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 22. 陽動

 間諜網の全容が見え始めてから、俺たちは次の一手を準備していた。


 決定的な毒餌。敵を動かすための、最後の仕掛けだ。


 総督の執務室で、俺とダリオと総督の三人が机を囲んでいた。


「これまでの偽情報は、敵の反応を見るための探りでした。今度は違います。敵を実際に動かすための餌を撒きます」


 俺は机の上に、手書きの図を広げた。


「ナーゲルを通じて、イルマに聞かせる情報はこうです。『理力の核の移設が正式に決定した。移設先は総督府の外、南門近くの地下倉庫。移設は十日後の深夜に行われる。護衛は最小限にし、秘密裏に実施する』」


 総督が顎に手を当てた。


「具体的な日時と場所を指定するのか。敵が実行に移すだけの情報を与えるということだな」


「はい。検討段階の曖昧な情報では、敵は動きません。実行可能な具体情報を与えて初めて、敵は作戦を発動します。そして、発動した瞬間が、こちらの捕捉の好機になる」


「南門近くの地下倉庫というのは」


「実在する場所です。かつて軍の物資を保管していた古い地下倉庫で、今は使われていない。ここを偽の移設先として設定し、十日後の深夜に罠を張ります」


 ダリオが地図を指さした。


「地下倉庫の周囲に衛兵を伏せておけば、核を奪いに来た人間を確保できます。ただし、敵がどの程度の人数で来るかが分からない。少人数の隠密行動なのか、武装した部隊なのか」


「おそらく少人数だろう。大規模な部隊をアスファの中に入れるのは不可能だ。城門を通るか、城壁を越えるしかない。どちらも目立つ。三人から五人の精鋭で、深夜に動くのが合理的な判断だ」


「迎え撃つ側の人数は」


「ダリオが信頼する衛兵を十人。地下倉庫の内部と周辺に分散配置する。俺も現場に入る」


 総督が頷いた。


「よし。その方向で進めろ。ナーゲルへの情報はいつ流す」


「明日。ダリオがナーゲルを訪ね、酒を飲みながら話す。いつもと同じ体裁で。イルマが聞いていれば、遅くとも二、三日中にフェリクスに伝わる。フェリクスから公国への連絡に数日。公国が判断して実行部隊を送り出すまでに数日。十日後という期限は、ぎりぎり間に合う日程です」


「際どいな」


「際どくなければ、敵も本気にしません。余裕のある日程を示せば、偽情報だと疑われる。切迫した状況であればあるほど、敵は判断を急がされ、罠を見抜く余裕がなくなる」




 翌日、ダリオがナーゲルの自宅を訪ねた。


 いつも通りの訪問だった。酒を持参し、近況を語り合う。ダリオは自然な流れの中で、核の移設の「決定」をナーゲルに伝えた。


 ダリオの報告によれば、ナーゲルの反応は前回と同じく穏やかだった。驚きはしたが、それ以上の不審な反応はなかった。


 問題はイルマだった。


 台所にいたイルマが、前回と同様に会話を聞いていた。ダリオが移設の日時と場所を口にした瞬間、台所の物音がまた止まった。前回よりも長い沈黙だった。


「今回は確信を持って聞いていた。前回の情報が正しかったことで、この経路の信頼度が上がっている。今回の情報も、迷わず流すだろう」


 ダリオの判断は的確だった。


 あとは、待つだけだ。




     * * *




 毒餌を撒いてから三日目の朝だった。


 俺は総督府の客間で、図書館から借りてきた大陸の歴史書を読んでいた。


 ジリたちが学院に帰ってから、もう一ヶ月以上が経つ。アスファに到着して二週間ほどで、ジリ、トーマ、ガンデムの三人は学院に戻っていった。ジリは最後まで残ると言い張ったが、ビンデン校長からの帰還命令が届いた。学院の武術教官を長期間不在にするわけにはいかなかったのだろう。


 トーマは別れ際に、にかっと笑って言った。


「カズマ、また会おう。今度は俺が勝つからな」


 ガンデムは何も言わず、ただ俺の手を握って、力強く振った。


 ジリは短く言った。


「何かあれば学院に知らせろ。すぐに来る」


 三人がいなくなった客間は、少し広く感じた。ジリたちがいた頃に始まった丘陵の偵察と捕虜の確保が、その後の毒餌の作戦、間諜網の発覚へと繋がり、寂しさに浸っている暇はなかった。


 歴史書の頁をめくりながら、俺はダルムスト公国の歴史を改めて整理していた。百年前の独立。山岳地帯を利用した防衛戦略。小国ゆえの生存への執念。彼らが理力の核を求める動機は、理解できないわけではなかった。大国の隣で生き延びるには、絶対的な防御が必要だ。


 その核を奪うのではなく、共存の道を探る選択肢もあったはずだが、百年の摩擦がそれを許さなかったのだろう。


 そのとき、客間の扉が激しく叩かれた。


「カズマ殿!」


 衛兵の声だった。切迫している。


 扉を開けると、息を切らした若い衛兵が立っていた。


「閣下がお呼びです。至急、執務室へ。東方の国境から急報が届きました」


 俺は歴史書を閉じ、刀を腰に差して駆け出した。




 執務室には、すでにダリオと数人の上級士官が集まっていた。


 総督は立ったまま、机の上に広げられた大きな地図を睨んでいた。その表情は、俺がこれまでに見た中で最も厳しかった。


「何があった」


「東方の国境守備隊から早馬が到着した。ダルムスト公国の軍が、国境付近に部隊を展開し始めた」


 総督が地図の一点を指さした。アスファから東に約二百キロメートル。ダルムスト公国との国境線だ。


「規模は」


「現時点で確認されているのは、歩兵約二千。騎兵三百。さらに後方から増援が移動中との報告がある。最終的な規模は三千から四千と推定される」


 ダルムスト公国の推定総兵力は五千から八千。その半数近くを国境に集結させている。


「国境を越えたのか」


「まだだ。国境の公国側に陣を敷いている。我が国の領内には入っていない。だが、陣の配置は攻撃態勢に近い」


 ダリオが地図を見ながら言った。


「国境守備隊の兵力は」


「約五百。持ちこたえられる数ではない」


 総督が腕を組んだ。部屋の空気が重くなった。


 俺は地図を見つめながら、頭の中で状況を整理した。


 毒餌を撒いてから三日。偽情報がイルマからフェリクスに渡り、フェリクスが公国に持ち帰るのに数日。公国が判断して行動を起こすまでに数日。


 時系列が合わない。


 この軍の展開は、毒餌の情報に反応したものではない。三日前に撒いた情報が、もう軍の展開に反映されるはずがない。数千の兵を動かすには、少なくとも数週間の準備が必要だ。


「閣下、この軍の展開は、俺たちの偽情報への反応ではありません」


「分かっている。時間が合わん」


「つまり、以前から計画されていた動きだ。丘陵の偵察部隊が撤退した後も、公国は別の計画を進めていた」


 俺は地図の上に目を走らせた。


 国境の部隊配置。アスファとの距離。街道の経路。


「閣下、これは陽動です」


 総督の目が俺を捉えた。


「根拠は」


「三つあります。まず、規模です。三千から四千の兵力では、アスファを落とせない。アスファの城壁は理力の核で強化されている。仮に国境を越えて進軍しても、アスファの城壁の前で釘付けになる。公国側がそれを知らないはずがない。丘陵の偵察部隊は、まさにそれを調べるために送り込まれたのですから」


「ふたつ目は」


「タイミングです。俺たちが毒餌を撒いた直後に軍が動いた。偶然にしては出来すぎている。公国側は、間諜網を通じて核の移設情報を近いうちに入手できると見込んでいた。軍の展開はその情報を待つ間に、こちらの注意を国境に向けさせるための布石です」


「みっつ目は」


「公国の真の目的は核の奪取であって、領土の獲得ではありません。領土を奪うには三千から四千では足りないが、核を奪うためにこちらの主力を国境に釘付けにするには十分な数です。アスファの駐留軍が国境に向かえば、総督府の警備が手薄になる。その隙に、少数の精鋭が核を奪いに来る」


 部屋の中が静まり返った。


 ダリオが低い声で言った。


「つまり、国境の軍は見せ札で、本命は核の奪取部隊ということですか」


「そう考えるのが合理的だ。だが――」


 俺は一拍置いた。


「陽動だと分かっていても、国境の部隊を無視するわけにはいかない」


 総督が重い声で言った。


「その通りだ。国境守備隊の五百人では、三千を超える敵を支えきれん。万が一、国境を突破されれば、東方の村落が蹂躙される。陽動であろうがなかろうが、住民を見殺しにはできん」


「駐留軍を派遣しますか」


 ダリオが聞いた。


「する。全軍だ」


 総督の言葉に、部屋の空気が凍った。


「全軍、ですか」


 ダリオが声を上げた。


「第一連隊と第二連隊、合わせて三千。全軍を国境に出す。駐留軍の司令官は私だ。私自身が指揮を執る」


「閣下が出陣されるのですか」


「国境守備隊の五百では三千を超える敵を支えきれん。駐留軍の全力をもって国境を守る。中途半端な兵力を送れば、守りきれずに突破される。それこそ敵の思壺だ」


 総督の判断は軍人としては正しかった。国境を守るなら全力で守る。中途半端が最も危険だ。


「ただし、アスファが空になるわけにはいかん。王都に伝令を出す。援軍の派遣を要請する」


 総督は上級士官の一人に向き直った。


「早馬を二騎、王都に出せ。一騎は正規の街道、もう一騎は北回りの間道を使え。どちらかが必ず届くようにする。文面は私が書く」


「承知しました」


「伝令の内容はこうだ。ダルムスト公国が国境に三千から四千の兵を展開。アスファ駐留軍は全軍をもって国境防衛に向かう。アスファの防衛のため、王都より援軍の派遣を至急要請する、と」


 総督は次に、第一連隊長と第二連隊長に指示を出した。


「第一連隊は先発する。騎兵三百を今日中に出せ。残りの歩兵は明朝の第二刻に東門を出発。第二連隊は明後日の朝に出発。行軍は急ぎだが、無理はするな。国境までは騎馬で三日、歩兵で五日だ」


「承知しました」


 連隊長たちが敬礼して退室した。他の士官たちも、それぞれ準備に散っていった。


 執務室に残ったのは、総督、俺、ダリオの三人だった。


「カズマ」


 総督の声が低くなった。ここからが、本当の話だ。


「駐留軍を全軍送り出した後、この街に残るのは衛兵隊の二百人だけだ。王都からの援軍が届くまで、最短でも五日はかかる。その五日間、アスファは衛兵隊だけで守らなければならん」


「二百人、ですか」


「衛兵隊は精鋭だ。城壁の警備と総督府の守りに絞れば、二百でも機能する。だが、敵が核の奪取を仕掛けてくるなら、二百では不安が残る」


「敵の奪取部隊の規模次第です。少数の隠密部隊なら、衛兵隊だけで対処できる。だが、ある程度の規模の戦闘部隊が潜入してきた場合は――」


「レントの情報網で、公国から別の部隊がアスファに向かっていないかを確認する必要がある」


「すでに依頼してあります。東方の街道沿いに、レントの知り合いが何人もいる。不審な集団の移動があれば、報告が入るはずです」


「武田殿の結界は」


「健在です。核のある区画に物理的に到達することは、結界が破られない限り不可能です。結界を開くには三つの鍵のうち二つが必要です。一つが奪われただけでは開かない」


「鍵の管理を改めて確認しておく。私の鍵は国境に持っていく。戦場で失うわけにはいかんが、アスファに置いていくわけにもいかん。万が一私の鍵が敵に渡っても、もう一つがなければ結界は開かん。タケダ殿の鍵も問題ないだろう。お前の鍵は」


 俺は懐の石に手を触れた。蒼い脈動を感じる。


「常に身につけています」


「よし。十日後の夜、偽の移設先である南門の地下倉庫に罠を張る件は、予定通り進めるか」


「進めます。陽動だと分かっていても、国境に全軍を送らざるを得ない。公国はそれを見越している。ならば、こちらも予定通り動く。敵が核の奪取部隊を送り込んできたら、地下倉庫で待ち構えて捕らえる。奪取部隊を確保すれば、公国に対する決定的な証拠になる」


「国境の軍と、核の奪取部隊。二正面の対処か」


「はい。だが、どちらが本命かは分かっている。国境は閣下が守る。本命はこちらです。アスファの中で決着をつけます」


 総督は机に両手をつき、地図を見下ろした。


「カズマ、私が出陣した後のアスファの防衛指揮はお前に任せる。王都からの援軍が届くまでの間、この街の守りだ」


「俺に、ですか」


「衛兵隊の指揮はグスタフが執る。ダリオには間諜の監視と、南門の地下倉庫での罠の指揮を任せる。だが、全体の戦術判断は、お前のほうが適任だ。間諜網の把握も、毒餌の作戦も、すべてお前が起点になっている。この局面を最も正確に理解しているのは、お前だ」


 重い任務だった。だが、断る理由はなかった。


「お引き受けします」


「頼んだ」


 総督は窓の外を見た。朝の光がアスファの街並みを照らしていた。いつもと変わらない、穏やかな朝だった。


 だが、東の空の下では、敵の軍勢が国境に迫っている。


 そしてこの街の中には、核を狙う間諜たちが息を潜めている。


 外と内。二つの脅威に同時に対処する。


 俺は執務室を出て、客間に戻った。壁の刀と槍を見た。


 十日後。すべてが動く。


 それまでに、やるべきことがまだある。


 レントへの連絡。衛兵隊の配置計画。地下倉庫の罠の準備。間諜網の最終監視。


 俺は机に向かい、紙を広げた。


 書くべきことが、山のようにあった。

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