26. 配置
日没。
アスファの街に夕闇が降りた。市場は店じまいを始め、住民たちが家路を急いでいた。いつもと変わらない夕景の中、街の各所では人知れず兵が配置についていた。
俺は総督府の地下、執務室の一角でダミーの最後の調整を行っていた。
目の前にダミーの核がある。直径一メートルの乳白色の球体。ギュンターが二日間の昼夜兼行で仕上げた最高傑作だ。表面はなめらかで、本物の核と見分けがつかない。
ただし、まだ光っていない。
俺は両手をダミーに当て、蒼い理力を流し込んだ。
球体の内部に、蒼い光が広がっていった。最初は中心に小さく灯った光が、次第に球体全体に行き渡り、表面が乳白色から薄い蒼へと変化していく。
石材自体は理力を蓄える性質を持たない。だが、俺の理力を表面に薄く纏わせることで、発光しているように見せかけられる。持続時間は短い。一刻が限度だろう。だが、敵をおびき寄せるには十分だ。
ダミーから手を離した。球体は今、本物の核に酷似した姿で輝いていた。
扉が叩かれた。
「カズマ、運搬の準備が整いました」
ダリオの声だった。
「入れ」
ダリオが入室した。すでに戦闘装備に着替えている。革鎧の上から黒い外套を羽織り、夜の闇に紛れる出で立ちだ。
「荷車と護衛の四人は裏口で待機しています。覆いも準備済みです」
「ダミーは光らせた。一刻はもつ。搬入後にもう一度俺が理力を込め直す」
「分かりました」
ダミーを布で何重にも包み、頑丈な木箱に収めた。光が外に漏れないように、布の上からさらに革を巻く。
箱は四人がかりでようやく持ち上がる重さだった。原石の白大理石の重みに、ギュンターが選んだ素材の質の良さが表れていた。
総督府の裏口に荷車が待っていた。二頭の馬に牽かれた、商人の運搬車。一見すれば、どこにでもある夜間の物資輸送に見える。
箱を荷車に乗せ、上から布をかける。布は重く、防水加工されたものだ。中身が何かは、外からは分からない。
「行くぞ」
俺はダリオに頷いた。
荷車が動き出した。御者は衛兵が務めている。護衛の四人は、荷車の前後を歩いた。ダリオと俺は、少し離れた場所から徒歩で追う。
わざと目立つように、と総督に伝えてあった通り、深夜の運搬は街の人間の目を引く。通りすがりの住民が振り返り、何事かと囁き合う声が聞こえた。
その光景が、敵の目に届くことを期待していた。
南門近くの地下倉庫に到着したのは、第九刻を半刻ほど過ぎた頃だった。
地下倉庫は、半地下の構造をしていた。地上に出入り口があり、そこから石段を下って地下の収納空間に至る。かつては軍の物資保管庫だったが、十年以上前から使われていなかった。
倉庫の入り口で、衛兵隊の班長が待っていた。
「五十人、配置完了しています」
内部に三十人。通路に十人。地上の出入り口周辺に十人。計画通りの配置だ。
俺は地下倉庫の中に降りた。
倉庫の内部は広く、天井が高い。かつての石造りの構造がそのまま残っており、薄暗い松明の光が壁に揺れていた。
三十人の兵が、壁の影や柱の陰に身を潜めていた。全員、革鎧に直剣。一部は弓を構えている。気配を消すのに長けた者ばかりが選ばれていた。
倉庫の中央に、台座が用意されていた。本物の核と同じ高さの石の台。ここにダミーを設置する。
四人がかりでダミーを箱から取り出し、台座の上に置いた。
俺は再びダミーに両手を当て、理力を流した。先ほどよりも丁寧に、長時間維持できるように。蒼い光が球体を包み、台座の周囲を淡く照らした。
暗がりの中で見れば、本物の理力の核そのものだった。
ダリオが俺の隣に立った。
「見事です。本物との区別はつきません」
「これで罠は仕掛けた。あとは敵が餌に食いつくのを待つだけだ」
「カズマ、ここからは私が指揮します。あなたは指揮官の捕獲に向かってください」
「頼んだ」
ダリオが俺に向かって、軍人の敬礼をした。形式的なものではなく、心からの敬意の動作だった。
俺も同じく敬礼を返し、地下倉庫を後にした。
* * *
南門の近くに、こぢんまりとした空き家があった。元は古い住宅で、住人が引っ越して以来、空き家になっていた建物だ。ダリオが事前に確保しておいた、隠密行動の拠点だった。
空き家の中に、衛兵十人が待っていた。
全員、夜目が利き、足音を消す訓練を受けた者たち。ダリオが厳選した精鋭だ。先頭に立っていたのは、ハーラルという三十代の班長だった。寡黙だが、目に冷静な光がある男。
「カズマ殿、十人揃っています」
「ご苦労。これから敵の指揮官を探す。準備はいいか」
「全員、覚悟はできています」
俺は地図を広げた。南門周辺の街路と建物が描かれている。
「敵の指揮官は、おそらく南門近くの高所にいる。地下倉庫の様子を観察できる場所だ。候補は三つある」
地図の上に印をつけた。
「ひとつ目、地下倉庫から東に二百歩、三階建ての宿屋の屋根。倉庫の入り口が見える」
「ふたつ目、地下倉庫から北西に百五十歩、織物商の倉庫の二階。窓から南門方向が見渡せる」
「みっつ目、地下倉庫から南に百歩、城壁近くの櫓。本来は衛兵の見張り台だが、現在は陽動の対応のために兵が出払っている可能性がある」
ハーラルが地図を見つめた。
「三カ所を同時に確認するのは、十人では難しいですね」
「三班に分ける。俺がハーラルを含む三人と共に第一候補の宿屋を当たる。残りの七人を三人と四人の二班に分け、第二と第三の候補を当たってくれ。指揮官と思しき人物を発見しても、攻撃はするな。鳩笛で俺に知らせろ。集合してから動く」
「合図は」
「短く三回吹けば発見の合図。長く一回吹けば集合の合図だ」
俺は懐から小さな鳩笛を取り出した。学院でガンデムが俺に贈ってくれた品だった。鳥の鳴き声に似た音が出る笛で、人の耳には鳥の声に聞こえるが、訓練した者には合図として通用する。
「全員に配る」
鳩笛を九人に配った。ハーラルが班分けを行い、二班が空き家を出ていった。
俺は残ったハーラルと二人の衛兵と共に、第一候補の宿屋を目指した。
* * *
夜の街は、想像以上に暗かった。
松明の灯る通りは限られている。住宅街の細い路地に入ると、月明かりだけが頼りになる。
俺は理力の探知能力を最大限に広げた。二十メートルの範囲内の人の気配を捉える。
路地に潜む人間はいなかった。だが、屋根の上に時折、気配が動いている。見張りか、あるいは敵の伝令か。
三人の衛兵は俺の指示に従い、足音を消して動いた。革靴の底に布を巻き、石畳との接触音を抑える。長年の訓練の成果が感じられた。
第一候補の宿屋まで百歩。
建物の壁に身を寄せ、屋根の上を確認した。
誰もいない。少なくとも、理力の感覚では人の気配は検出されなかった。
「外れだな」
俺は呟いた。
「念のため、内部も確認しますか」
ハーラルが小声で聞いた。
「いや、時間がない。次に行く」
俺たちは第二候補の織物商の倉庫に向かおうとした。
その時、北東の方角から鳩笛の音が三回聞こえた。
第二候補を担当していた班からの発見の合図。
「行くぞ」
俺たちは音の方向に走った。
織物商の倉庫の裏手で、第二班の衛兵が待っていた。
「いました。倉庫の二階に三人。一人は身なりが他と違います。指揮官と思われます」
「他の二人は」
「護衛と思われます。一人は直剣、もう一人は弓を持っています」
俺は倉庫を見上げた。二階の窓から、わずかな光が漏れている。蝋燭の光ではない。理力の光だ。誰かが理力を使っている。
理力の探知を絞り込んだ。
倉庫の二階に、三つの気配。中央の一つは、強い理力を持っていた。指揮官というより、理力使いとしての気配だ。両側の二つは、戦闘者の気配。一人は剣士、もう一人は弓使い。
だが、何かが引っかかった。
中央の気配が、強すぎる。指揮官が理力使いとして強くても、ここまで強くはないはずだ。
「ハーラル」
「はい」
「ここは怪しい。気配を意図的に放出している。本物の指揮官なら、気配を隠す。発散しない」
「囮だと」
「そうだ。こちらの注意をここに引きつけ、本物は別の場所に潜んでいる可能性がある」
その瞬間、北西の方角から、別の鳩笛が三回聞こえた。
第三候補の櫓を担当していた班からの合図。
もう一カ所でも発見があった。
「決まりだな」
俺は判断した。
「ここは囮だ。本物は櫓のほうだ。第二班の四人は、ここの三人を引きつけておけ。攻撃はするな。気配を察知させ続けるだけでいい。本物の指揮官に『こちらが囮に引っかかった』と思わせるんだ」
第二班の班長が頷いた。
「我々が囮の役を引き受けます」
「頼む」
俺は第一班の三人と共に、櫓の方角へ走った。
* * *
南の城壁近く、櫓の根元に第三班の衛兵が潜んでいた。
「カズマ殿、櫓の上に五人います。中央の一人は地下倉庫の方角を見続けています。地下倉庫の様子を観察しているように見えます」
五人。三人の囮よりも多い。だが、気配を抑えた人間ばかりだ。これこそが本物の指揮系統だ。
俺は櫓を見上げた。
夜空を背景に、櫓の上に黒い影が動いていた。五人。地下倉庫の入り口を見下ろせる位置に立っている。
理力の探知を細かく絞り込んだ。
五人のうち、中央の一人は理力を持っているが、強くはない。指揮官として標準的な範囲だ。両側の四人は戦闘者の気配。
ただ、一人だけ、際立った気配があった。
四人の戦闘者のうち、左から二番目。
強い。途方もなく強い。
俺の理力の感覚が、警告を発していた。
あれは、ただの護衛ではない。
武人の中の武人だ。それも、相当の。
「ハーラル、見えるか。櫓の上の左から二番目の男」
「はい。他の三人とは佇まいが違います」
「あれは別格だ。襲撃の際は、俺があの男を引き受ける。お前たち他の七人は、残りの四人を制圧し、指揮官を捕獲しろ」
「了解しました」
俺は櫓の根元に身を寄せ、息を整えた。理力を内側に絞り込み、気配を消す。襲撃の機会を窺う。
まだ動かない。
櫓の上の指揮官は、まだ地下倉庫の襲撃を待っている。襲撃の開始と混乱に乗じて、こちらが動くべきだ。
今は待つときだ。
夜の風が、城壁を撫でていった。
地下倉庫のある方角は、まだ静かだった。
だが、その静けさが、長くは続かないことを俺は知っていた。




