2. 学舎の日々
ビンデン校長との面会から三日が経った。
俺はこの学校――正式名称は「ガルディナ学院」というらしい――の一室をあてがわれ、そこで寝起きすることになった。
部屋は質素だが清潔で、木製の寝台と小さな机、それに衣服を収める棚がひとつ。窓からは白い葉をつけた木々の梢が見え、その向こうに大河の水面がときおり陽光を弾いて光っていた。
寝台の寝心地は悪くない。藁を詰めた厚い敷布団のようなものが敷かれており、地球の高級ホテルには及ばないが、中東の任務中に寝泊まりした場所に比べれば天国のようなものだった。
最初の三日間は、ほとんど何もしなかった。
正確に言えば、何もさせてもらえなかった。
ビンデン校長の指示により、まずは「身体を休め、この場所に慣れなさい」とのことだった。
食事は一日三回、あの小柄な男――ガンデム・ビアンが部屋まで運んできてくれた。
パンに似た穀物の焼き物、干し肉、それに根菜を煮込んだスープのようなもの。味付けは薄いが、素材そのものの味がしっかりしており、不味くはなかった。むしろ、素朴で好ましい味だった。
ガンデムは毎回、食事を届けるたびに何か話しかけてきた。もちろん、俺には一言も理解できない。だが、その表情や身振りから察するに、敵意はまったくなかった。むしろ、好奇心に満ちた目をしていた。
俺は食事のたびに、ガンデムが指さすものの名前を覚えるようにした。
パンのようなもの――「グラン」。
スープ――「ティーマ」。
水――「アウ」。
ガンデムは俺が言葉を覚えようとしていることに気づくと、嬉しそうに何度も繰り返して発音してくれた。
四日目の朝、ビンデン校長が直接部屋を訪ねてきた。
「きょうから、あなたの訓練がはじまります」
相変わらず流暢とは言いがたい日本語だったが、その言葉には有無を言わさぬ響きがあった。
「訓練、ですか」
「はい。この学院では、すべての生徒がまなびます。落ち人も、おなじです。いえ、落ち人はもっと多くのことをまなばなければなりません」
ビンデンの説明によると、俺に課される訓練は大きく分けて四つあるという。
第一に、言語。この国の公用語である「ゼーラ語」の習得。
第二に、常識。この世界の地理、歴史、政治体制、社会構造などの基礎知識。
第三に、身体訓練。この世界における戦闘技術と、落ち人特有の身体能力の把握。
第四に、「理力」。
最後のひとつだけ、俺は首を傾げた。
「理力?」
「この世界には、あなたがいた世界にはないチカラがあります。それを理力といいます。落ち人のほとんどが、この理力をつかえます」
魔法、とでもいうのだろうか。巷の少年小説で飽きるほど読んだ設定だ。いや、読んだことはないが、部下の若い連中がそういう小説の話をしているのは耳にしていた。
「くわしくは、あとで」
ビンデンはそう言って、俺を部屋から連れ出した。
* * *
最初の訓練は言語だった。
教室に通されると、そこにはすでに一人の老人が待っていた。
老人、と言ったが、この世界では見た目で年齢を判断するのは難しいと後に知ることになる。
その老人――ルッツ・ミレイアと名乗った――は、この学院で言語学を教える教官だった。
白髪を後ろで束ね、深い皺が刻まれた顔に、鋭いが温かみのある目をしていた。この人物は落ち人ではなく、この世界の人間らしい。
ルッツ老師はビンデンからの引き継ぎを受けたようで、俺が日本語しか――正確には日本語を含む六カ国語を話せるが、ゼーラ語はまったく話せないことを把握していた。
授業は徹底的な直接教授法だった。
つまり、ゼーラ語をゼーラ語で教える。
実物を見せ、指さし、発音する。俺がそれを繰り返す。
最初の数日は、名詞の暗記が中心だった。
「ダーク」は机。「リーゲン」は椅子。「フェンスト」は窓。「シュレーフ」は扉。
どことなくゲルマン系の響きを持つ語彙もあれば、まったく系統不明の単語もあった。
俺は語学の訓練を受けた経験があった。501特戦隊(第501特別陸戦隊の略称)に配属される前、情報部門での語学研修を受けている。その経験が大いに役立った。
ルッツ老師は俺の記憶力と発音の正確さに驚いたようだった。初日に五十語、二日目に八十語、三日目には百語以上の名詞を俺は覚えた。
だが、問題は文法だった。
ゼーラ語の文法構造は、俺が知るどの言語とも異なっていた。
語順は基本的にSOV(主語・目的語・動詞)で日本語に近いが、動詞の活用が極めて複雑だった。時制が七つあり、さらに話者と聞き手の社会的関係によって動詞の語尾が変化する。敬語のような体系だが、日本語の敬語とは根本的に異なるものだった。
一週間が過ぎた頃には、簡単な文章――「私は水が欲しい」「これは何ですか」程度の表現ができるようになっていた。ルッツ老師は満足そうに頷いたが、「まだまだだ」という表情も隠さなかった。
ちなみに、ゼーラ語の文字体系も学んだ。
文字は全部で四十二文字。表音文字で、一文字が一音節に対応する。日本語のひらがなに近い体系だが、文字の形は幾何学的で、直線と円弧の組み合わせでできていた。
書く練習も毎日行った。紙ではなく、薄い木の板に炭のような筆記具で書く。紙は貴重品らしく、学生には与えられないとのことだった。
* * *
言語の授業が午前中いっぱいを占め、午後は身体訓練に充てられた。
身体訓練の教官は、あの中年上司――ジリ・ダンストだった。
ジリは学院の武術教官であり、この地域でも屈指の剣士だとビンデンから聞かされていた。
初日、訓練場に出ると、二十人ほどの若者たちが整列していた。学院の生徒たちだ。みな十五歳から二十歳前後に見えた。
彼らの視線が俺に集中した。好奇、警戒、そして若干の敵意。異邦人に向けられる視線としては、万国共通のものだった。いや、万世界共通とでも言うべきか。
ジリが何か号令をかけると、生徒たちは二列に並び、準備運動を始めた。
俺にもそれに加わるよう、身振りで指示された。
準備運動の内容は、関節の可動域を広げるストレッチに近いもので、合理的な動きだった。少なくとも、でたらめではない。体系化された訓練法がこの世界にも存在することが分かった。
準備運動が終わると、ジリは木製の訓練用直剣を俺に手渡した。
重さは、日本刀の木刀とほぼ同じか、やや重い。刃渡りに相当する部分は七十センチほどで、柄を含めた全長は九十センチ前後。片手でも両手でも扱える設計のようだ。
ジリは生徒の一人を手招きした。中肉中背の、真面目そうな顔をした若者だった。
その若者が訓練用直剣を構え、俺の前に立った。
打ち合いをしろ、ということだろう。
若者は直剣を正眼に構えた。いや、正眼とは少し違う。剣先をやや下げ、左足を前にした構えだった。この世界の剣術の基本形なのだろう。
俺は木刀と同じ感覚で、右足を前に出し、切っ先を相手の喉元に向けた。中段の構え。
ジリが合図を出した。
若者が踏み込んできた。右からの横薙ぎ。速くはないが、力強い一撃だった。
俺はそれを半歩退いてかわし、返す刃で若者の右手首を軽く打った。
訓練用の木剣とはいえ、手首への打撃は痛い。若者は短い声を上げ、剣を取り落としかけたが、歯を食いしばって握り直した。根性はある。
だが、二合目も三合目も結果は同じだった。若者の剣は俺には当たらず、俺の剣は若者の身体を的確に捉えた。
ジリが手を上げて止めた。若者は肩で息をしていたが、悔しそうな、しかしどこか納得したような表情を浮かべていた。
次にジリは別の生徒を指名した。今度は大柄な若者で、先ほどの生徒より明らかに力がある。
結果は同じだった。三合で終わった。
さらにもう一人。今度は小柄だが敏捷な動きをする若者だった。この若者はなかなかよく動いたが、それでも五合で決着がついた。
ジリは腕を組み、しばらく俺を見つめていた。
そして、自ら木剣を手に取った。
来るのか。
ジリの構えは、先ほどの若者たちと同じ型だったが、隙がまるで違った。構えた瞬間に分かった。この男は本物だ。数十年の実戦経験が、その構えの端々から滲み出ていた。
ジリが踏み込んだ。
速い。若者たちとは明らかに格が違う。しかも、初太刀を囮にして二の太刀を本命にする複合的な攻撃だった。
俺は初太刀を受け流し、二の太刀を半身でかわして、ジリの胴を打った。
だが、ジリはそれを読んでいたかのように身体を捻り、俺の打撃はかすっただけに終わった。
互いに間合いを取り直す。
ジリの目が変わった。品定めの目から、真剣に戦う者の目に。
そこから先の数合は、見ている生徒たちを沈黙させるのに十分だった。
木剣が交差するたびに乾いた音が訓練場に響き渡り、二人の足が土埃を巻き上げた。
結果から言えば、俺の勝ちだった。だが、楽な戦いではなかった。
ジリの剣は俺が知る日本の剣術とはまったく異なる体系に基づいていたが、その完成度は高かった。特に、左手での突きと右手での斬撃を組み合わせる独特の連携技は、初見では対応が難しかった。
最後の一合、俺はあえてジリの突きを受け、その勢いを利用して間合いを詰め、柄頭でジリの腹を打った。実戦なら、ここで刀を返して斬り上げるところだ。
ジリは一瞬動きを止め、そして静かに木剣を下ろした。
顔には苦笑とも感嘆ともつかない表情が浮かんでいた。
ジリは俺の肩を叩き、何か言った。言葉は分からなかったが、認めた、という意味だろうことは分かった。
その日の夜、ビンデン校長が俺の部屋を訪ねてきた。
「ジリがおどろいていました。あなたはとてもつよい、と」
「彼も強かった。本気でやれば、もっと手こずっていたかもしれない」
謙遜ではなく、本心だった。ジリの剣技は体系的で合理的だった。俺が勝てたのは、無心流という高度に洗練された剣術を幼少期から叩き込まれていたことと、実戦経験の質の差だろう。
「あした、理力の訓練をはじめます」
ビンデンの言葉に、俺は身構えた。
* * *
翌日、俺は学院の中庭に面した別棟に連れて行かれた。
そこは他の教室とは雰囲気が異なっていた。壁には複雑な紋様が刻まれ、床には同心円状の模様が描かれていた。
部屋の中央に座っていたのは、予想に反して若い女性だった。
歳は見た目で二十代半ば。短く切りそろえた銀色の髪と、淡い琥珀色の瞳が印象的な女性だった。
「この方は、ナターシャ・ヴィーゲン。理力のせんせいです」
ビンデンが紹介すると、ナターシャは軽く会釈した。
「ナターシャは落ち人です。あなたより、ずっとまえに、この世界にきました」
落ち人。つまり、彼女も別の世界から来た人間ということだ。
「ナターシャ、あなたはどこから?」
日本語が通じることを期待して聞いてみたが、ナターシャは首を傾げるだけだった。日本語は話せないようだ。
「ナターシャは、ニホンゴはなせません。でも、ゼーラ語はとてもうまいです。あなたがゼーラ語をおぼえれば、たくさんはなせます」
ビンデンはそう言って、通訳として同席することを告げた。
理力の訓練は、まず「感知」から始まった。
ナターシャは俺の前に座り、両手を差し出した。俺の手を握れ、という意味だろう。
俺は彼女の手を握った。
その瞬間、身体の中に微かな振動のようなものを感じた。
心臓の鼓動でもなく、血流の脈動でもない。もっと深いところ、骨や筋肉の奥にある何かが共鳴するような感覚。
ナターシャが目を見開いた。
彼女はビンデンに向かって早口で何かを言った。ゼーラ語だが、俺にはまだ聞き取れない速度だった。
「ナターシャが言っています。あなたの理力は、とても大きい、と。落ち人のなかでも、めずらしいぐらいだ、と」
ビンデンの翻訳を聞きながら、俺は自分の身体の中で感じている振動に意識を集中させた。
振動は次第に明確になっていった。それは体内を循環するように流れており、丹田――へその少し下あたりに最も密度が高い部分があった。
武術の修練で培った身体感覚が、ここで役に立ったのかもしれない。無心流では呼吸法と併せて気の流れを意識する鍛錬があった。それと似た感覚だった。
ナターシャは感心したように何度も頷きながら、次の段階に進んだ。
彼女は手を離し、俺の前に小さな石を置いた。拳の半分ほどの大きさの、白っぽい石だった。
ナターシャは自分の掌を石の上にかざし、目を閉じた。
数秒後、石が淡く光った。薄い青白い光だった。
次に、俺に同じことをやるよう促した。
掌を石の上にかざす。
先ほど感じた振動を意識し、それを掌に集中させるイメージを描いた。
無心流の呼吸法を応用した。深く吸い、丹田に気を落とし、そこから腕を通じて掌に導く。
何も起きない。
もう一度。
丹田の振動を意識する。呼吸を整え、意識を集中させる。
微かに、本当に微かに、掌が温かくなった気がした。
石は光らなかった。
ナターシャはしかし、落胆した様子はなく、むしろ初日にしては上出来だという表情を見せた。ビンデンの通訳によると、多くの落ち人は初日に理力を感知することすらできないらしい。俺が体内の流れを感じ取れただけでも異例の速さだとのことだった。
その後、理力についてビンデンの通訳を介してナターシャから基本的な説明を受けた。
理力とは、この世界に遍在する力であり、生物の体内にも存在する。この世界の生まれの人間も理力を持っているが、落ち人の理力は桁違いに強いのだという。
理力の応用は多岐にわたる。物理的な力として発現させることもできれば、熱や光に変換することもできる。高度な使い手になると、治癒や遠距離通信にも応用できるらしい。
ただし、理力の使用には代償がある。使いすぎると激しい疲労に襲われ、最悪の場合は意識を失う。さらに極端な過使用は、身体そのものに損傷を与える可能性があるとのことだった。
ナターシャ自身の理力の専門は防御と治癒だという。攻撃的な理力の使い手ではないが、理力の基礎教育においてはこの学院で最も優れた指導者だとビンデンは補足した。
* * *
こうして、俺の学院生活は一定のリズムを刻み始めた。
早朝に起床し、ガンデムと共に走り込み。ガンデムは俺の世話係兼監視役を任されたようで、朝の走り込みだけは俺に付き合ってくれた。もっとも、俺の走る速度にガンデムはまったくついてこれず、いつも途中で膝に手をついて喘いでいたが。
午前中はルッツ老師のもとで言語の学習。
昼食後はジリの指導による身体訓練。
夕方はナターシャによる理力の訓練。
夜は部屋に戻り、ルッツ老師から借りた教本でゼーラ語の復習と、ビンデンから渡されたこの世界の地理や歴史に関する書物を読む(ビンデンが日本語で注釈を加えてくれた書物だった)。
二週間が過ぎた頃、俺はゼーラ語で簡単な日常会話ができるようになっていた。
ジリとの打ち合いでは、彼の剣技の体系をかなり把握し、逆に無心流の技法をいくつか教えるまでになった。ジリは特に、居合の抜刀術に強い関心を示した。鞘から刀を抜く動作そのものを攻撃に転化するという概念が、この世界の剣術には存在しなかったようだ。
理力の訓練は、正直に言って最も苦戦していた。
感知と体内での理力の循環はできるようになったが、それを外に放出するという段階で壁にぶつかっていた。
ナターシャは辛抱強く指導してくれたが、俺自身が焦りを感じていないわけではなかった。
そんなある日、転機が訪れた。
夕方の理力訓練中、いつものように石に理力を流そうと集中していた俺は、ふと無心流の極意を思い出した。
祖父が常々言っていた言葉だ。
「力を入れるな。力を抜け。力は入れるものではなく、通すものだ」
俺は力むのをやめた。
理力を掌に集中させるのではなく、身体全体を通路にして、丹田から掌へ、掌から石へと流れるに任せた。
石が光った。
薄い青白い光ではなく、濃い蒼色の光だった。
ナターシャが息を呑むのが聞こえた。
光は数秒で消えたが、俺の掌にはまだ温もりが残っていた。
ナターシャは興奮した様子で俺の手を取り、何度も掌を確認した。そして、早口のゼーラ語でまくしたてた。
この頃には断片的に聞き取れるようになっていたゼーラ語を繋ぎ合わせると、どうやら俺が発現させた理力の色が通常とは異なるらしいことが分かった。一般的な理力の光は青白いか薄い緑色だが、蒼色は極めて稀だという。
その夜、部屋でひとり刀の手入れをしながら考えた。
刀を磨く動作は思考を整理するのに適している。反復的で慣れた手仕事は、意識の表層を鎮め、深い部分での思索を促す。
この世界に来て、もう三週間が経とうとしている。
帰る方法は、まだ誰からも聞かされていない。
というより、帰る方法が存在するのかどうかすら分からない。
ビンデンは百五十年以上もこの世界にいる。最初の落ち人に至っては三百年だ。彼らが帰っていないということは、帰る方法は見つかっていないのかもしれない。
だが、それを確かめるのは、まだ先だ。
まずは言葉を完全に習得し、この世界の情報を集めなければならない。
501特戦隊の任務の基本は情報収集だ。
敵地に潜入し、現地の言語を習得し、文化に溶け込み、情報を集める。
今の俺がやっていることは、形を変えた任務と同じだ。
そう思えば、この状況にも多少は折り合いがつく。
刀を鞘に収めた。
明日もまた、訓練が待っている。
俺は寝台に横たわり、目を閉じた。白い葉を揺らす夜風が窓から吹き込み、知らない世界の匂いを運んできた。
懐かしい、と思うことはまだなかった。
ただ、祖父の道場の畳の匂いを、ふと思い出した。




