24. 備え
伝令を送り出した翌朝、総督府の廊下でエルティアと鉢合わせた。
最近は顔を合わせる機会が減っていた。間諜の監視、毒餌の作戦、駐留軍の出陣。俺の日々は機密に満ちた会議と緊迫した判断の連続で、エルティアとゆっくり話す時間がなかった。
街の案内の約束も、結局あれ以来果たせていない。
「カズマさん」
エルティアの声に、いつもの明るさがなかった。
「おはよう、エルティア」
「最近、お忙しそうですね。お顔を見るのも久しぶりです」
「ああ。すまない。いろいろと立て込んでいて」
「謝らないでください。父が出陣して、街の防衛をカズマさんに任せたことは聞いています。大変なお役目だと分かっています」
エルティアは窓際に立ち、外を見つめた。朝の陽光が栗色の髪を照らしていた。
「父が出て行ってから、この総督府はとても静かになりました。兵の声も、馬の蹄の音もしない。こんなに静かな総督府は、私が生まれてから初めてです」
駐留軍三千が去ったアスファ。衛兵隊二百だけが残った総督府。確かに、以前とは比べものにならないほど静かだろう。
「寂しいか」
「寂しいというより、怖いです」
エルティアが振り返った。薄い緑の瞳が、俺をまっすぐに見つめていた。
「父がいないこの街が、こんなに心許ないとは思いませんでした。城壁も、門も、総督府も、同じ形をしているのに、中身が空っぽになったような気がして」
「城壁は同じだ。門も、総督府も。変わったのは中にいる人間の数だけだ。そして、三日後には王都から騎兵五百が到着する。空っぽにはならない」
「王都から援軍が来るのですか」
「ああ。閣下が手配してくださった。先発隊の騎兵五百が三日後、本体の五千がその後に続く」
エルティアの表情が少し和らいだ。
「そうですか。それなら、少し安心です」
エルティアは微笑んだ。だが、その笑みの奥に不安が残っていることは分かった。
「カズマさん。ひとつだけ聞いてもいいですか」
「何だ」
「この街は、大丈夫ですか」
大丈夫か、と聞かれた。
百人の潜入部隊がこの城壁の中に息を潜めている。五日後の夜に、その百人が動き出す可能性がある。大丈夫とは言い切れない。
だが、この少女に不安を与えるわけにはいかなかった。総督の娘として、この街の人々の前に立つ人間だ。彼女が不安な顔をすれば、街全体に動揺が広がる。
「大丈夫だ。俺がいる」
軽い言い方をしたつもりだった。だが、エルティアは目を見開き、そして小さく笑った。
「カズマさんらしい答えですね。でも、なぜかそう言われると、本当に大丈夫な気がします」
「根拠のない安心は危ないぞ」
「根拠はあります。グラオムを一人で倒した方ですから」
エルティアは少し元気を取り戻したようだった。
「落ち着いたら、街の案内の続きをさせてくださいね。学院分校も、南区画の工房街も、まだ見せていない場所がたくさんあります」
「ああ。約束する」
何度目の約束だろう。だが、約束を守れる日が来ることを信じるしかない。
エルティアは小さく会釈して、廊下の奥へ去っていった。
その背中を見送りながら、俺は思った。
この街を守る。この少女の笑顔を守る。それは、理力の核を守ることと同じだ。
いや、それ以上かもしれない。
* * *
三日後。
王都からの騎兵五百が、北門に到着した。
俺はグスタフと共に北門で出迎えた。ダリオは間諜の監視を続けており、持ち場を離れられなかった。
先発隊を率いていたのは、王都近衛騎兵団の副団長、ヘルムート・シュタインという四十代の男だった。日に焼けた精悍な顔に、鉄のように硬い目をしている。六日間の強行軍を経てなお、馬上の姿勢に疲れの色がなかった。
「アスファ衛兵隊長グスタフ・レーマンです。遠路ご苦労いただき、感謝いたします」
グスタフが出迎えの挨拶をした。
「王都近衛騎兵団副団長、ヘルムート・シュタインだ。陛下の命により、アスファの防衛支援に参った。現在の指揮権者は」
「総督閣下は駐留軍を率いて国境に出陣されています。閣下の委任により、防衛の全体指揮はこちらのカズマ殿が執っています」
ヘルムートの目が俺に向いた。値踏みするような目だった。
「カズマ。聞いたことのない名だな。どういう立場の人間だ」
「落ち人です。総督の軍事顧問として、防衛指揮を委任されています」
「落ち人か」
ヘルムートの表情が微かに変わった。驚きか、警戒か、あるいは興味か。判別がつかなかった。
「落ち人が防衛指揮を執るのは異例だが、総督閣下の判断であれば従う。状況を説明してもらえるか」
「場所を変えましょう。総督府で」
五百騎の受け入れは、事前にグスタフが手配していた。駐留軍が使っていた兵営の一部を開放し、馬の繋ぎ場と兵舎を確保してある。
だが、五百騎が一度に入城すれば、街は騒然とする。
「二百騎ずつ、三回に分けて入城してください。間隔を一刻空けて。街の住民に不安を与えたくない」
ヘルムートは一瞬眉を上げたが、すぐに頷いた。
「了解した。合理的な判断だ」
俺の指示に異論なく従ったことで、この男が柔軟な軍人であることが分かった。階級や前例に固執する人間なら、落ち人の指示など聞き入れなかっただろう。
最初の二百騎が北門をくぐった。甲冑を着た騎兵たちが、整然とした隊列で石畳の大通りを進んでいく。街の住民たちが通りに出て、騎兵たちを見つめていた。
不安そうな顔。だが、援軍の到着に安堵の色も混じっていた。
俺は総督府に先回りし、ヘルムートを会議室に通した。グスタフも同席した。
「状況を説明する。ただし、一部の情報は機密に該当するため、全体像の共有はできない。必要な範囲で伝える」
「構わん。知るべきことだけ知れればいい」
俺はヘルムートに、開示できる範囲の情報を伝えた。
ダルムスト公国が国境に三千から四千の兵を展開していること。駐留軍三千が全軍で国境防衛に向かったこと。アスファの防衛が衛兵隊二百のみで手薄になっていること。そして、公国の間者がアスファ内部に潜入している疑いがあること。
核のこと、ダミーのこと、地下倉庫の罠のことは伏せた。
「潜入者の規模は把握しているのか」
「調査中だ。詳細が分かり次第、追って共有する」
ヘルムートは質問を重ねず、頷いた。
「我々の任務は」
「城壁の警備と、街の治安維持。それと、必要が生じた場合の戦闘態勢の維持だ。詳しい配置は、明日までに伝える」
「了解した」
ヘルムートは椅子から立ち上がった。
「一つだけ言っておく。王都近衛騎兵団は、この大陸で最も精強な騎兵だ。どんな敵が来ようと、我々は退かん」
自信に裏付けられた言葉だった。虚勢ではない。六日間の強行軍を経てなお、この男の目には疲れよりも闘志が勝っていた。
「頼りにしている」
ヘルムートが退室した後、グスタフが小声で言った。
「王都の騎兵は評判通りですな。あの男、使えそうです」
「ああ。だが、核のことは当面伏せておく。五日後の夜の作戦に騎兵を使うときは、別の名目で動かす」
「承知しました」
* * *
騎兵の受け入れと並行して、俺はもうひとつの準備を進めていた。
ダミーの核の製作だ。
バロッツの工房を訪ねたのは、騎兵到着の二日前だった。一刻の猶予もない。
扉を押して中に入ると、いつもの熱気と金属を打つ音が迎えてくれた。バロッツは炉の前に座り、何かの刃物を鍛えていた。
「また来たのか。槍の調子はどうだ」
「申し分ない。今日は別の頼みがある」
「言ってみろ」
「直径一メートルの石の球体を作りたい。色は乳白色。表面はなめらかに。期限は二日後だ」
バロッツが鉄槌を下ろし、俺を見た。
「石の球体だと? わしは鍛冶師だ。石工ではない」
「分かっている。だが、あなたの知り合いに腕のいい石工がいると聞いた」
「ギュンターのことか。南区画で墓石を彫っている男だ。腕は確かだが、変わり者でな」
「あなたに言われたくはないだろうが」
バロッツは鼻を鳴らした。だが、口元がわずかに緩んだ。
「ギュンターに話をつけてやる。だが、直径一メートルの球体を二日で仕上げろとなると、相当な無理をさせることになるぞ。石材の選定から始めなければならん。何に使うんだ」
「言えない。だが、重要なものだ」
「言えない、か。あんたらしいな」
バロッツは立ち上がり、工房の奥から革の手袋を取った。
「ギュンターのところに行く。ついてこい」
バロッツに連れられて訪ねたギュンターの工房は、バロッツの工房から三軒先にあった。石粉が舞う工房の中で、五十代の痩せた男が墓石に文字を刻んでいた。
「ギュンター。仕事だ」
「バロッツか。珍しいな、お前が人を連れてくるとは」
ギュンターは俺を一瞥し、すぐに仕事に戻った。バロッツと同じ種類の人間だ。愛想はないが、腕に自信がある。
バロッツが要件を伝えた。直径一メートルの球体。乳白色の石材。表面をなめらかに仕上げる。期限は二日。
ギュンターは手を止め、しばらく考えた。
「乳白色の石なら、ゲルド川の上流で採れる白大理石がいい。一メートルの球体となると、原石はその三倍の大きさが要る。運搬だけで半日かかる」
「間に合うか」
「二日か。弟子を総動員して昼夜ぶっ通しでやれば、ぎりぎりだ。だが、やれと言われればやる。ただし、金はかかるぞ」
「いくらだ」
「金貨三十枚。石材、運搬、加工、仕上げ込みだ」
高い。だが、値切っている場合ではない。
「払う。総督府から届ける」
「前金で半分もらう」
「分かった」
ギュンターは頷き、すぐに弟子を呼んで石材の手配を始めた。職人同士の信頼で話が通るのは、ありがたかった。バロッツの紹介がなければ、こうはいかなかっただろう。
工房を出る際、バロッツが俺の横に並んだ。
「カズマ、石の球体が何に使われるか、わしは聞かん。だが、あんたの目を見れば分かる。ただの飾りではないな」
「ああ。この街を守るために必要なものだ」
「なら、良い。わしの槍も、この街を守るために使ってくれ」
バロッツは工房の扉の前で足を止め、振り返った。
「わしはこの街で五十年鍛冶をやってきた。この街がなくなれば、わしの仕事もなくなる。あんたがこの街を守ると言うなら、わしにできることは何でもやる」
短い言葉だったが、職人の矜持と、街への愛着が詰まっていた。
「ありがとう、バロッツ」
「礼はいらん。金は払ってもらう」
バロッツは扉を閉めた。
その足で総督府に戻り、ダリオに報告した。
「ダミーの手配は済んだ。明日には完成する。完成したら、俺の理力を込めて発光させる。暗がりの中で見れば、本物と区別がつかないものに仕上がるはずだ」
「地下倉庫への搬入は」
「完成した翌日の夜、つまり作戦当日の夜に搬入する。総督府から南門の地下倉庫まで、荷車で運ぶ。護衛は衛兵を四人つける。わざと目立つように運ぶ。敵の目に留まらなければ、罠にならない」
「わざと目立つように、か。覆いをかけた荷車で深夜に運べば、嫌でも目につくだろうな」
「そういうことだ」
ダリオは頷いた。
「着々と進んでいるな。あとは、当日を待つだけだ」
「ああ。あとは待つだけだ」
だが、待つという行為が、実は最も神経をすり減らす。戦場に出るほうが、まだ楽だ。敵が見える場所のほうが、見えない場所より百倍ましだ。
客間に戻ると、窓から夕暮れのアスファが見えた。
赤い屋根が夕陽に染まり、ゲルド川が金色に光っていた。いつもと変わらない、美しい夕景だった。
この景色を守る。
あと四日。
刀と槍を手に取り、理力を通した。蒼い光が二つの得物を包む。
準備は整った。あとは、敵が来るのを待つだけだ。




