3. 蒼の理力
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石が光ってから、理力の訓練は急速に進んだ――と言いたいところだが、現実はそう甘くなかった。
石を光らせることはできるようになった。だが、それは理力を外に放出できるようになったというだけのことで、「使いこなす」には程遠い状態だった。
ナターシャは理力の基礎訓練を三つの段階に分けていた。
第一段階、「感知」。体内の理力を認識し、その流れを意識的に把握すること。これは既にできている。
第二段階、「放出」。理力を体外に放出し、対象に作用させること。石を光らせたことで、この段階に足を踏み入れた。
第三段階、「制御」。放出する理力の量、方向、持続時間を自在に操ること。
問題はこの第三段階だった。
学院に来て一ヶ月が過ぎた頃の訓練で、俺はそれを痛感させられた。
ナターシャは机の上に五つの石を並べた。すべて同じ大きさの白い石だ。
彼女はゼーラ語で指示を出した。この頃には、ナターシャの言うことの七割は聞き取れるようになっていた。
「左から順に、ひとつずつ光らせてください。ひとつが光ったら消し、次を光らせる」
俺は左端の石に掌をかざし、理力を流した。
石が光った。蒼い光。
だが、同時に隣の石も光った。さらにその隣も。五つすべてが一斉に蒼く輝いた。
俺は慌てて理力を引いた。五つの光が同時に消える。
ナターシャは苦笑した。
「あなたの理力は量が多すぎます。水道の蛇口が壊れているようなものです。全開か、閉めるか、しかできていない」
この比喩は的確だった。
俺の理力は、流せば奔流のように溢れ出し、止めれば完全に途絶える。その中間がなかった。
剣術に例えるなら、全力の斬撃はできるが、力加減を変えた切り分けができない状態だ。
これでは使い物にならない。
ナターシャはそこから、毎日同じ訓練を俺に課した。
五つの石を、一つだけ光らせる。
来る日も来る日も、同じことの繰り返しだった。
一週間経っても、俺は五つのうち一つだけを光らせることができなかった。二つまでは絞れるようになったが、一つには至らない。
焦りがあった。言語の習得は順調だった。ジリとの剣術訓練も日々手応えがあった。理力だけが停滞している。
俺は自分が何かを根本的に間違えているのではないかと考え始めた。
転機は、意外なところから訪れた。
ある朝の走り込みの最中のことだった。
ガンデムと並んで学院の外周を走っていたとき、白い木々の間を一羽の鳥が飛んでいくのが見えた。この世界の鳥は地球の鳥と大きくは変わらないが、羽根の色が鮮やかで、この鳥は深い蒼色をしていた。
その鳥が枝に止まった瞬間、俺は奇妙な感覚を覚えた。
鳥の体内に、微かな理力の流れを感じたのだ。
走るのをやめ、立ち止まって鳥を見つめた。
感じる。確かに感じる。鳥の小さな身体の中を、糸のように細い理力が流れている。
鳥だけではない。意識を広げると、周囲の木々にも、足元の草にも、微かだが理力の流れがあった。
ビンデンが言っていた「この世界に遍在する力」とは、こういうことだったのか。
俺はこれまで、理力を自分の内側だけのものとして扱っていた。だが、理力は自分の外にもある。自分の身体は、その大きな流れの一部に過ぎない。
そう理解した瞬間、なぜ制御ができなかったのかが分かった気がした。
俺は自分の中の理力を「押し出して」いた。力を込めて、無理やり外に放出していた。
だが、本来やるべきは「導く」ことだったのだ。体内の流れと体外の流れを繋ぎ、必要な分だけを通す。
祖父の言葉が再び蘇った。「力は通すものだ」と。あのときは石を光らせるために使った言葉だったが、本質はもっと深いところにあった。
その日の夕方の訓練で、俺は五つの石に向かった。
掌をかざす前に、まず呼吸を整えた。
目を閉じ、自分の体内の理力を感じる。丹田から全身に巡る流れ。
次に、外の理力を感じる。部屋の空気の中にある、希薄だが確かに存在する理力の流れ。
自分の内と外が、同じ川の上流と下流のようなものだと意識する。
掌をかざした。
押し出すのではない。道を開くだけだ。
左端の石に向かって、細い水路を一本だけ開く感覚。
石が光った。蒼い光。
他の四つは光らなかった。
ナターシャが声を上げた。俺は集中を切らさず、理力の流れを維持した。
五秒、十秒、十五秒。
静かに道を閉じた。光が消える。
ナターシャは立ち上がり、拍手した。銀髪を揺らしながら、満面の笑みを浮かべていた。
「やっと分かりましたね。理力は、あなたのものではない。この世界のものです。あなたはただ、それを借りて通しているだけ」
その言葉を、俺は今度こそ深く理解できた。
* * *
制御の感覚を掴んでからの上達は、自分でも驚くほど速かった。
一週間後には五つの石を任意の順番で個別に光らせ、消すことができるようになった。
さらに一週間後には、石だけでなく、理力を掌から離れた場所に飛ばすことができるようになった。ナターシャはこれを「射出」と呼んだ。
射出の訓練は中庭で行われた。
掌から蒼い光の塊を生み出し、それを前方に飛ばす。最初は三メートルが限界だったが、日を追うごとに距離が伸びた。
ナターシャは射出だけでなく、理力を身体の表面に薄く纏わせる「纏甲」という技術も教えてくれた。これは防御の技術で、身体の表面に理力の膜を張ることで、打撃や斬撃の衝撃を軽減するものだった。
纏甲は射出より難しかった。理力を外に飛ばすのではなく、体表面にとどめ続けなければならない。放出と抑制の均衡点を維持する必要があり、集中力の持続が求められた。
だが、これも無心流の修練が下地になった。
無心流には「鋼気」という概念がある。身体に気を巡らせ、打撃への耐性を高める技法だ。科学的な裏付けがあるかは疑問だが、少なくとも意識の使い方は纏甲と酷似していた。
二ヶ月目の終わりには、纏甲を維持したまま剣術の訓練ができるようになっていた。
ジリとの打ち合いで初めて纏甲を使ったとき、ジリの木剣が俺の腕に当たった衝撃が明らかに軽減されていた。ジリは怪訝な顔をし、もう一度同じ箇所を打った。やはり手応えが違ったのだろう、ジリは目を細めて何かを呟いた。
「なるほど、理力をそう使うか」
ジリのその言葉が、ゼーラ語で明確に聞き取れた。
* * *
言語の習得も、二ヶ月目を境に加速した。
きっかけは、学院の生徒たちとの会話だった。
それまで俺は、ルッツ老師との授業以外ではほとんどゼーラ語を使う機会がなかった。ビンデンとは日本語で話し、ナターシャとの訓練もビンデンの通訳を介していた。ジリやガンデムとは身振り手振りが主だった。
だが、剣術の訓練で俺の実力を見た生徒たちが、少しずつ俺に話しかけてくるようになった。
最初に声をかけてきたのは、初日にジリとの打ち合いの前に俺と対峙した中肉中背の若者だった。名をトーマ・リンデルといった。
「カズマ、お前の剣、教えてくれないか」
拙いながらも聞き取れたその言葉に、俺は同じくらい拙いゼーラ語で答えた。
「いいが、俺の言葉はまだ下手だ」
「構わない。剣に言葉はいらない」
トーマの言うことは正しかった。剣の技術は言葉より身体で伝わる。
こうして、訓練の合間にトーマやほかの生徒たちと木剣を交えるようになった。
剣を交えた後には、自然と会話が生まれた。
彼らは俺の出自に興味を持ち、俺は彼らの日常や家族、この世界のことを知りたがった。
生きた会話は、教室での学習とは比較にならないほど効果的だった。
文法の間違いはその場で訂正され、教科書には載っていない口語表現や慣用句を次々と覚えた。
軍での語学研修でも同じだった。教室で基礎を固めた後、現地での実践が最も効果的な学習法だった。
ルッツ老師もそれを歓迎した。
「言葉は人と人の間で生きるものだ。教室の中だけでは、言葉は骨だけで肉がない」
老師はそう言って、次の日から授業の半分を俺と老師の「対話」に変えた。時事的な話題や、この世界の歴史上の出来事について、ゼーラ語で議論する。分からない単語があれば、その都度教えてくれる。
三ヶ月目に入る頃には、ビンデンとの会話もゼーラ語に切り替えた。
「もう通訳はいらないかもしれませんね」
ビンデンは日本語でそう言った後、ゼーラ語に切り替えた。
「これからは、こちらの言葉で話しましょう。日本語を使えるのは嬉しかったですが、あなたがこの世界で生きていくには、ゼーラ語で考えられるようにならなければなりません」
その言葉を、俺はゼーラ語でほぼ完全に理解できた。
「ゼーラ語で考える」。それはまだ出来ていなかった。日本語で考えて、ゼーラ語に変換している段階だ。だが、ときおり、ゼーラ語の言葉がそのまま意味として頭に浮かぶ瞬間が増えていた。
* * *
三ヶ月目、ナターシャは新しい訓練を持ち出した。
理力を剣に纏わせる技術だった。
「あなたは剣士です。理力を剣と合わせなければ意味がない」
ナターシャは今はもう通訳なしで、ゼーラ語で直接指導していた。俺の理解が追いつかないときだけ、ゆっくりと言い直してくれた。
訓練用の木剣を握り、理力を流す。
纏甲と原理は同じだが、対象が自分の身体ではなく手に持った物体になる。
最初は上手くいかなかった。理力が剣に流れず、自分の腕ばかりに集中してしまう。
ナターシャは別の方法を提案した。
「剣を自分の腕の延長だと思ってください。身体の一部として扱えば、理力は自然に流れます」
剣を身体の一部として扱う。
それは無心流で幼い頃から言い聞かされてきたことと同じだった。
刀は腕の延長。鞘は身体の一部。剣と身体の境界をなくすこと。それが無心流の根幹にある思想だ。
俺は実家の刀を手に取った。訓練用の木剣ではなく、あの江戸時代初期の大業物を。
鞘から抜き、正眼に構える。
馴染んだ重さ。手に吸い付くような柄の感触。この刀は俺の身体の一部だ。十五年以上、共に在った。
呼吸を整え、理力を流した。
腕を通じて、刀身へ。
刃が蒼く光った。
刃文に沿うように、蒼い光が鋼の表面を走った。それは美しかった。日本刀の刃文と蒼い理力の光が重なり合い、幻想的な輝きを放っていた。
ナターシャが言葉を失っていた。
「――その剣は、理力を通しやすい素材でできているのですか?」
「わからない。ただの鋼のはずだが」
「ただの鋼であれほど美しく理力が乗ることは、普通ありません。あなたとその剣の間に、よほど深い繋がりがあるのでしょう」
俺にも分からなかった。だが、刀に理力を流したとき、違和感がまったくなかった。まるで最初から、この刀がそうあるべきだったかのように。
四ヶ月目には、理力を纏わせた刀でジリと打ち合いをした。
もちろん、実剣ではなく木剣に理力を纏わせてのことだ。
ジリも理力の使い手だった。この世界の人間としては相当な力量だと、ナターシャが言っていた。
理力を纏った木剣同士がぶつかると、衝突点に小さな火花のような光が散った。
理力を纏わせた斬撃は、通常の斬撃とは威力が段違いだった。木剣の一撃で石壁にひびを入れることもできる。
だが、理力を使えば使うほど体力を消耗する。
持続時間の管理が重要だった。全力で理力を纏わせれば十分と持たずに疲弊する。実戦では、必要なときにだけ理力を乗せ、それ以外は通常の剣技で戦うという切り替えが求められる。
この切り替えの訓練に、さらに一ヶ月を費やした。
* * *
学院に来て五ヶ月が経った。
ルッツ老師が、これまでにない真剣な表情で俺に語りかけた。
「カズマ、お前にひとつ聞きたい。ゼーラ語で夢を見るか?」
「最近は、見ます」
嘘ではなかった。いつからか、夢の中の会話がゼーラ語になっていた。日本語の夢も見るが、頻度は減った。
「そうか」
老師は目を細めて、満足そうに頷いた。
「夢の中で使える言葉は、身体に染み込んだ言葉だ。お前はもう、ゼーラ語を『知っている』のではなく、ゼーラ語で『生きている』のだ」
老師は棚から一冊の書物を取り出し、俺に渡した。
「これは大陸南部の歴史書で、学院の上級生が読む書物だ。読んでみろ」
俺はその場で最初の数頁を読んだ。
知らない単語はいくつかあったが、前後の文脈から推測できた。内容は三百年前の大陸統一戦争についての記述で、歴史の授業で学んだ内容と符合していた。
「問題なく読めます」
「だろうな。お前は私が教えた中で、最も速くゼーラ語を習得した人間だ。他国からの留学生も、落ち人も含めてだ」
老師の言葉に誇張はないと思えた。だが、それは俺の能力というより、地球で身につけた語学の方法論と、生徒たちとの生きた会話の賜物だ。
「ただし」と、老師は付け加えた。「お前のゼーラ語には少しだけ癖がある。トーマたち生徒の話し方を真似ているせいで、若者言葉が混じっている。それと、時折ジリの訛りも出る。公的な場では気をつけろ」
思わず苦笑した。
それは地球でも同じだった。中東任務の際に現地の若者と交わりすぎて、報告書にスラングを書いてしまい、上官に叱責されたことがある。
同じ頃、ナターシャが俺の理力の評価を行った。
評価の方法は単純だった。計測用の大きな水晶のような石に理力を流し込み、その光の強さと色で力量を測定する。
俺が両手を水晶に当て、理力を流すと、水晶は深い蒼色に染まった。
ナターシャは水晶の光を長い間見つめていた。
「制御力は十分です。理力の総量も、私が知る落ち人の中では三番目に多い。蒼色の理力というのは、やはり特異です。文献にもほとんど記録がありません」
「それは良いことなのか、悪いことなのか」
「分かりません。ただ、この世界で蒼い理力を持つ人間は、過去に数えるほどしか記録されていません。その全員が、大きなことを成し遂げた人物だったとは書かれていますが」
大きなこと。随分と曖昧な表現だ。良いことも悪いことも含まれていそうな言い方だった。
「基礎訓練は、ここで終わりにしましょう。これ以上は、実践の中で磨くしかありません」
ナターシャはそう締めくくった。
その日の夜、ビンデン校長に呼び出された。
校長室に入ると、ビンデンは重厚な机の向こう側で書類に目を通していた。部屋の隅にはジリとナターシャの姿もあった。
ビンデンはゼーラ語で話し始めた。
「カズマ、あなたはこの五ヶ月で、私たちの予想を大きく超える速度で成長しました。ルッツ先生は、あなたの語学力は学院の上級生と同等かそれ以上だと評価しています。ジリは、あなたの剣技はこの国の近衛兵にも引けを取らないと。ナターシャは、あなたの理力の基礎は完成したと」
三人の教官が俺を見ていた。それぞれの表情に、異なる感情が浮かんでいた。ジリは武人らしい硬い面持ちで、ナターシャは穏やかだが真剣な目をしていた。
「そこで、約束通り、あなたをアスファに連れて行くことにしました。最初の落ち人――タケダ・ツグヒサに会わせます」
武田嗣久。三百年前にこの世界に落ちてきた日本人。
ようやく、その人物に会える。
「出発は十日後です。準備をしてください」
ビンデンはそこで、ほんの少し微笑んだ。
「それと、カズマ。ひとつ言い忘れていましたが、あなたのゼーラ語、時々トーマの口癖が混じっていますよ」
ルッツ老師と同じ指摘だった。
俺は肩をすくめた。言葉は人から学ぶものだ。癖がうつるのは仕方ない。
それより、十日後。
ようやく、この世界の先輩に会える。
三百年をこの世界で生きた日本人。その人物が、何を知り、何を見てきたのか。
そして――帰る方法を、知っているのか。
俺は部屋に戻り、刀を手に取った。蒼い理力が、無意識のうちに刃を薄く包んでいた。
五ヶ月前には想像もしなかった光景だ。
だが、不思議と違和感はなかった。この刀と理力が、まるで最初から共にあったかのように。
窓の外では、白い葉が月明かりに照らされて、銀色に揺れていた。




