスと同じ連合国側として参戦している。
「俺の日本には、そのような戦争はありません。アメリカとは同盟関係です」
武田嗣久の目が見開かれた。三百年を生きた男の顔に、純粋な驚きが浮かんだ。
「同盟……? どういうことだ」
「俺の日本では、第二次世界大戦は連合国側として参戦しています。アメリカと戦ったことはありません」
沈黙が流れた。
武田嗣久は水の器を手に取り、一口飲んだ。そして、静かに器を卓に置いた。
「……そうか。別の道を歩いた日本があるのか」
その声には、感慨とも安堵ともつかない響きがあった。
「わしは、焼け野原になった東京から落ちてきた。空襲で家族を失い、自分も死にかけておった。気がついたら、白い木の下に倒れていた」
武田嗣久は淡々と語った。三百年前の記憶を、まるで昨日のことのように。
「おまえさんの日本は……平和か」
「完全に平和とは言えませんが、少なくとも、本土が焼け野原になるようなことは起きていません」
「そうか」
武田嗣久は目を閉じた。長い沈黙があった。
俺は黙って待った。この沈黙を、急かしてはいけないと感じた。
やがて、武田嗣久は目を開いた。先ほどと同じ穏やかな瞳だったが、奥にある寂しさが、ほんの少しだけ和らいでいるように見えた。
「おまえさんが聞きたいことは、いくつかあるだろう。何から聞きたい」
「帰る方法は、ありますか」
最も切実な問いを、最初にぶつけた。
武田嗣久は首を横に振った。
「ない。少なくとも、わしは三百年かけて見つけられなかった」
覚悟はしていた。だが、言葉にされると、やはり重かった。
「白い木の森が落ち人の到着点であることは分かっておる。だが、あれは一方通行のようだ。こちらに来ることはできても、あちらに帰ることはできん」
「研究は?」
「した。百年以上かけて、あの森を調べた。理力の流れ、土壌、木々の性質。すべてを調べた。だが、帰る手がかりは見つからなかった」
武田嗣久は書棚に目を向けた。
「あの棚の半分は、わしの研究記録だ。読みたければ、いつでも貸してやる」
「ありがたく読ませてください」
「もうひとつ聞きたいことがあるだろう」
「この世界のこと。この世界で生きていくために知るべきこと」
武田嗣久は頷いた。
「長い話になる。今日一日では語り尽くせんが、大事なことから話そう」
武田嗣久は語り始めた。
この世界の成り立ち。大陸の地理と歴史。国家の興亡。落ち人たちがこの世界に与えた影響。理力という力の本質と限界。
その語り口は、学者のそれだった。三百年の蓄積が、整然とした知識体系として語られた。
特に印象深かったのは、理力についての話だった。
「理力は、この世界の根源を流れる力だ。わしらの世界にも、似たような概念はあるだろう。気とか、プラーナとか。だが、この世界ではそれが実体を持っておる。目に見え、手で触れ、意思で操れる」
「落ち人の理力が強いのは、なぜですか」
「分からん。だが、仮説はある。わしらは本来この世界の存在ではない。この世界の理力にとって、わしらは異物だ。異物であるがゆえに、理力がわしらの身体に集まりやすいのではないかと、わしは考えておる」
「磁石のようなものですか」
「うむ。近い喩えだ」
武田嗣久は不老についても語った。
「不老の理由も確実なことは分からん。だが、理力と関係があるのは間違いない。落ち人の身体には常に理力が巡っており、それが細胞の劣化を防いでいるのだと思う。いわば、常に体が修復され続けている状態だ」
「それなら、不死にもなりそうなものですが」
「ならん。修復には限界がある。致命的な外傷は、修復の速度を超える。心臓を貫かれれば、わしも死ぬ」
武田嗣久の目が、壁の太刀に向けられた。
「この世界で、落ち人を殺そうとした者はいくらでもおった。不老の力を奪おうとする者、落ち人を脅威と見なす者。わしが結界を張っているのは、そういう連中から身を守るためだ」
結界の理由。単なる隠遁ではなく、生存のための措置だったのか。
「おまえさんも、気をつけなさい。落ち人の存在はこの世界では知られておる。好意を持つ者もおれば、敵意を持つ者もおる」
俺は頷いた。総督が俺をアスファに留めようとしたのも、保護の意味があったのかもしれない。
話は夕方近くまで続いた。
武田嗣久は疲れた様子を見せなかったが、俺の方が情報量の多さに頭が飽和しかけていた。
「今日はこのくらいにしよう。また来なさい。何度でも歓迎する」
「はい。必ず」
「それと、佐田」
武田嗣久は俺を見つめた。三百年の深さを持つ瞳で。
「おまえさん、武術をやるな」
「はい。佐田無心流を」
「そうか。わしも武術をやる。武田の家は、甲斐源氏の流れを汲む武家でな。家伝の剣を修めておる」
甲斐源氏。武田。まさか。
「武田信玄の……」
「末裔だと言いたいところだが、あの乱世で家は散り散りになった。わしの家は傍流のそのまた傍流だ。だが、剣だけは伝えてきた」
武田嗣久の目が、武人の目に変わった。穏やかさの奥に、鋼のような光が宿った。
「明日、もう一度来なさい。聞きたいことは他にもあろうが、その前にひとつ、おまえさんの剣を見せてもらいたい」
「仕合、ですか」
「そう構えるな。老いぼれの道楽だと思ってくれればよい」
三百年を生きた剣士が、道楽と言った。
俺は静かに頭を下げた。
「よろしくお願いします」
結界を抜けて森を出たとき、日はすでに傾いていた。
掌の石は、先ほどよりも穏やかに脈動していた。まるで、次の訪問を楽しみにしているかのように。




