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 <番外編>  兄が異世界に落ちる、その前のこと~陰キャ次男坊と、押しかけ帰国子女のアウトドア活動部~

一、佐田という重い名字


 俺の名前は佐田信長さた のぶながという。


 この名前を初めて聞いた人間の、十人中九人がやる反応がある。一拍おいて、こう言うのだ。


「のぶなが、って……あの織田信長の?」


 違う。佐田だ。佐に田んぼの田で、佐田。織田じゃない。

 ……だが、ここで俺は毎回思ってしまう。佐田の「佐」の字を、織田の「織」に書き換えたら。


 佐田信長は、織田信長になる。


 天下布武。本能寺。鳴かぬなら殺してしまえ、の人。

 たった一文字、書き順をいじっただけで、俺は日本史の教科書に太字で載る重要人物になり損ねている。あるいは、なり損ねていない。どちらにしろ、たまったものではない。


 皇紀二六八三年、英弘五年の春。俺は都内の私立・聖鷺学院高等学校に入学した。東京でも有数の進学校だが、校風が異様に自由なことで知られている。制服の着こなしはほぼ自由、髪型も自由、昼休みに屋上で寝ていても誰も咎めない。

 そんな自由な学校で、俺は入学初日にホームルームの自己紹介をこう乗り切った。


「……佐田、信長です。よろしくお願いします」


 名乗って、即着席。最短記録。

 クラスの空気が「あ、こいつ陰キャだ」と理解するまで、〇・三秒。


 俺は陰キャだ。それも、生まれつきというより、半分は自分で選んだ陰キャである。

 原因のいくらかは、この重すぎる名前にある。小学校の頃、自己紹介のたびに「信長くんは何人殺したの?」とからかわれ続けた俺は、人前で名乗ることそのものに軽いトラウマを抱えてしまった。だから人と関わらない。関わらなければ、名前を呼ばれることもない。完璧な理論だ。


 ちなみに身長は一七八センチある。剣道とは違う武術を子供の頃から仕込まれているせいで、体つきは細マッチョと言っていい。鏡を見れば、まあそれなりに見られる体格をしている――と思う。


 だが、それと社交性は別問題だった。

 俺の中身は、一七八センチの身長に、小学校三年生くらいのコミュニケーション能力が同居している。極度の引っ込み思案。教室で誰かに話しかけられると、心拍数が一二〇を超える。


 そんな俺の唯一の安息は、自然の中にある。


 ソロキャンプと、ソロ登山。

 人のいない山に分け入り、誰とも喋らず、火を熾し、湯を沸かし、星を見る。あの静けさだけが、俺の呼吸を楽にしてくれる。

 高校では、活動実態のほぼない「アウトドア活動部」というゆるい部活に入った。部員は名簿上五人。だが幽霊部員が四人で、実際に部室に来るのは俺一人。つまり実質、俺の個室だ。誰にも気を使わず、ザックの手入れをしたり、地図を眺めたり、コーヒーを淹れたりできる。最高の環境だった。


 最高の環境、だった。


 ――その美少女が、転入してくるまでは。




二、佐田家のこと


 話の前に、俺の家のことを少しだけ。


 佐田家は、佐田無心流さた むしんりゅうという古武術の宗家である。

 江戸の昔から続く、戦場で人を殺すための武術だ。聞こえはいいが、要するに「いかに効率よく敵を無力化し、確実にとどめを刺すか」を突き詰めた流派である。脇差で急所を突く、関節を破壊する、頸を絞めて落とす。物騒の極みだ。


 祖父が宗家。父はその娘婿で、一番弟子。そして俺の兄――佐田和真かずまは、無心流の歴史に残る天才児と呼ばれている。


 兄貴はとにかく規格外だ。文武両道という言葉が服を着て歩いているような男で、無心流の免許皆伝を史上最年少で取り、東京帝国大学を卒業し、そのまま帝国海軍に入隊した。今は陸戦隊――いわゆる海軍の特殊部隊員として、どこかの基地で物騒な訓練に明け暮れている。たまに帰ってくると、体に新しい傷が増えている。


 兄貴は完璧だった。強くて、頭が良くて、おまけに人当たりまでいい。


 そして俺は、その弟だ。


 俺だって無心流の手ほどきは受けている。だが――俺は、攻撃的な武術がまるでダメだった。

 いや、「下手」ではない。技そのものは覚えている。剣も槍も居合も、型はこなせる。

 ただ、人を傷つける動作が、性根に合わないのだ。


 木刀を相手の延髄に振り下ろす瞬間、手が止まる。脇差で急所を突く、と想像しただけで、胃の奥が冷たくなる。

 祖父はそんな俺を見て、長く息を吐いてから、こう言った。


「信長は、優しすぎる。武人には向かん」


 軟弱、と言われなかっただけマシだったのかもしれない。

 父も、俺に無心流の使い手としての期待はしていない。それは口に出されないぶん、かえってはっきりと伝わってきた。佐田の二人目は、出来損ないの優男だ、と。


 だから俺は、自分なりの答えを探した。


 無心流の柔術を、独自に作り変えたのだ。

 本来の無心流柔術は、敵を組み伏せ、動けなくしたうえで脇差でとどめを刺すためのもの。だが俺は、その「動けなくする」部分だけを抜き出して、徹底的に磨いた。とどめは、刺さない。相手を一切傷つけず、ただ無力化して、安全に解放する。


 関節を「極める」のではなく「制御する」。痛みではなく、構造で相手を動けなくする。倒すのではなく、流す。

 祖父に見せたら、「それは無心流ではない」と一蹴された。

 兄貴に見せたら、しばらく黙って腕を組んだあと、こう言った。


「――信長。お前のそれ、悪くないぞ」


 兄貴だけは、認めてくれた。だから俺は、その柔術を捨てずに磨き続けている。誰かを守るときが来るなら、誰も傷つけずに守れるように。

 ……まあ、そんな機会、陰キャの俺の人生に訪れるわけがない、と思っていたのだが。




三、嵐の転入生


 四月も半ばを過ぎた、ある月曜の朝。


 二限目が始まる前、担任の宝来ほうらい先生が妙にそわそわしながら教室に入ってきた。


「えー、みんなに紹介がある。今日からこのクラスに転入生が来ることになった」


 教室がざわついた。四月のこの時期に転入とは珍しい。俺はと言えば、窓際の一番後ろ、自分の指定席で、机に肘をついて外を眺めていた。転入生が誰だろうと、俺の世界には関係ない。そう思っていた。


「入っておいで」


 教室の前の扉が開いた。

 そして、空気が、変わった。


 入ってきたのは、一人の少女だった。

 亜麻色の髪が、窓から差し込む光を受けて、淡く透けるように輝いている。日本人離れした彫りの深い顔立ちに、大きな、けれど鋭さのある瞳。背は女子にしては高めで、姿勢が驚くほど良い。制服の着こなしひとつ取っても、どこか異国の風がまとわりついていた。


 教室中の視線が、彼女に吸い寄せられる。


 黒板に、白いチョークが走った。


『白瀬 アリス』


「白瀬アリスです」


 澄んだ、よく通る声だった。日本語に、わずかなアクセントの揺らぎがある。


「父の仕事の都合で、十二歳までイギリス、それからアメリカと、いくつかの国で暮らしていました。日本の高校は初めてなので、いろいろ教えてもらえると嬉しいです。よろしくお願いします」


 完璧な所作で、ぺこりと頭を下げる。

 その瞬間、教室の男子の半分が陥落した音がした。気がした。


「白瀬さん、何か質問は――おっと、もう手が挙がってるな」


 ここからの自己紹介の質疑応答は、まさに嵐だった。


「白瀬さん、彼氏いるの?」「いません」「趣味は?」「アウトドア全般です。山と、空が好き」「好きな食べ物は?」「焚き火で焼いたマシュマロ」


 返答のひとつひとつが堂々としていて、よどみがない。彼女は社交性の塊だった。俺とは、対極の生き物だ。

 俺は他人事のように、ぼんやりと窓の外を眺めていた。すごい子が来たもんだ。でもまあ、住む世界が違う。俺はこの教室の隅の置物で、彼女は中央の太陽だ。交わることはない。


 そう思っていた、その時。


 白瀬アリスの大きな瞳が、教室の隅――窓際の一番後ろを、まっすぐに射抜いた。


 俺を、見ていた。


 なぜ。気のせいだろう。後ろの掲示板でも見ているのだ。俺はそろりと首を回して背後を確認した。掲示板には、誰も貼っていない部活募集のポスターが一枚あるだけだった。


 視線を戻す。彼女は、まだ、俺を見ていた。

 そして、唇の端を、ほんの少しだけ持ち上げて――笑った。


 ……何だ。何なんだ、その笑みは。


 心拍数が、一気に一四〇を超えた。




四、聖域、陥落


 その日の放課後。


 俺はいつものように、アウトドア活動部の部室へ向かった。校舎の端、旧棟の二階。誰も近寄らない静かな一角だ。

 部室のドアを開ける。中はいつもどおり、俺一人の聖域――のはずだった。


 窓辺に、亜麻色の髪が揺れていた。


「あ。来た」


 白瀬アリスが、振り返って笑った。

 俺は、ドアノブを握ったまま、石になった。


「な、なんで……ここに」


「アウトドア活動部に入部したくて。職員室で聞いたら、部室はここだって。入部届、もう出してきた」

 彼女は、入部届の控えをひらひらと振ってみせた。

「これでわたしたち、同じ部活ね」


 なんてことだ。

 よりによって、聖域に。俺の唯一の安息の地に。クラスでいちばん社交的な生き物が、入ってきてしまった。


「ねえ、あなたが部長?」


「……ぶ、部長は別にいる。けど、来ない。幽霊部員ばっかりだから。実際に来るのは……俺だけ」


「ふうん」

 彼女はくるりと部室を見回した。年季の入ったザック、棚に並んだコッヘル、壁に貼られた山岳地図、隅で湯気を立てる――いや、立てかけられたケトル。

「いい部屋。あなたの趣味、ぜんぶここに詰まってる感じがする」


「……べつに」


「ソロキャンプと、登山。でしょ?」


 俺は、ぴくりと肩を震わせた。

 なぜ、それを。


「自己紹介のとき、わたしずっと見てた。あなただけ、外を見てた。教室にいるのに、心は山にいるみたいな顔で」

 彼女は、まっすぐにこちらへ歩いてきた。一歩、また一歩。俺は反射的に後ずさる。背中がドアにぶつかった。逃げ場がない。

「同じ匂いがしたの。わたしも、人の多い場所より、空の下が好きだから」


 至近距離。亜麻色の睫毛が、ぱちりと瞬いた。

 太陽みたいな女が、俺という日陰に、なぜか興味を持っている。意味が、わからない。


「……き、君は」俺は、絞り出すように言った。「社交的、だろ。クラスでも人気者だ。わざわざこんな、誰も来ない部活に、来なくても」


「人がたくさんいる場所は、嫌いじゃない。でも、疲れるの」

 ふっと、彼女の声から張りが抜けた。一瞬だけ、太陽の裏側がのぞいた気がした。

「ずっと色んな国を転々として、行く先々で『新顔の珍しい子』をやってきた。笑って、明るくして、すぐ馴染んで。そういうの、得意なふりをしてきただけ」


 彼女は、窓の外の空を見上げた。


「唯一、息ができたのが、家族で出かけるキャンプとトレッキングだった。引っ越すたびに友達も学校も全部リセットされる暮らしで、変わらないものなんて、ほとんどなかった。でも、どこの国に行っても、空と山だけは、同じ顔をしてた」

 彼女は、窓の外を見上げたまま続けた。

「休みのたびに、ちゃんとしたガイドさんを雇って、家族でテントを張って、星を見た。誰の顔色もうかがわなくていい時間。あれだけが、本当の自分でいられた」

 ふっと、彼女の眉が下がった。

「でも、女の子が一人で出歩くのが危ない国も多くて。本当は、もっと自由に、自分の足で山に入りたかった。叶わなかったけど」


 その横顔に、俺は――不覚にも、見入ってしまった。

 社交性の塊だと思っていた女が、俺と同じ場所に、安らぎを見出していた。太陽の裏側は、案外、静かで、寂しい色をしていた。


「ね」

 彼女が、こちらを向いて、にっこり笑った。今度は、太陽の表側の笑顔だ。

「佐田くん、でしょ。信長。――かっこいい名前」


「……っ」


 来た。きた、きた、きた。

 俺は身構えた。次の台詞は決まっている。あの織田信長の? だろう。何人殺したの? だろう。何度浴びせられたか知れない、あの言葉が。


「織田信長と、同じ読みなのね」彼女は言った。


 ほら、来た。


「いいなあ。歴史に名前が残る人と、同じ名前。わたし、戦国時代の武将、大好きなの。とくに信長。古いものを全部ぶっ壊して、新しい世界を作ろうとした人。最高じゃない?」


 ……え?


 俺は、ぽかんと口を開けた。

 からかわれている、わけではない。彼女の目は、本気で、キラキラと輝いていた。


「あの……俺、佐田、だから。織田じゃ、ない」


「知ってる。でも、佐田の佐を、織田の織に書き換えたら、織田信長になるでしょ」


 俺は、息を呑んだ。

 その一文字の話を――自分でも恥ずかしくて、誰にも言ったことのない、あのコンプレックスの正体を、彼女は、出会って半日で、自分から口にした。


「ね、すごくない? あなた、たった一画足すだけで、天下人になり損ねてるの。ロマンしかないじゃない」


「ロマン……?」


 俺が十年抱えてきた重荷を、彼女は、ロマンと呼んだ。


 心臓が、変な音を立てた。一四〇だの一二〇だの、そういう数字とは違う、もっと深いところが、とくん、と鳴った。


「……変なやつだな、君は」


 俺がやっと絞り出した言葉に、白瀬アリスは、花が咲くみたいに笑った。


「アリスでいいよ。よろしくね、信長」




五、押しかけ部員


 その日から、俺の静かな日常は、音を立てて崩れていった。


 アリスは、毎日部室に来た。

 俺がザックの防水処理をしていると、隣に座って「それ、何の作業?」と聞いてくる。地図を広げていると、「ここ、登ったことある?」と顔を寄せてくる。コーヒーを淹れると、当然のように二人分のカップが用意されている。


 人づきあいが苦手な俺は、最初の一週間、まともに目も合わせられなかった。心拍数は常時一二〇。喋ると噛む。コーヒーを淹れる手が震えて、何度かこぼした。


 だが、アリスは一切気にしなかった。

 俺が黙り込んでも、彼女は平気で喋り続けた。俺が答えなくても、勝手に答えを見つけて、勝手に納得して、勝手に笑った。

 彼女のペースは、台風みたいだった。最初は振り回されて目が回ったが、不思議なことに、そのうち、その嵐の中にいることが、嫌じゃなくなってきた。


 なぜなら、アリスは、本物のアウトドア好きだったからだ。


「信長、このバーナー、海外のだよね。トランギア?」

「……アルコールストーブ。よくわかったな」

「使ってた。家族でキャンプしてた頃。あのとろ火の感じ、好き」


 道具の話になると、俺の口は、なぜか少しだけ滑らかになった。

 山の話、テントの話、焚き火の組み方、星座の見つけ方。彼女はどれにも食いついてきて、知らないことは素直に「教えて」と言った。そして俺の拙い説明を、目を輝かせて聞いた。


 誰かに、自分の好きなものを、こんなに真剣に聞いてもらったのは、初めてだった。


 ――だが、平穏は、部室の中だけの話だった。


 問題は、教室で起きた。


 転入してきた絶世の美少女が、なぜか、クラスで一番地味な陰キャ男にべったりだ。この事実は、瞬く間にクラス中、いや学年中に知れ渡った。

 休み時間。アリスは、当然のように俺の席までやってくる。


「信長、見て。次の登山の候補、三つに絞ったの。どれがいいと思う?」


 彼女が俺の机に身を乗り出して地図を広げるたびに、亜麻色の髪がさらりと俺の肩に触れる。教室中の視線が、矢のように突き刺さってくる。


 とくに、痛い視線が一つあった。

 クラスの中心的な男子グループのリーダー格、相沢あいざわだ。サッカー部のエースで、顔も良く、入学早々アリスに猛アタックをかけては、ことごとくかわされていた男。


「おい、佐田」


 昼休み、廊下で、俺は相沢に呼び止められた。取り巻き二人を従えている。典型的な、漫画みたいな構図だった。


「お前、白瀬さんと、どういう関係だよ」


「ど、どういう、って……同じ、部活で」


「部活? あの、誰もいない幽霊部活か。お前、白瀬さんに何吹き込んだんだ。あんな美人が、お前みたいな根暗と一緒にいるの、おかしいだろ」


 言い分は、正しかった。俺自身、毎日そう思っている。

 反論できずに俯いていると、相沢は調子に乗って、俺の胸ぐらに手を伸ばしてきた。


「いいか。白瀬さんから、手を引――」


 その手が、俺の襟に触れる、その刹那。

 俺の体が、無意識に反応しかけた。不傷の柔。流せば、相沢は今すぐ、自分から廊下に転がる。


 だが――俺は、寸前で、その動きを殺した。

 ここで技を使えば、騒ぎになる。アリスにも、迷惑がかかる。俺は、ただ、されるがままに、胸ぐらを掴まれた。


「――何してるの?」


 凛とした声が、廊下に響いた。


 アリスだった。腕を組んで、こちらを見据えている。普段の太陽みたいな笑顔は、どこにもなかった。


「相沢くん。信長から、手を離して」


「い、いや、白瀬さん、これは、こいつが――」


「わたし、自分の意思で、信長と一緒にいるの。誰かに吹き込まれたわけじゃない。むしろ、わたしが押しかけてるくらい」

 アリスは、つかつかと歩み寄り、相沢の手を、俺の襟からそっと外させた。

「あなたは、何度わたしを誘ってくれても、いい人だと思う。でも――わたしが一緒にいたいって思える人は、もう、決めたの」


 そう言って、彼女は、俺の腕に、自分の腕を、するりと絡めた。


 ……は?


 廊下が、凍りついた。相沢も、取り巻きも、通りすがりの生徒たちも、全員が口を半開きにして固まった。

 誰より固まっていたのは、俺だ。腕に伝わる、やわらかい感触と、ほのかな体温に、脳が完全に停止した。


「い、いま、なんて」


「行こ、信長」


 アリスは、俺の腕を引いて、呆然とする相沢たちを置き去りに、すたすたと歩き出した。

 角を曲がって、人気のない階段の踊り場まで来ると、彼女はようやく俺の腕を放し――そして、自分の顔を両手で覆った。


「……はずかしいこと、言っちゃった」


 太陽みたいな女の耳が、真っ赤に染まっていた。

 堂々としていたのは、演技だったのか。それとも、勢いだったのか。


「で、でも、本当のことだから。取り消さないからね」


 俺は、何も言えなかった。心拍数は、もはや計器が振り切れていた。

 ただ、わかったことが、一つだけあった。

 この嵐みたいな女は――嵐の中心で、ときどき、俺以上に、真っ赤になって震えている。それを知れたことが、なぜだか、無性に、嬉しかった。


 その日から、クラスの誰も、俺とアリスの関係に、口を出さなくなった。


 ある日、俺はふと、彼女の名前のことを尋ねた。


「白瀬アリス、って……変わった、組み合わせだよな」


「でしょ。白瀬は、父の名字。日本の。アリスは、母方の家がつけた名前」

 彼女は、コーヒーのカップを両手で包んだ。

「海外にいた頃は、みんな『白瀬』が言えなくて、わたしはずっと『アリス』だった。でも日本に来たら、今度は『白瀬さん』って呼ばれて、『アリス』のほうが珍しがられる。どっちの名前も、半分しか、わたしのものじゃないみたいでね」


 名前に、二つの世界を背負い、そのどちらにも根を下ろせない少女。

 名前に、天下人を背負い損ねて、根を下ろしすぎている俺。


 俺たちは、二人とも、名前に重たいものを乗せられていた。

 ただ、俺の名前は、俺を一つの場所に縛りつけすぎていて。彼女の名前は、彼女をどこにも結びつけてくれなかった。

 重さの、向きが、ちょうど逆だった。だからかもしれない。妙に、こいつの話が、自分のことみたいに聞こえるのは。


「ね、信長」

 アリスが、コーヒーをすすりながら言った。

「今度の連休、部活の活動として、山に登らない? 二人で」


 俺は、淹れたてのコーヒーを、思いきり吹いた。


「ふ、ふた、二人で?!」


「だって、部員、わたしたちしかいないし。れっきとした部活動でしょ。先生にも届け出すから、ちゃんとしてる」


「い、いや、でも、その、男女で、山に、その――」


「あ、もしかして、わたしのこと意識してる?」


 アリスが、いたずらっぽく顔を覗き込んできた。

 俺の心拍数は、ついに測定不能の領域に達した。




六、奥多摩、二人の稜線


 連休初日。よく晴れた。


 俺たちは、奥多摩の山に入った。日帰りで登れる、難易度は中くらいの稜線歩き。アリスの実力を知らなかったので、俺は無難なコースを選んだ。


 だが、登り始めて十分で、俺の心配は杞憂だとわかった。


 アリスの足取りは、軽くて、正確だった。岩場でも全く危なげがなく、ペース配分も完璧。本物だった。彼女の言う「アウトドア好き」は、見栄でも趣味でもなく、生き方そのものだったのだ。


「信長、速いね。ぜんぜん息切れしてない」


「君こそ。……無心流の足腰、無駄に丈夫なんだ」


「むしんりゅう?」


 しまった。口が滑った。

 俺は、観念して、家のことを少しだけ話した。古武術の宗家で、祖父も父も兄も使い手で、自分だけ落ちこぼれの優男だ、ということを。攻撃的な武術が性に合わなくて、人を傷つけない柔術を、自分で作った、ということを。


 話しながら、自分でも驚いていた。誰にも話したことのない、家の恥のような話を、なぜこの女には喋れるのだろう。


「落ちこぼれ、じゃないと思う」

 アリスは、稜線を歩きながら、前を向いたまま言った。

「人を傷つけるのが上手いことが、強さなの? わたしは、傷つけない技を選べることのほうが、ずっと難しくて、強いと思う」


 風が、亜麻色の髪を揺らした。


「信長のおじいさんも、お父さんも、お兄さんも――誰も傷つけずに人を制する技なんて、作れなかったんでしょ。作ろうともしなかった。それを、たった一人で作っちゃった人を、落ちこぼれって呼ぶのは、おかしいよ」


 俺は、足を止めた。


 十五年間、誰も、そう言ってくれなかった。

 兄貴は「悪くない」と言ってくれた。だがそれは、強者が弱者に向ける優しさだと、心のどこかで思っていた。

 でも、アリスの言葉は、違った。彼女は、俺の選んだ道そのものを、まっすぐに「強い」と言い切った。


「……ありがとう」


 ようやく、それだけ言えた。

 アリスは振り返り、稜線の風の中で、笑った。背後には、どこまでも青い、五月の空が広がっていた。


 その時、俺は思った。

 ああ、この空を、誰かと一緒に見るのも、悪くないな、と。




七、無心流、ここに在り


 昼過ぎ。下山を始めた頃だった。


 登山道の途中、見晴らしのいい広場で、俺たちは昼食をとった。アリスが焚き火台でマシュマロを焼き、俺がコーヒーを淹れた。穏やかな時間だった。


 異変は、その帰り道に起きた。


 登山道を外れた斜面に、人の声がした。

 見ると、三人組の男たちがいた。登山者には見えない。軽装で、缶を片手に、騒いでいる。どうやら、立ち入り禁止のエリアで野営をしていたらしい。一人は、罠だろうか、何かの仕掛けを担いでいた。密猟者か、それに近い連中だ。


「……戻ろう」俺は小声で言った。「関わらないほうがいい」


 だが、遅かった。

 男たちの一人が、こちらに気づいた。そして、アリスを見て――下卑た笑いを浮かべた。


「お、なんだ嬢ちゃん。外国人か?一人? いや、二人か」


 男たちが、にやにやしながら近づいてきた。三人とも、ガタイがいい。明らかに、まともな用件ではなかった。


「写真撮らせろよ。減るもんじゃねえだろ」


 一人が、アリスの腕に手を伸ばした。


 その瞬間――俺の体は、考えるより先に動いていた。


 十五年間、染み込ませてきた佐田無心流。攻撃の技は、一度も心から振るえなかった。だが、人を守るための型は、何万回も繰り返してきた。


 俺は、アリスへ伸びた男の腕に、すっと自分の手を添えた。

 握りはしない。掴みもしない。ただ、流れに乗るように、男の手首の構造に、最小限の力を「置いた」。


 無心流柔術改め、佐田信長流――不傷ふしょうの柔。

 倒すのではなく、流す。極めるのではなく、制御する。


 男の腕は、自分の体重と、自分の踏み込みの勢いで、本人の意図とまるで違う方向へ導かれた。痛みはない。ただ、男は自分の体のバランスを完全に失い、なぜか自分から地面に膝をついていた。何が起きたのか、本人にも理解できていない顔だった。


「な、なんだ?!」


 残る二人が気色ばんで、同時に飛びかかってきた。

 俺は、息を吐いた。心拍は、不思議と落ち着いていた。山の上でアリスと過ごした午後の、あの静けさが、まだ体の芯に残っていた。


 一人目の突進を、半歩ずれてかわす。男の上着の襟に指を一本だけ引っかけ、彼自身の前進する力を、ほんの少しだけ「ねじる」。男は、つんのめって、勝手に転がった。一切、殴っていない。

 二人目が掴みかかってくる。その腕を、俺は受け流し、肘の内側に手を当て、関節の動く方向へ、自然に「畳ませた」。男はその場にしゃがみ込み、動けなくなった。痛みで動けないのではない。構造的に、動く方法を、体が見失っているのだ。


 三人とも、地面に這いつくばっていた。

 誰一人、傷ついていない。鼻血の一滴も出ていない。ただ、立ち上がる術を、一時的に奪われているだけ。


「……っ、てめえ、何しやがった!」


「何も」俺は、静かに言った。「あんたたちが、勝手に転んだだけだ」


 俺は、しゃがみ込んだ男たちと、距離を取った。

 声が、震えていないことに、自分で驚いていた。


「俺は、あんたたちを傷つけたくない。だから、これ以上、向かってこないでくれ。――次は、流す場所が、崖のほうになるかもしれない」


 はったりだった。俺は、崖に向かって人を流すなんて、絶対にしない。できない。

 だが、男たちには、それがわからなかった。得体の知れない、傷ひとつ付けずに自分たちを地面に縫い付けた相手への恐怖が、彼らを後ずさらせた。三人は、捨て台詞を吐きながら、斜面の奥へ逃げていった。


 静けさが、戻ってきた。


 俺は、深く、息を吐いた。膝が、今になって、少し笑っていた。

 ――やった。誰も、傷つけずに。


「信長」


 振り返ると、アリスが、目を見開いて、こちらを見ていた。

 その頬が、夕焼けのせいだけではなく、赤く染まっていた。


「今の……すごい。本当に、すごい。誰も殴ってないのに、三人とも、何もできなかった」


「……無心流の、柔術を、自分で作り変えたやつだ。人を、傷つけないための」


「うん。聞いた。でも、見るのは初めて」

 アリスは、つかつかと近づいてきて、俺の顔を、すぐ間近から見上げた。

「ねえ、信長。落ちこぼれの優男が、聞いて呆れる。あなた、わたしが今まで会った誰よりも、ずっとずっと、強くて、優しい人だよ」


 夕日が、稜線を、橙色に染めていた。

 俺の心臓は、戦いの直後より、今のほうが、ずっと激しく鳴っていた。




八、太陽の告白


 下山して、駅へ向かうバスを待つ間。

 ベンチに並んで座った俺たちは、しばらく、何も喋らなかった。山の余韻と、さっきの出来事の余韻が、二人の間に漂っていた。


 先に口を開いたのは、アリスだった。


「ねえ、信長。わたし、なんで日本に来たと思う?」


「……お父さんの、仕事じゃ、なかったのか」


「それもある。でも、本当は――わたしが、日本に行きたいって、わがまま言ったの」


 アリスは、暮れていく空を見上げた。


「ずっと、根っこのない暮らしだった。どこの国に行っても、お客さん。どの言葉も、半分しか自分のものじゃない。明るく振る舞えば振る舞うほど、自分が空っぽな気がした」

 彼女の声は、静かだった。教室で聞いた、よく通る声とは、別人のようだった。

「だから、ルーツのある国に、行ってみたかった。白瀬の名前が始まった国に。何か、自分の根っこになるものが、見つかるかもしれないって」

 彼女は、夕暮れの稜線へ目を向けた。

「それに……日本なら、治安もいいでしょ。海外だと、女の子が一人で山に入るなんて、危なくて、絶対に許してもらえなかった。家族とガイドさんと一緒の、お膳立てされた自然ばっかり。本当は、もっと自分の足で、自由に歩いてみたかったの。日本でなら、それが叶うかもしれないって、思ってた」


 彼女は、こちらを向いた。


「叶ったどころか――一緒に歩いてくれる人まで、見つかった、かも」


 俺の心拍数が、また跳ね上がった。


「転入初日に、教室で外を見てる、変な男の子を見つけたの。みんなが新しい転入生のわたしを見てるのに、その子だけ、わたしを見てなかった。山を見てた」

 アリスは、くすりと笑った。

「気になった。生まれて初めて、こっちから人を追いかけたいって思った。だから部活に押しかけた。迷惑だったよね、ごめん」


「……迷惑、じゃ、ない」


 俺は、必死に言葉を探した。陰キャの語彙は貧弱だ。だが、今だけは、ちゃんと伝えなければいけない気がした。


「俺は、ずっと、一人がいいと思ってた。人と関わると、疲れるし、傷つくし、俺の名前を笑われるだけだから。山に逃げてた」

 息を吸う。

「でも、君が来てから、部室が、前より、楽しくなった。山が、前より、きれいに見えるようになった。……それは、たぶん、迷惑とは、逆のことなんだと思う」


 言い切って、俺は、自分の顔が、火を噴くように熱くなるのを感じた。

 陰キャの分際で、なんてことを口走ったんだ。


 だが、アリスは。

 太陽みたいな女は、夕暮れの中で、これまで見たどんな笑顔よりも、やわらかく、笑った。


「ねえ、信長。ひとつ、お願いしてもいい?」


「……なんだ」


「これからも、わたしと一緒に、山に登ってくれる? 二人で。ずっと」


 ずっと、という言葉が、夕暮れの空気に溶けた。

 それが、どこまでの「ずっと」を意味しているのか、陰キャの俺には、正確には測れなかった。

 でも――その問いへの答えだけは、はっきりと、心の真ん中にあった。


「……ああ」俺は、頷いた。「いいよ。ずっと」


 アリスは、ぱっと顔を輝かせて、隣で、ぴょんと小さく跳ねた。

 バスが、坂道の向こうから、ヘッドライトを灯してやってくるのが見えた。




九、佐田家の食卓


 その夜。


 久しぶりに、兄貴が帰省していた。陸戦隊の訓練の合間の、束の間の休暇だという。


 食卓で、俺は、思いきって家族に報告した。アウトドア活動部に、新しい部員が入ったこと。今日、その部員と山に登ったこと。

 名前は、白瀬アリスということ。


 祖父は、新聞から目を上げて、ふん、と鼻を鳴らした。

 父は、「女子か」と、わずかに眉を上げた。


 兄貴だけが、にやりと笑った。


「ほう。信長に、友達ができたか」


「と、友達じゃ……いや、友達、だけど」


 俺が口ごもると、兄貴は楽しそうに、俺の頭をぐしゃぐしゃとかき回した。


「で、その山で、何かあったな? お前、顔つきが変わってる」


 さすが、兄貴。鋭すぎる。

 俺は、観念して、密猟者らしき男たちのことと、不傷の柔で三人を無力化したことを、話した。


 話し終えると、食卓が、静まり返った。


 祖父が、ゆっくりと、新聞を畳んだ。

 父が、箸を置いた。

 二人の視線が、俺に注がれる。


 怒られる、と思った。無心流の技を、外で軽々しく使ったことを。あるいは、軟弱な技で人を傷つけずに済ませたことを、また「武人に向かん」と言われるのだと。


 だが、祖父が口にしたのは、まるで違う言葉だった。


「――一人も、傷つけずに、三人を制したか」


「は、はい」


 祖父は、長い間、黙っていた。それから、ぽつりと言った。


「無心流は、もともと、人を殺すための流派だ。だが、流派のことわりの根っこにあるのは、『無心』――心を乱さぬこと。乱れぬ心で、最小の動きで、事を収める」

 祖父は、皺だらけの手で、湯呑みを包んだ。

「信長。お前のそれは……あるいは、無心流が、本当に目指すべきだった形なのかもしれん」


 俺は、言葉を失った。

 あの祖父が。武人に向かん、と俺を切り捨てた祖父が。


 兄貴が、にやりと笑って、俺の肩を叩いた。


「言っただろ。お前のそれ、悪くないって。――いや、訂正だ。お前のそれは、最高だよ、信長」


 俺は、俯いた。

 目の奥が、少しだけ、熱かった。

 十五年間、出来損ないだと思っていた自分の選んだ道が、ようやく、家族に認められた瞬間だった。

 そして――その道を、最初にまっすぐ「強い」と言ってくれたのは、家族ではなく、あの太陽みたいな転入生だったのだ。




十、まだ、何も知らなかった頃


 その夜、自室で、俺はスマホを見つめていた。


 アリスから、連絡先を交換したばかりのメッセージが届いていた。

 明日の部活の予定。次の登山の候補地。それから――『今日は、ありがとう。すごく、楽しかった』の一文。


 俺は、何度も、返事を打っては消した。陰キャの返信は、いつだって難航する。

 結局、シンプルに『俺も』とだけ送った。送ってから、そっけなさすぎたかと悶絶した。


 だが、返信は、すぐに来た。


『ねえ、次は、日帰りじゃなくて、泊まりで行こう』

『二人で、テント張って、焚き火して、星を見るの』

『ソロキャンプじゃなくて、デュオキャンプ。だめ?』


 俺は、スマホを取り落としそうになった。

 泊まり。二人で。テント。

 いや、待て。落ち着け。アウトドアにおいて、テントは普通、複数人で使うものだ。やましいことは何もない。何もないはずだ。何も――。


 脳内で必死に言い訳を組み立てている間に、追い打ちのメッセージが届いた。


『あ、テントは、ちゃんと別々ね。変な想像してないよね?』

『してたら、おもしろいけど』


 最後の一文が、致命傷だった。

 俺は、布団に突っ伏して、声にならない声を上げた。この女は、いつだって、俺の心臓の急所だけを、的確に突いてくる。不傷の柔の使い手である俺が、ただの一度も、防げたためしがない。


 しばらく悶絶したのち、俺は、震える指で、返信を打った。


『……変な想像は、してない』

『デュオキャンプ、いいよ。山、選んでおく』


 送信。

 既読が、すぐについた。そして、ハートマークが一つ、ぽんと返ってきた。


 たったそれだけのことで、俺は、夜の天井を見上げたまま、しばらく動けなかった。


 窓の外には、月が出ていた。

 奥多摩の稜線で見た、あの青い空の、夜の姿。


 ――この頃の俺は、まだ、何も知らなかった。


 数年後、兄貴の身に、信じられない出来事が起きることを。

 ある日突然、あの規格外の男が、何の前触れもなく、煙のように消えてしまうことを。よりによって、戦場でも、任務先でもなく――休暇で帰省していた、この実家の、見慣れた道場から。朝、稽古をしていたはずの兄貴が、昼には、どこにもいなくなっていた。荒らされた様子も、争った跡もない。ただ、佐田和真という男だけが、世界から抜き取られたように消えた、その日が来ることを。


 生きているのか、死んでいるのかさえ、誰にもわからない。

 残された家族が、答えの出ない問いを抱えて生きていくことになることを。


 そして――兄貴のいなくなったこの世界で、出来損ないだったはずの俺が、アリスと共に、何を背負っていくことになるのかを。


 だが、それは、まだ、ずっと先の話だ。


 今はただ、月の光の下で。

 明日、部室で、また太陽みたいな女と、コーヒーを淹れる。山の話をする。次に登る山を、二人で決める。


 それだけのことが、たまらなく、待ち遠しかった。


 佐田信長、十五歳。

 陰キャの、アウトドア派。

 名前に天下を背負い損ねた、出来損ないの優男。


 ――その日常に、太陽が、転がり込んできた、春のことだった。



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