6. 副都アスファ
グラオムとの戦闘から数時間後、俺たちは街道沿いの宿場町に辿り着いた。
ヴェルナという名のその町は、リューゲン丘陵の南端に位置し、丘陵を越える旅人たちの中継地として栄えている、とジリが説明した。
確かに、これまで通ってきた村や宿場とは規模が違っていた。石造りの建物が街道の両側に並び、宿屋が三軒、酒場が二軒、馬の世話をする厩舎が一軒。市場のような広場もあり、露店がいくつか出ていた。人口は二百から三百といったところか。
一行の中で最も疲労していたのは、護衛のリーダルだった。傷そのものは深くないが、出血と緊張による消耗が顔に出ていた。ヘルダも表には出さないが、中年の身体で森の中を歩き通したのだから、相当に疲れているはずだ。
「今日はここで泊まりましょう」
エルティアがそう提案し、異論はなかった。
宿屋に入り、部屋を確保した。八人分の部屋を一度に用意できる宿はなかったが、二軒の宿に分かれることで解決した。
エルティア、ヘルダ、リーダル、サミンの四人が一軒目の宿に。俺、ジリ、トーマ、ガンデムが二軒目に。
部屋に荷物を置いた後、ジリが俺を呼んだ。
「カズマ、少し話がある」
宿の裏手にある小さな中庭で、ジリは腕を組んで切り出した。
「馬車を手配する。このまま徒歩で三日かけるのは、総督の令嬢を連れている以上、得策ではない」
「同意だ。リーダルの傷もある。馬車なら二日で着くか」
「ああ。ここからアスファまでなら、馬車で二日だ。この町には厩舎もある。明朝、馬車を借りられるか確認する」
ジリの判断は合理的だった。俺個人としては徒歩で通したかったが、一行の構成が変わった以上、状況に応じて計画を変更するのは当然のことだ。
「費用は?」
「学院の名で借りられるはずだ。それに……」
ジリは少し言い淀んだ。
「総督の令嬢を護衛しているとなれば、断る商人はいないだろう」
権力の恩恵。この世界でもその構造は変わらないらしい。
夕食は一軒目の宿の食堂で、八人全員が揃って取った。
ヴェルナの宿の食事は、これまでの旅路で口にしたものより明らかに上等だった。焼いた川魚に香草を添えたもの、柔らかく煮込んだ豆と肉の鍋、焼きたてのグラン。それに、この地方の特産だという果実酒。
果実酒は甘みが強く、度数は低い。だが、風味は悪くなかった。
トーマが果実酒を美味そうに飲みながら、グラオムとの戦いをエルティアたちに語っていた。
「カズマが跳んだんだ。あの巨体の上に。信じられなかった。そして上から一撃で――」
「トーマ、話を盛るな」
「盛ってない! 俺が見たまんまだ!」
トーマの興奮した語りに、ガンデムが笑い、サミンが感心したように頷いていた。
エルティアは静かに聞いていた。薄い緑の瞳が、ときおり俺の方を向いた。
ヘルダは食事をしながらも、常にエルティアの様子を気にかけていた。良い教育係なのだろう。
リーダルは腕の痛みが和らいだのか、食欲は旺盛だった。左腕をかばいながらも、鍋を三杯おかわりしていた。
食後、エルティアが俺の隣の席に移ってきた。
「カズマさん。ひとつ伺いたいことがあるのですが」
「どうぞ」
「あなたは、学院からアスファへ何の目的で向かっているのですか」
隠す理由はなかった。
「落ち人に会いに行きます。アスファの近くに住んでいるという、この世界に最初に落ちてきた人物に」
「タケダ様ですね」
俺は少し驚いた。エルティアは武田嗣久の存在を知っていた。
「ご存じなんですか」
「父から聞いています。タケダ様は父の顧問のひとりです。落ち人のことや、この世界の外のことについて、父に助言をしてくださっています。ただ……」
エルティアは少し言葉を選ぶように間を置いた。
「タケダ様の住んでいる場所は、ごく限られた人間しか知りません。アスファの郊外にある湖のほとりだと聞いていますが、その湖自体が理力の結界で隠されているのです」
「結界?」
「はい。タケダ様ご自身が張った結界だと聞いています。結界の中にある湖も、その畔の住まいも、外からは見ることができません。知らない者がその場所を通りかかっても、ただの森にしか見えないのだそうです」
理力で空間を隠蔽する。ナターシャから教わった理力の応用の中にも、そんな高度な技術は出てこなかった。三百年の蓄積は伊達ではないということか。
「タケダ様に会うには、結界を通してもらう必要があります。結界を通れるのは、タケダ様が許可した人間か、あるいは結界の鍵を持つ人間だけです」
「鍵?」
「父がその鍵を預かっています。小さな石のようなものだと聞いていますが、私は見たことがありません」
総督が鍵を預かっている。つまり、武田嗣久に会うには総督の協力が必要だということだ。
「タケダ様は、とても穏やかな方ですよ。でも、時々とても寂しそうな目をされます」
エルティアはそう言って、果実酒の杯に目を落とした。
「三百年ですものね。故郷を離れて三百年。人目を避けて湖のほとりに隠れ住んでおられる。それがどれほどのことか、私には想像もできません」
俺にも想像できなかった。だが、いずれ想像ではなく実感として理解する日が来るのかもしれない。帰る方法が見つからなければ。
「父に話しておきます。あなたをタケダ様のところにお連れしたいと。あの獣から命を救っていただいたお礼には、到底足りませんけれど」
「助かります。ありがとうございます」
エルティアは微かに笑った。
* * *
翌朝、ジリは日が昇る前から動いていた。
町の厩舎と交渉し、馬車を一台と馬を二頭確保してきた。
馬車は商人が荷運びに使う頑丈な作りのもので、快適とは言いがたいが、八人が乗るには十分な広さがあった。幌がついており、日差しや雨をしのげる。
「学院の名と、ファーデルス家の名を出したら、厩舎の主人が飛び上がって用意してくれた」
ジリは苦笑気味にそう報告した。
馬車の御者はジリが務めた。馬の扱いに慣れているのは一行の中ではジリだけだった。護衛のサミンも多少は心得があるとのことで、交代要員として助手席に座った。
残りの六人は荷台に乗り込んだ。木の板の上に干し草を敷き、その上に毛布を重ねた即席の座席は、意外と座り心地が悪くなかった。
馬車がヴェルナの町を出発したのは、朝の第二刻――地球の時間でいえば午前八時頃だった。
この世界の時刻の体系も、学院で学んだことのひとつだ。一日を十二の「刻」に分け、日の出を第一刻とする。季節によって一刻の長さが変わるため、地球の時計のような正確さはないが、日常生活には十分だった。
馬車の上は、徒歩とはまるで違う旅だった。
揺れは大きいが、足を休められるのはありがたかった。何より、景色を眺める余裕がある。
リューゲン丘陵を抜けると、風景は一変した。
広大な農地が広がっていた。整然と区画された畑が街道の両側にどこまでも続き、農民たちが作業をしている姿が見えた。作物の種類は地球のものとは異なるが、農業の営みそのものは変わらない。土を耕し、種を蒔き、水をやり、収穫する。人間の根本的な生業は、世界が変わっても同じだ。
畑の向こうには集落が点在していた。丘陵地帯の村よりも大きく、整った建物が多い。アスファに近づくにつれて、この国の中枢に近い豊かさが感じられた。
「この辺りは、アスファ穀倉地帯と呼ばれています」
エルティアが俺の視線に気づいて説明してくれた。
「この国の穀物の三割がここで生産されています。父はこの農地の管理にいつも頭を悩ませています。水利の問題や、農民たちの税の問題で」
「総督というのは、大変な仕事なんですね」
「はい。父はいつも忙しくて、家にいることのほうが珍しいくらいです」
エルティアの声に寂しさがにじんだが、すぐに表情を切り替えた。
「でも、父は立派な人です。この地域の人々のことを、本当に大切に考えています」
政治家の娘が語る父親像。どこまで真実で、どこからが理想化されているかは分からない。だが、エルティアの言葉に嘘の響きはなかった。
馬車での旅は、徒歩よりも格段に速かった。
初日は順調に距離を稼ぎ、街道沿いの比較的大きな宿場町で一泊した。この宿場はヴェルナよりもさらに規模が大きく、石造りの二階建ての宿屋が立ち並んでいた。
町に入ると、人々の服装や建物の様式が明らかに洗練されているのが分かった。アスファの文化圏に入ったのだろう。
宿では個室が確保できた。エルティアとヘルダが一室、護衛の二人が一室、俺とジリ、トーマとガンデムがそれぞれ二人ずつで二室。
夜、ジリと同室で横になりながら、俺は尋ねた。
「ジリ、アスファはどんな街だ」
「大きい。ガルディナとは比較にならん。人口は十万を超える。この国の副都であり、南部の政治と経済の中心だ」
「軍事的には?」
「常備軍が駐留している。正規兵が約三千。それに加えて、総督直属の衛兵が二百ほど」
ジリは天井を見つめながら続けた。
「だが、アスファの本当の力は軍事ではない。学問と交易だ。大陸各地から商人と学者が集まる。落ち人がもたらした知識や技術が、この国で最も活用されている都市でもある」
落ち人がもたらした知識。度量衡のメートル法もそのひとつだった。他にどんな知識が持ち込まれているのか、興味があった。
「あと、アスファには図書館がある。大陸最大の図書館だ」
「図書館か」
「おまえなら気に入るだろう」
ジリはそう言って、静かに笑った。五ヶ月の付き合いで、俺が知識を欲する人間だということは見抜かれていた。
* * *
馬車での二日目。
午前中は昨日と同じく穀倉地帯の中を進んだが、昼を過ぎたあたりから、街道の交通量が明らかに増えた。
商人の隊商、荷馬車、騎乗した兵士の一団、徒歩の旅人。さまざまな人間が街道を行き交っていた。
すれ違う人々の服装も多様だった。この地域の衣服だけでなく、明らかに異なる様式の衣服を着た人間もいた。他国からの商人や旅人だろう。
「もうすぐ見えますよ」
エルティアが幌の隙間から前方を指さした。
その言葉の直後、街道が緩やかな丘を越えた。
そして、視界が開けた。
息を呑んだ。
広大な平野の中央に、その都市はあった。
まず目に飛び込んできたのは城壁だった。灰色の石で積み上げられた城壁が、巨大な楕円を描いて都市を囲んでいた。高さは十メートル以上。所々に円筒形の見張り塔が立ち、城壁の上を兵士が巡回しているのが見えた。
城壁の内側には、建物がぎっしりと並んでいた。二階建て、三階建ての石造りの建物が密集し、その中央にひときわ大きな建造物がそびえていた。白い石で造られた、四角い塔を持つ巨大な建物。あれが総督府だろうか。
都市の西側を、大きな川が流れていた。学院の近くで見たあの大河の下流にあたるのかもしれない。川沿いには港のような施設があり、大小さまざまな船が停泊していた。
「あれが、アスファです」
エルティアの声に、故郷を前にした誇りが滲んでいた。
「すごいな」
素直に感嘆した。
学院のあるガルディナは小さな町だった。ヴェルナも、昨夜の宿場町も、俺が知るこの世界の居住地はすべて小規模なものだった。
だが、これは違う。これは紛れもなく都市だった。
地球の都市と比較すれば、規模は中世ヨーロッパの都市に近いだろう。だが、城壁の造りや建物の密度を見る限り、それなりの技術力と組織力がなければ建設できない規模だ。
トーマも目を丸くしていた。
「俺もアスファは初めてだ。話には聞いていたが、こんなに大きいとは」
ガンデムは無言で口を開けていた。
ジリだけは平然としていた。以前にも来たことがあるのだろう。馬車を御しながら、淡々と街道を進めた。
城門に着いたのは、午後の遅い時間だった。
城門は大きく開かれており、人と荷馬車が列を成して出入りしていた。門の両側に兵士が立ち、入城する者を確認していた。
俺たちの馬車が門に近づくと、兵士の一人が手を挙げて停止を求めた。
「身分と目的を――」
兵士の言葉が途中で止まった。
馬車の幌からエルティアが顔を出したからだ。
「エルティア様!」
兵士が直立不動の姿勢を取った。もう一人の兵士も慌てて敬礼した。
「ご無事でしたか。アトム領からの帰還が遅れていると、総督閣下がご心配されておられました」
「途中で少し問題がありましたが、この方たちのおかげで無事です。父に伝えてください、今夜中に総督府に戻ります、と」
「はっ! ただちに伝令を出します!」
兵士が走っていった。もう一人の兵士が俺たちの馬車を恭しく門の中に通した。
総督の娘の威光は絶大だった。身分確認も荷物の検査も、一切省略された。
城門をくぐると、石畳の大通りが真っ直ぐに延びていた。
通りの両側には商店が並び、看板がいくつも掛けられていた。衣料品店、金物屋、食料品店、薬屋。人々が行き交い、商人が客を呼び込む声が響いていた。
活気があった。生きた都市の息吹だ。
馬車は大通りを進み、やがて広場に出た。
広場の中央には噴水があり、その向こうに、先ほど遠くから見た白い建物がそびえていた。
近くで見ると、さらに壮観だった。白い石材で造られた四階建ての建物で、正面に幅広い階段があり、太い円柱が入口を支えていた。
「総督府です」
エルティアが静かに言った。
馬車が総督府の前で止まると、すでに数人の従者が階段の下で待っていた。先ほどの伝令が間に合ったらしい。
エルティアが馬車から降りると、従者たちが駆け寄った。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
「ただいま。父は?」
「執務室におられます。すぐにお呼びいたしましょうか」
「いいえ。先に着替えます。それと――」
エルティアは俺たちを振り返った。
「この方たちに、客間を用意してください。学院からいらした大切なお客様です。特に、こちらのカズマさんには、私と父から直接お礼を申し上げなければなりませんので」
従者たちが俺に視線を向けた。異邦人の風体をした男を値踏みするような目だったが、エルティアの言葉を聞いて、すぐに丁重な態度に変わった。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
ジリが俺の横に並び、小声で言った。
「総督府の客間に泊まることになるとはな。人生は何が起こるか分からん」
「まったくだ」
俺たちは従者に導かれ、総督府の中に入った。
建物の内部は外観に劣らず壮麗だった。磨かれた石の床、壁に掛けられた織物、天井から吊るされた燭台。権力と富の象徴が、そこかしこに散りばめられていた。
案内された客間は、学院の俺の部屋の五倍はあった。寝台は大きく、柔らかな布団が敷かれ、窓からはアスファの街並みが一望できた。
夕暮れの光に照らされた街並みを眺めながら、俺は考えていた。
武田嗣久。三百年前にこの世界に落ちてきた、最初の日本人。
アスファ郊外の湖のほとりに、理力の結界に守られてひっそりと暮らしているという。
三百年という途方もない時間を生き、人目を避けるように結界の内側に隠れ住んでいる。その理由は何だろうか。単なる隠遁か、それとも身を守る必要があるのか。
エルティアは「穏やかな方」だと言っていた。そして「寂しそうな目」をすると。
三百年前の日本人。武田という苗字からして、武家の出だろうか。三百年前の日本といえば江戸時代の中期。どんな人物が、どんな経緯でこの世界に落ちてきたのか。
そして三百年という途方もない時間を、どんな思いで生きてきたのか。
どんな会話になるのか、想像がつかなかった。
だが、会わなければならない。
この世界のことを、帰る方法を、そして三百年をこの世界で生きるとはどういうことなのかを。
そのためにはまず、総督に会い、結界の鍵を借りなければならない。エルティアが口添えしてくれるとはいえ、総督がどう出るかは分からない。
窓の外で、アスファの街に灯りがともり始めていた。
無数の小さな光が、夕闇の中に浮かび上がっていく。
大きな街だった。そして、美しい街だった。
この街のどこかの先に、結界に隠された湖がある。そして、その畔に三百年を生きた日本人がいる。
俺はこの世界に来て初めて、どこかに「着いた」という感覚を覚えていた。




