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 31. 凱旋 

 公国軍撤退の報から三日後。


 北門の前に、アスファの住民たちが集まっていた。


 通りという通りに人が溢れ、城壁の上にまで人影があった。子供たちが親の肩に担がれ、女たちが窓から身を乗り出していた。


 駐留軍が、帰ってくる。


 街道の向こうに、まず軍旗が見えた。アスファの紋章を染め抜いた旗が、朝の風に翻っている。


 続いて、騎兵。三百騎が整然とした隊列で街道を進んでくる。甲冑が朝日を弾き、馬の蹄が地面を叩くリズムが太鼓のように響いた。


 そして、歩兵。第一連隊、第二連隊。合わせて三千の兵が、長い列を成して街道を埋めていた。


 先頭に、一頭の大きな馬に騎乗した人物がいた。


 メレン・ファーデルス。副都アスファ総督。


 大柄な体躯が、甲冑の上からでも分かった。日に焼けた顔に、戦場の疲労が刻まれていたが、背筋は伸び、目には力があった。


 北門をくぐった瞬間、歓声が沸いた。


 住民たちが叫び、手を振り、花を投げた。兵士たちの名前を呼ぶ声があちこちから聞こえた。家族の帰還を待ちわびた妻や子供たちが、隊列に駆け寄ろうとして衛兵に押しとどめられていた。


 俺は総督府の正面階段の上に立ち、その光景を見ていた。


 隣にシュテファン王弟が立っていた。深紅の外套が風に揺れている。


 反対側にはダリオとグスタフ。そして、少し離れた場所に、エルティアがいた。


 エルティアの目は、騎馬の先頭にいる父親だけを見つめていた。薄い緑の瞳が、朝の光の中で潤んでいた。


 総督が馬を降り、階段を上がってきた。


 シュテファンが一歩前に出た。


「総督閣下。ご帰還、お喜び申し上げる」


「殿下。援軍のご派遣、感謝いたします。殿下自らお越しくださったとは、恐縮の至りです」


 総督は深く頭を下げた。だが、その視線は一瞬だけ、階段の脇に立つ娘に向けられた。


 エルティアが駆け寄った。


「父上!」


 総督はエルティアの肩に大きな手を置いた。言葉はなかった。だが、その手が微かに震えていたのを、俺は見た。


 娘を残して戦場に赴いた父親。無事に帰ってきた。ただそれだけのことが、これほどの重みを持つのだ。


「カズマ」


 総督が俺に向き直った。


「留守を守ってくれたな」


「お帰りなさい、閣下」


 総督は俺の右肩に目を留めた。傷はすでに塞がっていたが、上着の下に包帯が巻かれているのは見えたのだろう。


「怪我をしたのか」


「かすり傷です。大したことはありません」


 総督は何かを言いかけたが、飲み込んだ。今は公の場だ。詳しい報告は後でいい。


「殿下、閣下。会談の場を設けております。お支度が整いましたら、お声がけください」


 グスタフが進言した。総督は頷き、まずは甲冑を脱いで身なりを整えるため、総督府の中に入っていった。


 エルティアは父親の後ろ姿を見送り、そして俺のほうを振り返った。


 何も言わなかった。ただ、深く、深く頭を下げた。


 言葉はなくとも、その意味は伝わった。




     * * *




 会談は、総督の執務室で行われた。


 シュテファン王弟、総督メレン・ファーデルス、そして俺。三人だけの会談だった。


 ダリオとグスタフは扉の外で控えている。


 総督は旅装から正装に着替えていた。甲冑の下で痩せたのか、以前より顔が引き締まっていた。


「まず、カズマからの報告書は戦場で受け取った。百人の分散潜入部隊の件、ダミーの作戦への切り替え、すべて読んだ。あの状況で最善の判断をしてくれた」


「ありがとうございます」


「殿下からも概要は伺っている。だが、改めて聞きたいことがいくつかある」


 総督はシュテファンに目を向けた。シュテファンが軽く頷いた。


「閣下、まず私から一点。王都の外交官コンラート・メッサーの件は、すでに手配を済ませました。王都に戻り次第、身柄を確保します。閣下にはご心配をおかけしましたが、この件は王家が責任を持って処理します」


「恐れ入ります、殿下」


 総督の表情に、わずかな安堵が浮かんだ。核の情報が王都の人間から漏れていたという事実は、総督にとっても重荷だっただろう。自分の管轄外で起きた漏洩だが、結果としてアスファが脅かされたのだから。


「次に、宰相アレクセイの件。殿下はどうお考えですか」


「厄介な相手だ。理力は弱くても、頭脳で国を動かせる人間だ。今回の作戦の失敗から学び、次の手を打ってくるだろう。長期的な脅威として、注視し続ける必要がある」


「公国への正式な抗議は」


「行う。捕虜のヴェルナーと、確保した間諜たちが物証だ。公国に対して、間諜活動と潜入部隊の派遣について、正式に抗議し、宰相の関与を追及する。ただし、核の存在そのものには触れない。核のことを公にすれば、他国にも情報が広まる」


 外交と機密の両立。シュテファンの判断は的確だった。


「カズマ」


 総督が俺に向き直った。


「タケダ殿が南門の外で指揮官を捕えたと聞いた。あの方が自ら動いたのか」


「はい。武田さんの独自の判断でした。指揮官が南門から逃走することを予測し、城外で待ち構えていました」


「……あの方らしいな。三百年の慧眼というべきか」


 総督は窓の外を見た。南の方角。フェルゲンの森がある方角だ。


「タケダ殿には、改めて礼を申し上げねばならん」


「武田さんは礼は要らんと言っていました。この街を守りたかっただけだと」


「それでも、だ。百年以上かけて築いた防御の仕組みが脅かされた。あの方にとっても、今回の件は他人事ではなかったはずだ」


 会談は一刻ほどで終わった。


 シュテファンは最後に、俺に声をかけた。


「カズマ、王都の件は考えてくれているか」


「はい。ですが、もう少し時間をいただきたい」


「構わん。急がん」


 シュテファンは立ち上がり、執務室を出ていった。


 総督と俺が残された。


「殿下から聞いた。王都に来ないかと誘われたそうだな」


「はい」


「行くのか」


「まだ決めていません」


 総督は机に両手をつき、俺を見た。


「私としては、お前にはここに残ってほしい。この街にはまだお前が必要だ。だが、それはお前の人生だ。お前が元の世界に帰る方法を探すのであれば、王都のほうが情報も資源も多いだろう」


「閣下」


「何だ」


「閣下がそう言ってくださるのは、ありがたいことです。少し考える時間をください」


 総督は頷いた。そして、珍しく笑みを浮かべた。


「お前が来てから、まだ三ヶ月も経っていない。だが、この三ヶ月でお前がこの街に与えたものは、三十年分に値する。少なくとも、私はそう思っている」


 重い言葉だった。俺は黙って頭を下げた。




     * * *




 王都からの援軍が帰還の途についたのは、総督の凱旋から五日後だった。


 シュテファン王弟が本体五千を率い、ヘルムートの騎兵五百がその先頭を行く。


 北門の前で、俺はシュテファンを見送った。


「カズマ、世話になった。短い間だったが、お前の能力はよく分かった。王都で待っている」


「殿下も、お気をつけて」


 ヘルムートも馬上から敬礼した。


「次に会うときは、もっと穏やかな状況であることを祈るよ」


「同感だ」


 五千五百の軍勢が、北門から街道へと出ていった。甲冑の列が朝日に照らされ、銀色の帯のように街道を北西へ伸びていく。王都への帰路だ。


 軍勢が視界から消えるまで見送った後、俺は振り返った。


 アスファの街は、ようやく本来の姿を取り戻しつつあった。


 駐留軍三千が帰還し、衛兵隊二百が通常の配置に戻った。城壁の見張り塔には見慣れた衛兵の姿が立ち、東門の守備も元の人数に戻った。


 間諜は一掃された。潜入部隊は壊滅した。公国軍は撤退した。


 理力の核は、武田嗣久の結界に守られて無事だ。


 すべてが、元に戻った。いや、元よりも強くなった。東壁の補修は進み、見張り塔の間隔は詰められ、巡回偵察の制度も確立された。




     * * *




 王都軍を見送った日の夕方、俺は総督府の南西にある小高い丘に登った。


 エルティアが最初に案内してくれた、あの丘だ。


 石のベンチに座ると、アスファの街全体が見渡せた。赤い屋根と灰色の石壁。中央にそびえる総督府の白い塔。西を流れるゲルド川が、夕日を受けて金色に光っていた。


「やっぱり、ここにいらっしゃいましたね」


 背後から声がした。


 エルティアだった。


 淡い青色の上着に白い下衣。栗色の髪を後ろで束ね、薄い緑の瞳が夕暮れの光を映していた。


 侍女のヘルダは少し離れた場所に立ち、護衛のサミンがさらに離れた位置にいた。


「ここが好きでな」


「私もです。お隣、よろしいですか」


「ああ」


 エルティアがベンチに腰を下ろした。


 しばらく、二人で黙って街を眺めていた。


 市場が閉まり、職人が工房から出てきて家路を急いでいる。子供たちが最後の遊びに走り回り、母親が呼ぶ声が聞こえる。


 日常だった。あたりまえの、何でもない日常。


「カズマさん」


「ん?」


「ありがとうございました」


 エルティアの声は静かだった。


「何のお礼だ」


「この街を守ってくださったことです。父が出て行った後、この街はカズマさんが守ってくれました。私は何もできませんでした。ただ、総督府の中で待っているだけで」


「何もしなかったわけじゃない。お前がこの街にいること自体が、住民にとっては支えだったはずだ。総督の娘が落ち着いていれば、街も落ち着く」


「そうでしょうか」


「そうだ」


 エルティアは少し笑った。だが、すぐに真剣な顔に戻った。


「父から聞きました。王弟殿下が、カズマさんを王都に招いていると」


「ああ」


「行かれるのですか」


 その声に、わずかな震えがあった。


「まだ決めていない」


「そうですか」


 エルティアは膝の上で手を組んだ。


「決められたなら、教えてください。私からお願いできることではないと分かっています。でも、知りたいです」


「分かった。決めたら、真っ先にお前に伝える」


「約束ですよ」


「ああ。約束だ」


 エルティアは微笑んだ。今度は自然な笑みだった。


「ところで、カズマさん。街の案内の続きなのですが」


「まだ言うのか」


「もちろんです。学院分校も、南区画の工房街も、まだ見せていない場所がたくさんあります。それに、ゲルド川の向こう岸にも面白い場所があるんです」


「お前は本当にこの街が好きなんだな」


「はい。大好きです。だから、カズマさんにも好きになってほしいんです。もっともっと」


 エルティアの目が、夕暮れの中で輝いていた。


 俺はその目を見て、ふと思った。


 元の世界に帰りたい。その気持ちは変わらない。


 だが、この世界にも、守りたいものがある。この街と、この街に暮らす人々と、この少女の笑顔。


 帰る方法を探す旅は、まだ始まったばかりだ。


 だが、今はこの夕暮れの中で、もう少しだけ、この景色を眺めていたかった。


 赤い屋根が夕日に染まり、ゲルド川が金色に光り、空が橙色から紫に変わっていく。


 美しい街だった。


 守り抜いた街だった。


 そして、これからも守り続ける街だ。少なくとも、俺がここにいる限りは。

第一部というか、物語は一区切りします。

明日からは、番外編というか、主人公が異世界に落ちる前の話を別の主人公を通して描きます。

よろしくお願いします。

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