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 19. 結界

 武田嗣久がアスファに来たのは、毒餌の作戦が始まる前夜だった。


 深夜の第十一刻。街の灯りがほとんど消え、通りには野良猫の影さえまばらな時刻だ。


 俺は南門で待っていた。ダリオが信頼する衛兵二人を連れている。二人とも理由は知らされていない。「総督府への来客を護衛せよ。詳細は聞くな」とだけ伝えられている。


 門を通る手はずは、総督が直接門番に命じていた。この時刻に南門を開けること自体が異例だが、総督の命令であれば門番は従う。


 街道の闇の中から、人影が現れた。


 白い麻の衣服。やや小柄な体格。夜目でも、その人物が誰かは分かった。


「武田さん」


「佐田か。迎えに来てくれたのか」


「ここから総督府までは俺たちが案内します」


 武田嗣久は俺の背後の衛兵二人を一瞥し、小さく頷いた。


「目立たんようにしてくれ」


「もちろんです」


 俺たちは裏通りを選んで総督府に向かった。大通りは避ける。深夜とはいえ、万が一にも目撃者があってはならない。


 武田嗣久の足取りは軽かった。三百年を生きた身体は、夜の暗がりでも迷いなく歩く。だが、周囲への警戒を怠ってはいなかった。視線が絶えず左右に動いている。


「この街に来るのは久しぶりですか」


「五年ぶりだ。前回は総督殿に呼ばれて来た。核の定期点検のためだった」


「五年に一度の点検?」


「核と地脈の接続状態を確認する。わしにしかできん作業だ。だが、今回は点検ではない。追加の結界を張りに来た。こんな形で来ることになるとは思わなんだが」


 武田嗣久の声に、わずかな苦みがあった。百年以上かけて築いた防御システムが脅かされている。それは、自分の作品が攻撃されることと同義だろう。




 総督府の裏口で、総督が待っていた。


 この時刻に総督自ら裏口に立っているというのは、事の重大さを物語っている。


「タケダ殿。ご足労いただき、感謝する」


 総督が深く頭を下げた。大柄な身体が折れるように下がる。政治家としての礼儀ではなく、切実な感謝だった。


「頭を上げてください、総督殿。わしがやるべきことをやりに来ただけだ」


 武田嗣久の声は穏やかだった。だが、その目は穏やかではなかった。武人の目だ。これから戦いに赴く者の目だった。


「案内を頼む」


 総督が先導し、俺と武田嗣久が続いた。ダリオと衛兵二人は裏口の警備に残った。


 総督府の内部は、深夜でも松明が灯されていた。だが、この時間に人通りはない。廊下を歩く三人の足音だけが石壁に反響した。


 総督は一階の奥にある目立たない扉の前で立ち止まった。


「ここが地下への入り口だ」


 扉は重い鉄製で、鍵がかかっていた。総督が懐から鍵を取り出し、開錠した。この鍵を持っているのは総督だけだと、後で聞いた。


 扉の向こうに、下りの石段があった。


 松明を手に、三人で降りていく。石段は狭く、急だった。壁は粗い石積みで、地上の総督府の洗練された内装とはまるで異なる。この地下区画は、総督府が建てられるよりもさらに古い時代のものだろう。


 石段を百段近く降りた。地上から相当な深さだ。


 石段が終わると、短い通路に出た。通路の突き当たりは、ただの石壁だった。


 行き止まりか。


 だが、総督は迷わず壁の前に進み、壁面の石のひとつに手を置いた。一見すると周囲の石と何の違いもないが、総督はそれを押し込み、次に右へ半回転させた。


 低い振動が足元から伝わった。


 石壁の中央に、細い亀裂が走った。亀裂は上下に伸び、やがて人一人が通れるだけの隙間が開いた。壁そのものが左右にずれたのだ。厚さは三十センチ以上あった。石壁ではなく、石壁に偽装された扉だった。


「この先に鉄扉を入れたとき、それだけでは不安だった。タケダ殿の助言で、この隠し扉を造らせた。仕掛けの位置を知っている人間は、私とタケダ殿だけだ」


 武田嗣久が補足した。


「仕掛けは単純だが、知らなければ見つけようがない。壁を壊そうとしても、この石材は理力で硬化してあるから、通常の工具では歯が立たん」


 隠し扉の向こうに、もう一つの短い通路があった。その先に、広い空間が口を開けていた。


 天井の高い、円形の部屋だった。直径は二十メートルほど。壁面には文字とも模様ともつかない線刻が施されていた。床は平らな石で、中央に向かって緩やかに傾斜している。


 そして、部屋の中央に、それはあった。




 理力の核。


 直径およそ一メートルの球体が、石の台座の上に鎮座していた。


 素材は、見たことのないものだった。石でもなく、金属でもない。乳白色の、半透明の物質。表面はなめらかで、内部にかすかな光の脈動が見えた。


 俺は理力の感覚を開いた。


 圧倒された。


 核から放たれる理力の密度は、俺が今まで感じたどんなものとも比較にならなかった。武田嗣久の結界も、ナターシャの理力も、俺自身の蒼い理力も、この核の前ではさざ波のようなものだった。


 だが、それだけではなかった。


 核の下から、さらに深い場所から、理力の奔流が湧き上がっていた。地脈だ。大地の深くを流れる理力の大河が、この場所で交差し、核に流れ込んでいる。核はそれを受け止め、増幅し、上方へ――城壁へと送り出していた。


「これが……」


 言葉が出なかった。


「これが理力の核だ」


 総督が静かに言った。


「わしが来たときは、ただの光る石だった」


 武田嗣久が核に近づきながら言った。


「この国の人間たちは、これを神聖な遺物として崇めていた。だが、誰も使い方を知らなかった。百年以上かけて研究し、地脈との接続方法を見つけ、城壁に理力を流す仕組みを作った」


 武田嗣久は核の周囲をゆっくりと歩いた。理力の感覚で、核と地脈の接続状態を確認しているのだろう。


「接続は正常だ。核の状態も良い。劣化の兆候はない」


「結界は、どのように張るのですか」


 俺が尋ねた。


「見ていれば分かる。口で説明するより、見せたほうが早い」


 武田嗣久は核の正面に立った。両手を体の前で組み、目を閉じた。


 深い呼吸が聞こえた。一度、二度、三度。


 そして、武田嗣久の全身から白い理力が立ち昇った。


 湖畔での仕合のときに見た白い理力と同じだったが、密度が桁違いだった。あのときは剣技に乗せるための理力だった。今は、結界を構築するための理力だ。


 白い光が武田嗣久の身体を包み、そこから糸のように伸び始めた。


 一本、二本、十本、百本。無数の理力の糸が、武田嗣久の身体から放射状に伸びていった。


 糸は壁に到達し、天井に到達し、床に到達した。そして、それぞれの到達点から別の糸が分岐し、隣の糸と繋がり、網目を形成していった。


 俺は息を呑んで見つめていた。


 これは、芸術だった。


 理力の使い方として、俺が知るどんな技法とも次元が違う。ナターシャの教えは基礎だった。ジリの理力の使い方は実戦的だった。だが、武田嗣久のこれは、建築であり、工芸であり、そして芸術だった。


 一本一本の理力の糸が、正確な間隔で配置されていく。糸と糸の結節点には、小さな理力の結び目が作られた。結び目は単なる接点ではなく、それぞれが独立した小さな理力の渦を持っていた。


 結界が破られたとき、この結び目が警報を発するのだろう。そして、破損した部分を他の糸が補完し、結界全体の強度を維持する。冗長性を持った設計。


「佐田」


 武田嗣久が目を閉じたまま声をかけた。


「はい」


「おまえさんの蒼い理力を、少し貸してくれ」


「俺の理力を?」


「わしの白い理力だけでは、この部屋全体を覆うのに時間がかかる。おまえさんの蒼い理力を混ぜれば、結界の強度が上がる。異なる色の理力を編み合わせると、単色よりも強い結界になるのだ」


 俺は武田嗣久の隣に立った。


「どうすればいい」


「掌を開いて、理力を放出しろ。量の制御はわしがやる。おまえさんはただ、流れに任せてくれればいい」


 俺は両手を開き、蒼い理力を放出した。


 蒼い光が掌から溢れ、武田嗣久の白い理力の糸に触れた。


 触れた瞬間、二つの理力が絡み合った。白と蒼が螺旋を描くように撚り合わさり、元のどちらよりも強い、薄紫がかった光の糸になった。


「いい色だ」


 武田嗣久が呟いた。


 薄紫の糸が、白い結界の網目に組み込まれていった。結界全体の光が変わった。白一色だった網目に、薄紫の筋が走り、まだらの模様を描いた。


 美しかった。


 総督は壁際に立ち、無言で見つめていた。政治家でも軍人でもない、一人の人間として、目の前の光景に圧倒されている様子だった。


 作業は一刻近く続いた。


 武田嗣久の額に汗が浮かんでいた。三百年の理力を持つこの男でも、これだけの結界を張るのは容易ではないのだ。


 俺も理力の消耗を感じていた。だが、武田嗣久が制御してくれているおかげで、消耗は最小限に抑えられていた。


 最後の一本の糸が壁に到達し、最後の結び目が完成した。


 武田嗣久が両手を下ろした。白い光が収まっていく。


 部屋全体が、薄紫と白の入り混じった理力の網で覆われていた。天井も、壁も、床も。核を中心にした完璧な球状の結界が、この空間を包み込んでいた。


「終わりだ」


 武田嗣久の声は疲弊していたが、満足げだった。


「この結界は、わしの湖畔の結界と同等以上の強度がある。蒼い理力が加わったおかげで、予想より強いものができた。佐田、感謝する」


「俺は理力を流しただけです」


「それが大事なんだ。流れを乱さず、わしの制御に身を任せてくれた。信頼がなければできんことだ」


 俺は武田嗣久を見た。汗に濡れた顔は、穏やかな笑みを浮かべていた。三百年の重みを一瞬だけ忘れたような、純粋な職人の笑みだった。


「タケダ殿」


 総督が歩み寄った。


「見事でした。この結界は、どの程度の攻撃に耐えられるのですか」


「この世界の理力使いが束になってかかっても、破れん。物理的な攻撃はなおさらだ。この結界を破るには、わしと同等以上の理力を持ち、なおかつ結界の構造を完全に理解した人間が必要だ。そんな人間は、この世界にはおらん」


 総督は深く頷いた。


「ただし」


 武田嗣久の声が低くなった。


「結界は万能ではない。結界の外からは核に手が出せなくなったが、結界を開くには鍵が要る。安全のために、鍵は三つに分けて作る。結界を開くには、三つのうち二つの鍵が揃わなければならん。一つだけでは開かない」


「二つ必要、ですか」


「ああ。一つの鍵が奪われても、もう一つがなければ結界は開かん。三人のうち二人が同時に裏切らない限り、結界は破られない。保険だ」


「鍵は」


「この結界の鍵は三つ作る。一つは総督殿に。一つはわしが持つ。そして一つは――」


 武田嗣久が俺を見た。


「佐田に預ける。おまえさんの蒼い理力が混じった結界だ。おまえさんの理力に反応する鍵でなければ、完全には機能しない」


 武田嗣久は懐から三つの小さな石を取り出した。結界の鍵と呼ぶにはあまりに地味な、親指ほどの白い石だった。だが、俺の理力の感覚は、その中に封じ込められた精緻な構造を捉えていた。


 一つを総督に、一つを自分の懐に戻し、一つを俺に差し出した。


 俺が受け取ると、石が蒼く脈動した。以前、結界の森に入るために使った鍵と同じ反応だ。


「この三人以外には、絶対に渡すな。二つの鍵が敵の手に渡れば、結界は開かれる」


「分かりました」


 総督も鍵を握り、深く頷いた。




 地下から地上に戻ったのは、日の出の直前だった。


 東の空が薄く白み始めていた。


 武田嗣久は、来たときと同じように裏口から出て、裏通りを通って南門へ向かった。俺が護衛として付き添った。


 南門の手前で、武田嗣久が足を止めた。


「佐田」


「はい」


「今夜、おまえさんの蒼い理力が結界に混じるのを見て、思ったことがある」


「何ですか」


「おまえさんがこの世界に来たのは、やはり偶然ではないのかもしれん」


 俺は黙って聞いた。


「三百年間、わしは一人で核を守ってきた。だが、一人では限界がある。わしがいなくなったら、核を管理できる人間がいなくなる。それがずっと心配だった」


 武田嗣久の目が、夜明けの空を映していた。


「おまえさんの蒼い理力は、わしの白い理力と共鳴する。今夜、それが証明された。おまえさんには、核の管理を引き継ぐ素質がある」


「引き継ぐ、ですか」


「今すぐの話ではない。だが、いずれそのときが来るかもしれん。わしとて不死ではないからな」


 三百年を生きた男が、自分の死後を語っている。


 俺は何も答えられなかった。


「まあ、今はこの街を守ることに集中しろ。先のことは、先で考えればよい」


 武田嗣久は穏やかに笑い、南門をくぐった。


 街道の先に、フェルゲンの森がある。その奥に、結界に守られた湖がある。三百年の孤独と共に。


 俺は武田嗣久の背中を見送り、総督府に戻った。


 懐の中で、結界の鍵が蒼く脈動していた。


 守るべきものが、またひとつ増えた。


 だが、それは重荷ではなかった。


 信頼されている、という実感があった。三百年を生きた先達から、この国を守ってきた総督から。


 その信頼に応えるだけだ。


 東の空が赤く染まり始めていた。新しい一日が、始まろうとしていた。

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