21. 間諜
イルマの監視を始めてから十日が経った。
その間に、イルマは商人風の男と二度接触した。いずれも中央市場の雑踏の中で、すれ違いざまに小さな紙片を渡すという手口だった。手慣れた動きだった。訓練を受けた人間の所作だ。
商人風の男の素性は、レントの情報網が突き止めた。
「名はフェリクス。ダルムスト公国の辺境の町で交易商を営んでいる。だが、商売の実態が薄い。取引先も在庫もほとんどない。看板だけの商人だ」
レントには、ダルムスト公国の間者の疑いがある人物を追跡していると伝えてある。核の件は伏せたままだ。
「フェリクスは月に一度、アスファに来ている。宿は毎回、南門近くの『灰色の角亭』だ。滞在は二、三日。市場をぶらついて、誰かと会って、帰る。商売をしている様子はまったくない」
「連絡役だな。イルマから情報を受け取り、公国に持ち帰る」
「ああ。だが、気になることがある。フェリクスは市場でイルマ以外にも接触している人間がいた」
俺の目が鋭くなった。
「誰だ」
「二人確認した。一人は総督府に出入りしている人間だ。もう一人は分からなかった。顔は見えたが、名前までは追えていない」
「総督府に出入りしている人間の特徴は」
「若い男。二十代半ば。衛兵の制服を着ていた」
衛兵。総督府内部の人間だ。
俺はダリオを呼んだ。
* * *
ダリオに衛兵の特徴を伝えると、ダリオの顔が曇った。
「二十代半ば、中肉中背、右頬にうっすらと傷跡がある、とレントは言っていたな」
「心当たりがあるか」
「……ある。第三小隊のユーリ・ベルンだ。二年前に入隊した。真面目な若者だという評判だったが」
第三小隊。核の存在を知る五人には含まれていない。つまり、ユーリ自身が核の情報を直接持っているわけではない。だが、フェリクスとの接触がある以上、何らかの形で公国の間諜網に組み込まれている可能性がある。
「ユーリの身辺を洗えるか」
「やる。だが、慎重にだ。衛兵隊の内部に疑いの目が向けられていると気づかれれば、連中は一斉に地下に潜る」
ダリオは翌日から、目立たない形でユーリの行動を調べ始めた。
三日後、ダリオの調査で新たな事実が浮かび上がった。
「ユーリは半年前から、総督府と取引のある商人を一人紹介している。名はヴィクトール・ハーゲン。食料品の納入業者だ」
「衛兵が商人を紹介する。それ自体は不自然か」
「普通なら不自然ではない。総督府の食料調達は、主に調達係の文官が担当している。だが、以前の納入業者が廃業した際に、ユーリが『知り合いに良い業者がいる』と調達係に持ちかけた。調達係は人手が足りず、ユーリの紹介を受け入れた」
「そのヴィクトール・ハーゲンの素性は」
「アスファの商人として登録されている。だが、商売を始めたのは一年前だ。それ以前の経歴が曖昧だ。出身地は北方の町と申告しているが、裏が取れていない」
一年前に突然現れた商人。衛兵隊員の紹介で総督府に出入りするようになった。
「ヴィクトールは総督府のどこまで入れる」
「食料の納入だから、厨房と倉庫までだ。執務室や地下には立ち入れない。だが、総督府の中を歩き回る口実がある。納品の確認、代金の受け取り、調達係との打ち合わせ。週に二、三度は来ている」
「総督府の内部構造を把握する機会は十分にあるわけだ」
「ああ。廊下の配置、部屋の数、地下への階段の場所。納品のついでに観察すれば、かなりの情報を集められる」
構図が広がってきた。
イルマが核の存在という最上位の機密を漏洩し、フェリクスが公国との連絡役を務め、ユーリが総督府内部の目として機能し、ヴィクトールが総督府に出入りする口実を確保している。
単独の間者ではない。網だ。複数の人間が役割を分担し、互いに直接の接点を最小限にしながら情報を集めている。
さらに調査を進める中で、もう一人、気になる人物が浮上した。
総督府の文官、ディーター・クラウスだ。
ディーターは三十代の調達係で、ヴィクトールとの取引を直接担当している人物だった。調査の対象にしたきっかけは、ダリオではなく俺の観察だった。
総督府の廊下で何度かすれ違ううちに、この男の身なりが変わっていることに気づいた。
最初に見たときは地味な文官服を着ていたが、最近は仕立ての良い上着を着るようになっていた。指には新しい銀の指輪。靴も上等なものに変わっている。文官の給金では手が出ない品々だ。
ダリオに確認を取った。
「ディーター・クラウス。調達係の中堅文官だ。仕事は真面目だが、最近は女遊びが目立つようになっている。中央市場裏手の歓楽街に頻繁に出入りしているという話を、他の文官から聞いた」
「歓楽街か。金遣いが荒くなっているのか」
「そうらしい。以前は質素な暮らしぶりだったのに、ここ数ヶ月で急に羽振りが良くなった。服も、靴も、女遊びも。だが、ディーターの家は裕福ではない。給金以外に収入があるとすれば――」
「ヴィクトールからの金だ」
買収。最も古典的な手法だ。だが、効果的でもある。
「ディーターが買収されているとすれば、何の見返りだ」
「調達係として総督府に出入りするヴィクトールの便宜を図っている可能性がある。納品の時間帯をずらす、立ち入り範囲を緩める、総督府内部の情報を渡す。調達係の立場なら、さまざまなことができる」
「ディーターは核のことを知っているか」
「知らない。核の存在を知る人間は限られている。だが、総督府の内部構造――地下への出入り口の場所や、警備の交代時間、閣下の日程など――は、文官として把握している可能性が高い」
核そのものの情報はイルマから。総督府内部の構造情報はディーターとヴィクトールから。そして、衛兵隊内部の情報はユーリから。
三つの経路が、フェリクスという連絡役を通じてダルムスト公国に流れている。
俺は総督に報告した。
総督は報告を聞き終えると、しばらく無言で地図を見つめていた。
「五人か。イルマ、フェリクス、ユーリ、ヴィクトール、ディーター。一つの間諜網が、この街の中に根を張っている」
「はい。ただし、全容が見えたとは限りません。まだ把握できていない協力者がいる可能性もあります」
「捕まえるか」
「いいえ。まだ泳がせます」
総督が眉を上げた。
「理由を聞こう」
「三つあります。まず、今捕まえれば、把握できていない協力者が地下に潜ります。網の端だけを切っても、根が残れば再び伸びてくる」
「ふたつ目は」
「彼らを通じて、こちらから偽の情報を流すことができます。敵に誤った判断をさせるための道具として、間諜網をそのまま利用できます」
総督の目が光った。
「敵の情報経路を、逆に利用するということか」
「そうです。イルマにはナーゲルを通じて偽情報を流し続けることができる。ディーターには、調達係の業務を通じて総督府の偽の動きを見せることができる。敵は自分たちの情報源を信頼しているからこそ、偽情報を疑わない」
「みっつ目は」
「フェリクスの動きを追い続ければ、最終的に公国側の受け取り手に辿り着きます。辺境軍司令官ブレンダ・ダルムストとの直接の連絡経路が判明すれば、外交上の切り札になります。公国に対して、『お前たちの間諜網はすべて把握している』と突きつけることができる」
総督は腕を組み、しばらく考え込んだ。
「リスクはあるな。泳がせている間に、核への実際の攻撃が始まる可能性もある」
「そのリスクは、武田さんの結界で軽減できます。核のある区画に追加の結界が張られた今、物理的に核に到達することは極めて困難です。間諜が情報を集めても、実行段階で結界に阻まれる」
「武田殿の結界を信じるということか」
「はい。あの結界を破れる人間は、この世界にはいないと武田さんは言っていました。俺もそう思います」
総督は長い息を吐いた。
「分かった。泳がせる。ただし、条件がある」
「はい」
「五人全員の行動を常時監視しろ。一人でも不審な動きを見せた場合、即座に確保できる態勢を整えておけ。泳がせるのは情報を集めるためであって、リスクを放置するためではない」
「了解しました。ダリオ、ユーリとヴィクトールの監視はお前の管轄だ。信頼できる人間だけを使え」
ダリオが頷いた。
「ユーリについては、第三小隊長を通さずに直接監視をつけます。小隊長に伝えれば、隊内に広まる可能性があります」
「ディーターは」
「俺が見る。調達係の業務は総督府の日常に溶け込んでいる。外部の人間より、総督府の中にいる俺のほうが自然に観察できる」
「フェリクスの次回のアスファ入りは」
「レントの情報では、月に一度のペースだ。次は十日後あたりになるだろう」
「その時に、偽情報がどう動くかを確認する。フェリクスがどの情報を持ち帰るかで、間諜網の中での優先順位も見えてくる」
報告を終えて執務室を出た後、俺はダリオと廊下を歩きながら話した。
「ダリオ、ユーリについてもう少し調べたいことがある」
「何でしょうか」
「ユーリが衛兵隊に入隊した経緯だ。二年前に入隊したと言ったな。誰の推薦で入った」
ダリオの足が一瞬止まった。
「……確認します。入隊記録に推薦者の名前が残っているはずです」
「もしその推薦者が、ヴィクトールやフェリクスと繋がりのある人物なら、間諜網の構築はユーリの入隊前から計画されていたことになる」
「二年以上前から、ですか。それほど長期的な工作を……」
「ダルムスト公国は本気だということだ。思いつきの偵察ではない。年単位で準備を進めてきた。丘陵の偵察部隊は、その計画の一部に過ぎない」
ダリオの表情が引き締まった。
「カズマ。正直に言います。俺は自分の隊の中に間者がいることが、堪えています」
「当然だ」
「だが、それ以上に堪えるのは、それに気づけなかったことです。副隊長として、隊員の動向を把握するのは俺の仕事だ。それを二年間も見逃していた」
「お前を責めるつもりはない。相手は年単位で仕込んできた。簡単に見破れるような工作なら、そもそもここまでの脅威にはなっていない」
ダリオは無言で頷いた。
「やれることをやるしかない。今、見えているものを一つずつ潰していく」
「ああ。一つずつだ」
客間に戻り、俺は椅子に座って考えを整理した。
見えてきた間諜網の全体像を、頭の中で図にする。
ナーゲルの妻イルマ。核の情報の漏洩元。本人は間者としての訓練を受けた人間だろう。
連絡役フェリクス。月に一度のアスファ入りで情報を回収し、公国に持ち帰る。
衛兵ユーリ。総督府内部の目。衛兵隊の情報を収集する。
商人ヴィクトール。ユーリの紹介で総督府に出入りし、内部構造を把握する。
文官ディーター。買収された調達係。ヴィクトールの活動を円滑にする潤滑油。
五つの点が、フェリクスを軸にして繋がっている。
だが、まだ見えていないものがある。
フェリクスの先。公国側の受け取り手。辺境軍司令官ブレンダ・ダルムストとの間に、もう何人かの中間者がいるはずだ。
そして、最大の疑問。
敵はいつ動くのか。
情報を集めるだけなら、この間諜網はまだしばらく機能し続けるだろう。だが、いずれ実行に移す瞬間が来る。核を奪いに来る瞬間が。
その瞬間を、待ち構えて迎え撃つ。
それが、今の俺たちにできる最善の策だった。




