5. 丘陵の牙
唸り声は低く、長く、腹の底に響くような音だった。
地球で聞いたどの獣の声とも違った。虎の咆哮に近いが、もっと深く、もっと重い。
霧が薄くなりつつあるとはいえ、まだ視界は悪い。声の方向は前方、街道の左手の森の中。距離は――理力の感覚を研ぎ澄ませる。
気配が動いていた。先ほどまで遠くにあったそれが、明らかに近づいてきている。
「ジリ、こっちに向かってきている」
「分かっている。街道から外れるな。開けた場所で迎え撃つ」
ジリの判断は正しかった。森の中に逃げ込めば、地の利はあちらにある。街道の上なら、少なくとも足場は確保できる。
唸り声が止んだ。
その沈黙が、かえって不気味だった。
俺は理力の感覚に全神経を集中させた。気配は三つ。うち一つが飛び抜けて大きい。残りの二つは、その半分ほどの大きさか。親子だろうか。あるいは群れの構成か。
「三体いる。一体がかなり大きい」
俺の報告に、ジリの顔が一段と険しくなった。
「三体だと。群れで動いているのか」
「そのようだ。大きいのが一体と、中くらいのが二体」
ジリはトーマとガンデムを振り返った。
「トーマ、ガンデム。俺とカズマが前に出る。お前たちは後方で構えろ。逃げ遅れた場合の退路を確保しておけ」
二人が頷いた。トーマの顔は蒼白だったが、直剣を握る手は安定していた。
そのとき、森の中から別の音が聞こえた。
唸り声ではない。
悲鳴だった。
人間の悲鳴。それも、複数の声が重なっていた。
「ジリ!」
「聞こえた」
獣の気配が急速に移動した。街道に向かってではない。北西の方向――街道から少し外れた場所へ。
悲鳴がもう一度響いた。今度は、はっきりと聞き取れた。
「助けて! 誰か!」
ゼーラ語だった。高い声。女の声だ。
俺は考える前に走り出していた。
「カズマ! 待て!」
ジリの制止の声が背中に届いたが、足は止まらなかった。
街道を外れ、森の中に踏み込む。下草を蹴散らし、木々の間を縫って走る。理力の感覚を頼りに、獣の気配と人間の気配が重なる場所へ向かった。
木々が途切れ、小さな空き地のような場所に出た。
そこで、俺は初めてこの世界の「獣」を見た。
巨大だった。
体高は二メートル半を優に超えていた。四足の獣で、体型は地球の熊に似ているが、熊よりもはるかに大きく、はるかに異質だった。
全身が黒褐色の硬い毛に覆われているが、背中から首にかけて、灰色の骨のような突起が並んでいた。頭部は熊というより爬虫類に近く、幅広い顎に、刃のような牙が上下に並んでいた。
目は二対、四つ。黄金色の瞳が四つとも、空き地の一角を凝視していた。
その傍らに、一回り小さい同種の獣が二体。親と同じ形をしているが、背中の骨状突起がまだ発達しきっていない。若い個体だろう。
そして、獣たちが睨みつけている先に、人間がいた。
馬車が一台、横転していた。馬に似た獣――この世界で馬と呼ばれている動物だ――が手綱を引きちぎって逃げたのか、馬車だけが残されていた。
横転した馬車の陰に、四人の人間が身を寄せていた。
うち二人は武装した男で、直剣を構えて獣に対峙していた。一人は右腕から血を流しており、もう一人は無傷だが、顔は恐怖で歪んでいた。
その二人の背後に、二人の女性がいた。
一人は中年の女性で、もう一人の女性を庇うように抱きかかえていた。
もう一人は若い女性だった。栗色の長い髪が乱れ、薄い緑色の目が大きく見開かれていた。衣服の質が良い。一目で、身分のある人間だと分かった。年齢は十六、七といったところか。
親獣が一歩踏み出した。地面が軽く揺れるほどの重量があった。
武装した男の一人が直剣を突き出し、威嚇の声を上げた。だが、親獣はまったく動じなかった。こちらの攻撃が脅威にならないと本能的に理解しているのだろう。
親獣が顎を開いた。牙の間から、太い息が白く漏れた。
次の一撃で終わる。そう直感した。
俺は走った。
走りながら、刀に理力を流した。蒼い光が刃を包む。
親獣が前脚を振り上げた瞬間、俺は空き地に飛び出し、親獣と馬車の間に割り込んだ。
振り下ろされた前脚を、刀の腹で受け流した。
衝撃が両腕を貫いた。纏甲を展開していなければ、腕の骨が砕けていたかもしれない。それほどの重さだった。
だが、受け流しは成功した。前脚の軌道を逸らし、俺のすぐ横の地面に叩きつけさせた。土が弾け飛び、浅い穴が穿たれた。
親獣が一瞬怯んだ。
その隙に、俺は返す刃で前脚の内側を斬りつけた。
理力を纏った刃が、硬い毛と皮膚を裂いた。鮮やかな赤い血が噴き出した。
親獣が絶叫した。先ほどの唸り声とは比較にならない、空気を切り裂くような高い叫びだった。
親獣が後退した。傷は浅い。腕の延長として理力を乗せた一撃でも、この獣の巨体を致命傷に至らしめるには足りなかった。皮膚と筋肉が異常に厚い。
だが、傷よりも重要な効果があった。
親獣の四つの目が、馬車の人間たちから俺一人に向けられた。
狙いは俺になった。それでいい。
「後ろの人たち! 馬車から離れて、街道の方に逃げろ!」
俺は背後に向かって叫んだ。
武装した男たちが一瞬呆然としていたが、中年の女性が若い女性の手を引いて立ち上がった。肝の据わった女性だった。
「あなたたち、今のうちに!」
中年の女性が武装した男たちを叱咤した。負傷した男がもう一人の肩を借り、四人が馬車の反対側へ後退し始めた。
俺は親獣と正面から対峙した。
問題は、子獣が二体いることだった。
親獣に集中すれば、子獣が逃げる人間たちを追う可能性がある。
そのとき、森の中から足音が聞こえた。
「カズマ!」
ジリだった。直剣を抜き、走ってきていた。その後ろにトーマとガンデムも続いている。
「ジリ、子獣を頼む! 二体いる!」
「分かった! トーマ、ガンデム、俺に続け!」
ジリが子獣の一体に向かって踏み込んだ。トーマとガンデムがもう一体を牽制する。
これで、俺は親獣に集中できる。
親獣が咆哮した。
先ほどまでの唸り声とは格が違う、本気の威嚇だった。四つの黄金の瞳が俺を睨み据え、大きな顎が開かれた。
牙の間から、何かが見えた。
喉の奥が赤く光っている。
直感が叫んだ。避けろ。
俺は横に飛んだ。
直後、親獣の口から赤黒い光の塊が放たれた。
それは俺がいた場所を直撃し、地面を抉った。焼けた土の臭いが立ち昇り、直径一メートルほどの焦げた穴が残された。
理力だ。この獣は理力を攻撃に使える。
ナターシャが言っていた。この世界の生物には理力を持つものがいる、と。だが、ここまで強力な理力を持つ獣がいるとは聞いていなかった。
親獣が二発目を溜めている。喉の奥が再び赤く光り始めた。
待つ必要はない。
俺は地面を蹴り、親獣に向かって真正面から突進した。
親獣が二発目を放った。
俺は理力を両足に集中させ、地面を強く蹴って跳躍した。赤黒い光弾が足元を通過し、背後の地面を抉った。
跳躍の勢いのまま、俺は親獣の頭上に達した。
見下ろす。四つの目が俺を見上げている。
背中の骨状突起の隙間。首と胴体の接合部。そこだけ、硬い毛が薄い。
俺は刀に全力の理力を注いだ。蒼い光が刃から溢れ、空気が震えた。
無心流奥義、「落月」。
上段からの垂直の斬り下ろし。重力と跳躍の勢いに加え、全身の理力を一点に集中させた一撃。
刃が、骨状突起の隙間に吸い込まれた。
硬い毛と皮膚を断ち、筋肉を裂き、背骨に達した。
手応えがあった。鋼が骨に食い込む感触。
親獣が絶叫した。全身が痙攣し、四本の脚が折れるように崩れた。
俺は刀を引き抜きながら、獣の背中から飛び退いた。
親獣は崩れ落ちた。巨体が地面に倒れ、鈍い音と共に土煙が上がった。四つの瞳から光が消え、太い呼吸が数度繰り返された後、動かなくなった。
子獣たちが鳴いた。
親の死を察したのだろう。高い、悲しげとも聞こえる鳴き声を上げた。
ジリが一体の前脚を斬りつけ、その子獣が後退していた。もう一体はトーマとガンデムが挟み撃ちにして牽制していたが、倒すには至っていなかった。
子獣たちは親の死体を一瞥し、そして背を向けた。
二体とも、森の奥に向かって走り去っていった。追う必要はなかった。
静寂が戻った。
俺は荒い呼吸を整えながら、刀についた血を拭った。蒼い理力の光はすでに消えていた。理力の消耗が大きい。全力の一撃を放った反動で、身体に重い疲労感が来ていた。
ジリが近づいてきた。直剣を鞘に収めながら、横たわる親獣の死体を見下ろした。
「……これは、グラオムだ。まさか、本当にいたとはな」
「グラオム?」
「丘陵の奥地に棲むと言われている大型獣だ。この辺りの昔話にしか出てこない。俺も実物を見たのは初めてだ」
ジリは親獣の――グラオムの頭部を観察し、牙の一本に触れた。
「こいつが街道近くまで出てきた理由が分からんが……餌が不足したか、あるいは子連れで縄張りが広がったか」
「理力を吐いてきた」
「聞いた。理力弾を放つ獣がいるとは文献にはあったが、グラオムがそれだったとはな。おまえでなければ、ここにいる全員が死んでいた」
ジリは淡々とそう言ったが、その声にはわずかな震えがあった。歴戦の武人も、想定外の相手には動揺する。人間として当然のことだ。
馬車の一行が戻ってきた。
先頭を歩いていたのは、あの中年の女性だった。後ろに若い女性と、武装した男二人が続いていた。負傷した男は応急手当を受けたのか、腕に布が巻かれていた。
中年の女性が俺の前で足を止め、深く頭を下げた。
「命を救っていただきました。お礼の言葉もございません」
丁寧な言葉遣いだった。ゼーラ語の敬語表現を完璧に使いこなしている。教養のある人間だと分かった。
「怪我はありませんか」
「はい。あなたが間に入ってくださったおかげで、全員無事です」
中年の女性が脇に退くと、その後ろにいた若い女性が前に出た。
先ほどは恐怖で歪んでいた顔が、今は落ち着きを取り戻していた。薄い緑色の瞳が、まっすぐに俺を見つめていた。
栗色の髪は乱れたままだったが、それでも目を引く容姿だった。整った顔立ちに、意志の強そうな眉。衣服は旅装だったが、その仕立ての良さと、胸元に留められた銀細工の飾りが、身分の高さを示していた。
「あなたが、あの獣を倒したのですね」
若い女性の声は、思ったより低く、落ち着いていた。恐怖の後にこの落ち着きを見せられるのは、胆力がある証拠だ。
「ええ」
「あなたのお名前を伺ってもよろしいですか」
「カズマ。ガルディナ学院から来ました」
若い女性は一瞬、目を見開いた。
「学院から? では、あなたは――」
中年の女性が若い女性の肩に手を置き、耳元で何かを囁いた。若い女性は小さく頷いた。
「失礼しました。私の名は、エルティア・メレン・ファーデルス」
その名前を聞いた瞬間、ジリの表情が変わった。
驚きを通り越して、蒼白になっていた。
「ファーデルス……閣下?」
ジリの声が微かに裏返った。
若い女性――エルティアは、ジリに向かって軽く頷いた。
「はい。副都アスファ総督、メレン・ファーデルスの娘です」
副都アスファ総督の娘。
俺たちがこれから向かおうとしている都市の、最高権力者の血縁だった。
ジリが片膝をついた。トーマとガンデムも慌てて同じ姿勢を取った。
俺だけが立ったままだった。この世界の礼儀作法をまだ完全には把握しきれていなかったし、何より、膝をつく理由がよく分からなかった。
エルティアは俺が立ったままであることに、怒る様子も気分を害した様子もなかった。むしろ、かすかに口元を緩めた。
「どうか、お立ちください。皆さんに命を救われたのは私たちの方です。立っている方がひとりいてくださるほうが、私も気が楽です」
ジリたちが立ち上がった。ジリはまだ動揺しているようだったが、武人の顔に戻ろうと努めていた。
中年の女性が名乗った。
「私はヘルダ・ヴァイス。エルティア様の侍女であり、教育係を務めております」
武装した男たちも名乗った。護衛の兵士で、リーダル、サミンという名だった。リーダルが負傷した方、サミンがもう一人だった。
「アスファに向かっておられたのですか」
俺が尋ねると、エルティアが答えた。
「はい。ガルディナの北にある、アトム領に所用で参っておりました。その帰りです。馬車で戻る途中に、あの獣に襲われました。馬が怯えて暴走し、馬車が横転して……」
「馬は?」
「逃げてしまいました。荷物も馬車の中に残ったままです」
俺は横転した馬車を見た。車軸が折れている。修理しなければ動かないだろうし、馬もいない。
「俺たちもアスファに向かっています。よろしければ、一緒に歩きませんか」
言ってから、ジリを見た。ジリは頷いた。むしろ、総督の娘をこの状態で放置するわけにはいかない、という顔をしていた。
エルティアはヘルダと目を合わせた。ヘルダが小さく頷くのを確認してから、エルティアは答えた。
「ご厚意に甘えさせてください」
こうして、俺たちの一行は四人から八人に増えた。
横転した馬車から、持ち運べる荷物だけを回収した。食料と水、着替え、それに書類の入った革鞄。エルティアが真っ先に確保したのは、その革鞄だった。
グラオムの死体はそのまま残した。ジリによれば、丘陵の獣たちが処理するだろうとのことだった。ただし、牙を数本だけ折り取った。「素材として価値がある」とジリは言った。
護衛のリーダルの傷は、幸い深くはなかった。グラオムの前脚に弾き飛ばされた際にできた裂傷で、ヘルダが手際よく包帯を巻き直した。
隊列を再編成した。
先頭にジリ、その後ろに俺とエルティア、続いてヘルダとトーマ、護衛の二人、最後尾にガンデム。
歩き始めて最初のうち、エルティアは無言だった。
恐怖の余韻が残っているのだろうと思い、俺も黙って歩いた。
だが、しばらくして、エルティアが口を開いた。
「カズマ、と仰いましたね」
「はい」
「珍しいお名前です。この国の名前ではありませんね」
「ええ。俺は落ち人です」
エルティアの歩みが一瞬だけ遅くなった。
「落ち人……」
その声に、驚きと、それから別の何かが混じっていた。好奇心だろうか。あるいはもっと複雑な感情か。
「落ち人の方にお会いするのは初めてです。噂は聞いておりましたが」
「どんな噂ですか」
「別の世界から来る、不老の人たち。強い理力を持ち、この世界の常識にとらわれない考え方をする人たちだ、と」
「半分は当たっていて、半分は分かりません」
エルティアが微かに笑った。
「正直な方なのですね」
「嘘が下手なだけです」
今度ははっきりと笑った。先ほどまでの緊張が嘘のように、自然な笑みだった。
「あなたの剣技は、この世界のものではありませんでしたね。あの獣を倒したとき、上から斬り下ろした技。見たことのない動きでした」
グラオムとの戦いを見ていたのか。馬車の陰から逃げる途中だったはずだが。
「途中で振り返って見ていました。怖かったのですが、目が離せなかった」
肝が据わっているどころの話ではない。あの状況で振り返る胆力は、普通の人間にはない。
「あの技は、俺の流派の奥義です。『落月』という名前がついています」
「ラクゲツ。あなたの世界の言葉ですか。美しい響きですね」
エルティアは「落月」という言葉を、何度か小さく繰り返した。異国の言葉を味わうように。
ヘルダが後ろから声をかけた。
「エルティア様、お話に夢中になるのはよろしいですが、お足元にお気をつけて」
「はい、ヘルダ」
エルティアは素直に返事をしたが、俺の方にちらりと視線を向け、小さく肩をすくめた。叱られた子供のような仕草だった。
総督の娘。だが、権力者の娘特有の尊大さは感じられなかった。
歩きながら、俺は考えていた。
副都アスファ総督の娘と、偶然にしては出来過ぎた遭遇。
もっとも、「偶然」を疑うのは職業病かもしれない。501特戦隊の人間は、偶然という言葉を信用しない訓練を受けている。
だが、今はそれを考えるときではない。
まずは全員を無事にアスファまで送り届ける。
それが、今の最優先事項だ。
丘陵の森が途切れ、久しぶりに広い空が見えた。霧はすっかり晴れ、午後の陽光が街道を照らしていた。
アスファまで、あと三日。




