25. 怪事件
騎兵到着の翌日。作戦まで残り三日。
最初の異変は、夜明け前に起きた。
総督府の厨房で火災が発生した。
俺が客間で仮眠を取っていたとき、廊下を駆ける足音と叫び声で目が覚めた。刀を掴んで飛び出すと、総督府の一階から煙が上がっていた。
厨房に駆けつけると、調理台の上に積まれた布が燃えていた。火の勢いはまだ小さく、衛兵が水桶を運んできて消し止めた。
グスタフが駆けつけ、現場を確認した。
「火元は調理台の布だ。油を染み込ませた布が、炉の残り火の近くに置かれていた。自然発火にしては不自然だ」
「放火か」
「断定はできん。だが、厨房の者に聞いたところ、昨夜閉めたときには炉の近くに布は置いていなかったと言っている」
俺は厨房の周囲を調べた。窓は内側から閂がかかっている。扉は夜間は施錠されている。
「内部の人間の仕業か、あるいは施錠前に忍び込んで仕掛けた可能性がある」
総督府の内部犯か。ディーターの顔が頭をよぎった。調達係として厨房に自由に出入りできる人間だ。
だが、ディーターは監視下にある。昨夜の行動はダリオが確認している。
「ダリオ、ディーターは昨夜どこにいた」
「自宅です。監視の兵が確認しています。総督府には戻っていません」
ディーターではない。では誰だ。
火災の被害は軽微だったが、総督府の中に不安が広がった。衛兵たちの表情が硬くなり、使用人たちが怯えた顔で廊下を歩いていた。
同じ日の午後、今度は中央市場で騒ぎが起きた。
市場の一角にある穀物倉庫に、何者かが侵入した形跡が見つかった。倉庫の鍵がこじ開けられ、中の穀物袋がいくつか切り裂かれていた。盗まれたものはない。ただ、穀物が床にばらまかれていただけだ。
市場の管理人が衛兵隊に通報し、グスタフが兵を派遣した。
俺も現場を見に行った。
倉庫の鍵は単純な構造で、道具があれば誰でも開けられる。侵入自体に技術は要らない。だが、わざわざ穀物を切り裂いて盗みもせずに去る。目的は物資の破壊でも窃盗でもない。
「嫌がらせか、あるいは……」
「あるいは何だ」
隣にいたレントが聞いた。レントも市場の騒ぎを聞いて駆けつけていた。
「試し行動だ。衛兵隊がどの程度の速度で反応するか、何人が駆けつけるか、どの経路を使うか。それを観察するための仕掛けだ」
レントの顔が険しくなった。
「つまり、俺たちの動きを測られているのか」
「ああ。火災も同じだ。総督府で火が出たとき、衛兵がどう動くか、消火にどれだけの人員が割かれるか、その間に他の警備がどれだけ手薄になるか。すべてデータを取られている」
俺は市場を見回した。買い物客や商人に紛れて、こちらを観察している人間がいるかもしれない。だが、百人の潜入者がアスファの住民に溶け込んでいるなら、見分けることは不可能だ。
二日目。作戦まで残り二日。
早朝、東壁の見張り塔に登っていた衛兵が、城壁の外周で不審な人影を目撃した。
三人の人間が、東壁の基部を調べるように歩いていたという。衛兵が声をかけると、三人は走って丘陵の方角に消えた。
グスタフが追跡の兵を出したが、丘陵に入ったところで足跡を見失った。
「城壁の基部を調べていた、か」
俺は東壁に足を運び、三人が歩いていたとされる区画を確認した。
石積みの目地に、新しい傷があった。薄い金属の刃で削ったような跡。石材の強度を調べていたのかもしれない。
理力の核が城壁を強化している。その強度を現地で確認しようとしたのか。あるいは、核が失われた場合に城壁がどの程度の脆さになるかを推定しようとしたのか。
いずれにせよ、敵は着実に準備を進めている。
同じ日の夕方、別の事件が起きた。
南門近くの井戸の水が濁った。住民が水を汲みに来たところ、いつもは透明な水が茶色く濁っていた。
衛兵が井戸を調べると、井戸の中に動物の死骸が投げ込まれていた。犬の死骸だった。
毒ではなかった。だが、住民の間に不安が広がった。「水に毒を入れられた」という噂が瞬く間に広まり、南区画の住民が他の井戸に殺到した。
グスタフが衛兵を出して沈静化に当たったが、住民の動揺は簡単には収まらなかった。
「井戸の汚染。住民の動揺。衛兵隊がその対応に追われる。その間、他の場所の警備が薄くなる」
俺はダリオと総督府で向き合っていた。
「パターンが見えてきた。火災、倉庫侵入、城壁の調査、井戸の汚染。すべて実害は小さいが、そのたびに衛兵隊が対応に走らされる。俺たちの反応速度と配置を測りながら、同時に衛兵隊の体力と注意力を削っている」
「消耗戦ですか」
「ああ。作戦の前に、守備側を疲弊させる。古典的だが効果的な手法だ」
ダリオの拳が膝の上で握りしめられた。
「対策はいかがいたしますか」
「すべてに全力で対応してはいけない。相手の狙いは俺たちを振り回すことだ。最小限の人員で対処し、主力は温存する。特に、作戦当日に配置する五十人は、今の時点から温存しておく必要がある」
「衛兵隊長に伝えます。対応人員を絞るよう指示を出します」
「もうひとつ。ヘルムートの騎兵にも一部、巡回を任せられるか。衛兵隊だけで街全体をカバーするのは限界がある」
「ヘルムート殿に相談してみます」
ヘルムートは要請を即座に受け入れた。
「騎兵が街の中を巡回するのは本来の任務ではないが、状況が状況だ。五十騎を出す。城壁の外周と主要街路の巡回にあてろ」
騎兵の巡回が始まると、街の雰囲気が少し変わった。甲冑を着た騎兵が通りを行き来する姿は、住民にとって不安の種でもあり、同時に安心の種でもあった。
三日目。作戦まで残り一日。
この日は、朝から三つの事件が立て続けに起きた。
まず、北門の門扉に赤い塗料で文字が書かれていた。ダルムスト公国の言葉で、「アスファは落ちる」と書かれていたと、ハインツ外務書記官が翻訳した。
次に、職人街のバロッツの工房の近くで、不審火が発生した。幸い、隣接する建物の壁が焦げただけで大事には至らなかったが、バロッツは激怒していた。
「わしの工房を燃やそうとした馬鹿がいるのか。見つけたらただでは済まさんぞ」
バロッツの工房を狙ったのは偶然か、それとも俺との繋がりを知られているのか。ダミーの製作をギュンターに依頼したことが漏れた可能性は低いが、用心に越したことはない。
三つ目は、最も深刻だった。
総督府の地下への入り口がある廊下で、見慣れない男が徘徊しているのを衛兵が発見した。
男は総督府の使用人の服を着ていたが、衛兵が声をかけると走って逃げた。追跡したが、総督府の裏口から外に出て、路地の奥に消えた。
俺は現場に駆けつけ、男が徘徊していた廊下を確認した。
地下への鉄扉は閉まっていた。鍵も無事だった。隠し扉の仕掛けに触れた形跡もない。
だが、男がこの廊下にいたという事実が問題だった。地下への入り口がこの廊下にあることを、誰かが知っている。
「ダリオ、使用人の名簿を確認しろ。全員の所在を洗え」
「すぐに」
確認の結果、使用人は全員揃っていた。つまり、あの男は使用人に化けて総督府に潜り込んだ外部の人間だ。
「総督府の内部構造が漏れている。地下への廊下の場所も知られている」
「ヴィクトールかディーターからの情報でしょう」
「おそらくな。だが、隠し扉の存在までは知られていないはずだ。あの男は鉄扉の前で止まっていた。その先に何があるか、まだ掴めていないということだ」
それでも、敵がここまで接近してきているという事実は、重かった。
四日目。作戦当日の朝。
前夜は、何も起きなかった。
嵐の前の静けさだった。三日間続いた怪事件が、ぴたりと止んだ。
俺は客間の窓から、朝のアスファを見下ろした。
市場には商人たちが店を開き始め、通りには早起きの住民が歩いていた。いつもと変わらない朝だった。だが、この街のどこかに百人の敵が潜んでいる。今夜、その百人が動く。
ダリオが客間を訪ねてきた。
「配置の最終確認をしたいのですが」
「ああ。入れ」
俺は机の上に総督府と南門周辺の図を広げた。
「地下倉庫に伏せる五十人の内訳。衛兵隊から三十人、騎兵から二十人。衛兵は昨日から休養を取らせてある。騎兵の二十人はヘルムートが選抜した精鋭だ」
「ダミーの搬入はどうしますか」
「今夜の第九刻。日没後一刻して、荷車で総督府から南門の地下倉庫まで運ぶ。護衛は衛兵四人。覆いをかけた荷車で、わざと目立つように」
「理力の発光はいつ行いますか」
「俺が搬入前にダミーに理力を込める。蒼い光を帯びた乳白色の球体。暗がりの中なら、本物との区別はつかない」
ダリオが頷いた。
「五十人の配置は、地下倉庫の内部に三十人、倉庫への通路に十人、地上の出入り口周辺に十人。敵が倉庫に突入した瞬間に、内部と通路で挟撃する」
「敵が地上で待機する可能性はありますか」
「ある。全員が地下に入るとは限らない。地上に見張りや退路確保の人間を残すだろう。地上の十人はそれに対応する」
「百人全員が来ると想定すべきでしょうか」
「全員が来る可能性は低い。百人のうち、実際に地下倉庫に向かうのは三十から五十人だろう。残りは別の場所で陽動を起こすか、退路を確保するために散開する」
「その陽動への対応はどうしますか」
「騎兵の残り四百八十人とグスタフの衛兵隊百五十人が街の警備にあたる。陽動に対しては最小限の人員で対応し、主力は地下倉庫に集中する」
「地下倉庫の指揮はお前に任せる」
俺の言葉に、ダリオが顔を上げた。
「カズマ、あなたは入らないのですか」
「ああ。地下倉庫の指揮はダリオが執れ。お前なら五十人を完璧に動かせる」
「では、あなたは」
「敵の指揮官を捕える」
ダリオが眉を寄せた。
「指揮官、ですか」
「ああ。この三日間の怪事件を見て確信した。敵の指揮官はとてつもなく狡猾で用心深い。火災の起こし方、倉庫侵入のタイミング、井戸への投げ入れ、城壁の調査、総督府への潜入。すべてが計算尽くで、こちらの反応を冷静に観察している。そんな指揮官が、自ら地下倉庫に踏み込むはずがない」
「地上で全体を指揮していると」
「そうだ。地下倉庫に部下を送り込みつつ、自分は安全な距離から戦況を見守る。退路を確保し、想定外の事態には即座に判断を下す。そういう人間だ。地下倉庫で部下を捕らえても、指揮官が逃げれば組織は再構築される。次の作戦が組まれる。だが、指揮官を捕えれば、組織は機能を失う」
「敵の指揮官の位置を、どう特定するのですか」
「夜の街で、地下倉庫の戦闘を観察できる場所は限られる。南門周辺の高所だ。倉庫の入り口が見える屋根の上か、近くの建物の二階。俺の理力の探知能力で、その範囲を絞り込める。指揮官は連絡役と数人の護衛と共に動いているはずだから、複数の気配がまとまっている場所を探せばいい」
「人員は」
「精鋭十人を貸してくれ。理力の感知に頼った隠密行動になる。少数でいい。多すぎると気配で察知される」
ダリオは少し考えた。
「衛兵から十人を選抜します。全員、夜目が利き、足音を消せる者です」
「頼む」
「ですが、カズマ。敵の指揮官が用心深い人間なら、護衛も相当な手練れがいるはずです。十人では不足の可能性があります」
「足りなければ、俺が補う。刀と槍、それに蒼い理力がある」
ダリオは無言で俺を見た。やがて、深く頷いた。
「承知しました。ですが、無理はしないでください。あなたを失えば、この街の防衛は崩壊します」
「自分の身は自分で守る。それより、地下倉庫の指揮を完璧にやってくれ。あちらが本陣だ」
「お任せください」
ダリオが退室した後、俺は壁の刀と槍を見た。
今夜、この二つの得物が本来の役目を果たす。
蒼い理力を通した。刀の刃文が蒼く光り、槍の穂先が鋭く輝いた。
三日間の怪事件は、敵の前哨戦だった。こちらの反応を測り、体力を削り、注意を分散させる。そのすべてが、今夜のための布石だった。
だが、こちらも準備は整っている。
日が暮れれば、すべてが始まる。




