27. 襲撃
最初の警笛が鳴ったのは、第十刻を半刻ほど過ぎた頃だった。
北区画からの警笛。短く三度。火災発生の合図だ。
俺は櫓の影に身を潜めたまま、その音を耳にした。地下倉庫のある南区画から離れた、街の反対側だ。陽動が始まった。
しばらくして、東区画の方角から、続けて警笛が鳴った。今度は長く一度。武装した者の襲撃を意味する。
さらに西区画。市場方向。これも長く一度。
三カ所、ほぼ同時の異変。
北の空に、わずかに赤い光が見え始めた。火災だ。本物の火災。三日間の小さな放火とは規模が違う、本格的な放火だった。
* * *
北区画。
住宅街の一角で、複数の建物から同時に火の手が上がった。深夜の住民が悲鳴を上げ、通りに飛び出してきた。
火元は四軒。互いに離れた場所だが、ほぼ同時刻に発火している。明らかな放火だった。
駆けつけた衛兵は、初動の十人。少ない。だが、これは想定内だった。
衛兵の班長が街路で叫んだ。
「住民は南に避難しろ! 火に近づくな!」
住民を退避させながら、衛兵は消火に当たった。井戸から水を汲み、火元の隣家への延焼を防ぐ。
火を放った人間の姿はすでになかった。火をつけてすぐに闇に紛れたのだろう。
衛兵の班長は、消火の指示を出しながら、これが陽動であることを理解していた。だが、火災を放置するわけにはいかない。住民の生命と財産が直接危険に晒されている。
ヘルムートの騎兵が二十騎、応援に駆けつけた。騎兵は街路の住民の退避と、火災現場の周囲の警備に当たった。
東区画。
夜の市場跡で、武装した男たちが暴れていた。
数は十人ほど。覆面をし、短剣と斧で武装している。商店の扉を破り、商品を散乱させ、通りすがりの夜警を襲って負傷させていた。
駆けつけた衛兵と、ヘルムートの騎兵三十騎が、暴徒に応戦した。
戦闘は激しかったが、騎兵の機動力の前に暴徒は一人、また一人と倒されていった。十人のうち六人が制圧され、残り四人は路地の奥に逃げ込んだ。追跡したが、住宅街の入り組んだ路地で見失った。
西区画。
市場の南端の倉庫街で、複数の倉庫から煙が上がっていた。
ここも放火だった。だが、規模は北区画よりも大きい。倉庫街の建物は密集しており、延焼の危険が高い。
衛兵と騎兵が消火に駆けつけ、住民の避難を誘導した。
倉庫街の警備は数十人規模に膨らんだ。
三カ所合計で、衛兵隊と騎兵団から百人以上が陽動への対応に動員されていた。
残るアスファ内部の警備は、城壁の見張りと総督府の警備、そして地下倉庫の罠の五十人。それと、カズマが率いる十人。
南門周辺の警備は、ほぼ空になっていた。
* * *
地下倉庫の中。
ダリオは部下たちと共に、息を潜めて敵の到来を待っていた。
台座の上で、ダミーの核が蒼く輝いていた。倉庫の中央、薄暗い空間の中で、その光だけが鮮やかに浮かんでいた。
三十人の兵が、それぞれの配置についていた。倉庫の入り口から見えにくい柱の陰、壁際の暗がり、天井近くの梁の上。気配を消し、息を潜めている。
通路には十人。倉庫の手前と奥に分かれて配置されていた。
地上の出入り口周辺にも十人。建物の影に身を寄せ、出入り口を見張っていた。
北、東、西から、遠く警笛と叫び声が聞こえてくる。陽動が始まっている。
あとは、本隊が来るのを待つだけだ。
ダリオは、地下倉庫の入り口から続く通路の方向を見つめた。
一刻が経過した。
陽動の混乱が街に広がり、警備が分散したと敵が判断したであろう頃。
通路の奥から、足音が聞こえてきた。
複数。慎重に近づいてくる。
「来た」
ダリオが囁いた。
部下たちが息を呑むのが分かった。
最初に姿を現したのは、二人の男だった。革鎧に短剣。前衛だ。慎重に通路を進み、倉庫の入り口で足を止めた。
倉庫の中央のダミーを見た瞬間、二人の動きが止まった。
「あった」
ダルムスト公国の言葉だった。
二人は通路の奥に手を上げて合図を送った。
続いて、男たちが次々と通路に現れた。全員が革鎧に直剣。何人かは弓を背負っている。
まだ動かない。ダリオは待った。倉庫の中に全員が入り込むまで、待つ。
十人が通路を抜け、倉庫の中に踏み込んだ。さらに続けて十人。合計二十人ほどが倉庫の中に入った時点で、通路の奥からの足音が止んだ。
外でまだ待機している人間がいる。だが、これ以上待てば内部の二十人が台座に到達してダミーを奪う。
ダリオは合図を出した。短い口笛だった。
* * *
倉庫の中の三十人が、一斉に動いた。
柱の陰、壁際の暗がり、梁の上。あらゆる方向から衛兵が現れ、二十人の敵に襲いかかった。
悲鳴と剣の打ち合う音が、地下空間に反響した。
奇襲を受けた敵は、態勢を立て直す前に各個撃破された。三十人の衛兵が二十人の敵を取り囲み、抵抗する者は斬り、降伏する者は捕縛した。
倉庫の中央、ダミーの近くにいた男――この部隊の現場指揮官と思しき人物――は、最後まで剣を振るって抵抗したが、ダリオに腕を打たれて剣を取り落とし、首筋に剣を当てられて降伏した。
倉庫の入り口で、通路から踏み込もうとした残りの十数人の敵と、ダリオが配置した通路の十人が交戦していた。狭い通路では数の優位が生かせない。敵は一人ずつしか前に進めず、衛兵に次々と倒されていった。
地上の出入り口でも、退路を確保しようとした敵の見張りと、配置していた衛兵十人が衝突していた。
しかし、戦況は明らかに衛兵側に傾いていた。
計画通りだ。
* * *
南門の街中、櫓の根元。
俺は櫓の影に身を潜めたまま、地下倉庫の方角を見ていた。
遠くから、剣戟の音と叫び声がかすかに聞こえた。地下倉庫の戦闘が始まったのだ。
櫓の上の五人は、その音に反応していた。中央の指揮官と思しき男が、双眼鏡のような器具を覗き込んでいる。地下倉庫の戦況を観察しているのだろう。
他の四人は周囲を警戒していた。特に左から二番目の男――俺の理力の感覚が警告を発している男――は、櫓の上を歩き回り、四方を見渡していた。
あの男に気づかれてはならない。気配を完全に消す必要がある。
俺は理力を内側に絞り込んだ。発散ではなく、収束。自分の存在自体を周囲から薄く溶かすイメージ。学院でナターシャから教わった、隠密のための理力制御だ。
俺の存在感が薄れていく感覚があった。完全に消えるわけではない。だが、隣の衛兵たちにも、俺がそこにいることを意識的に思い出さないと忘れてしまうほどの薄さになった。
「気配遮断、か」
ハーラルが感心したように呟いた。
「あの剣士に気取られないためには、これしかない。残りの九人にも、できる限り気配を抑えるよう指示してくれ」
「はい」
九人の衛兵が、息を潜め、足音を消し、影に溶け込んだ。
俺たちは櫓の根元に集まり、襲撃の好機を窺った。
地下倉庫のほうから、敵の悲鳴と剣戟の音が、より大きく聞こえてきた。
戦況は明らかに衛兵側に傾いている。地下倉庫に踏み込んだ二十人は壊滅状態だろう。通路の奥にいた残りの敵も、撃退されつつある。
櫓の上の指揮官が、苛立ったように何か叫んだ。ダルムスト公国の言語で、内容は分からないが、状況が悪化していることへの動揺が伝わってきた。
指揮官は双眼鏡を下ろし、護衛の一人に何かを指示した。指示を受けた護衛が、櫓の階段を駆け下り始めた。
退却の判断だろう。地下倉庫の襲撃が失敗した以上、自分の身を守るために退避する。
今が好機だ。
俺はハーラルに目で合図を送った。
階段を降りてくる護衛をハーラルたち三人が無力化する。同時に、残りの六人が櫓の周囲を包囲する。俺は櫓の上に直接登り、指揮官を捕える。指揮官の周囲には三人の護衛が残るが、俺の刀と槍と理力で対処する。
ただし、左から二番目の剣士。
あれは別格だ。あの男だけは、俺自身が引き受けるしかない。
階段を降りてきた護衛が、暗がりに踏み込んだ瞬間。
ハーラルが背後から男の口を塞ぎ、首筋に短剣を当てた。声を上げる暇もなく、男は意識を失った。気絶させただけだ。殺してはいない。情報源として後で尋問する。
残りの兵が櫓の周囲に展開した。指揮官の退路を完全に断った。
あとは、俺が登るだけだ。
俺は腰の刀と背中の槍を確認した。理力を全身に薄く纏わせる。蒼い光が体表に微かに浮かぶが、すぐに収束させ、外からは見えないようにした。
櫓の階段に手をかけた。
その瞬間。
櫓の上の左から二番目の剣士――白い気配の男が、こちらを見下ろした。
目が合った。
夜の闇の中、距離もあったはずだが、その男の視線は確実に俺を捉えていた。
気配を消していたはずだ。だが、あの男は俺を見抜いた。
武人の勘か、あるいはそれ以上のものか。
男が剣を抜いた。
月明かりに、刃が銀色に光った。




