17. 秘密
翌朝、俺とダリオは南門からアスファを出た。
ダリオは衛兵副隊長の制服ではなく、目立たない旅装に着替えていた。総督府の人間が結界の森に向かうところを見られるのは好ましくない。
「結界の鍵は持っているか」
「ある」
俺は懐の乳白色の石を示した。ダリオは石を一瞥し、何も言わなかった。理力の核の件で動揺しているかと思ったが、この男は感情を表に出さない種類の軍人だった。
街道を南に一刻ほど歩き、フェルゲンの森に入った。
小道を進む途中、ダリオが口を開いた。
「カズマ、俺はタケダ殿に会うのは初めてだ。どういう人物だ」
「穏やかな人だ。だが、剣を持てば三百年の重みがある。礼を失しなければ、問題はない」
「三百年、か。想像がつかんな」
ダリオは短く笑った。硬い笑みだったが、緊張をほぐそうとしているのだろう。
結界の前に立つと、石が蒼く脈動した。結界が開く。
ダリオは開いた穴を見て、わずかに目を見開いた。
「これが結界か。理力でこれほどのものを……」
「三百年の蓄積だ。中に入れ」
ダリオは俺に続いて結界をくぐった。
湖が姿を現した。ダリオは足を止め、息を呑んだ。
「……見事だな」
透き通った湖水。鏡のような水面。森に囲まれた静寂の中に、小さな家が佇んでいる。
家の前で、武田嗣久が待っていた。結界を通った時点で気配を察したのだろう。白い麻の衣服をまとい、穏やかな目で俺たちを見ていた。
「佐田か。それに、見慣れぬ顔がおるな」
「衛兵副隊長のダリオ・ヴェルトです。総督閣下の命で同行しました」
ダリオが背筋を正して名乗った。武田嗣久はダリオを上から下まで見つめ、小さく頷いた。
「衛兵隊の人間が来るとは、穏やかな用件ではなさそうだな。中に入りなさい」
家の中は、前回と同じく質素だった。卓を囲んで三人が座った。武田嗣久が水を出してくれた。
「佐田、何があった」
武田嗣久は前置きなしに本題を促した。穏やかではあるが、こちらの切迫した空気を正確に読み取っている。
俺は順を追って報告した。
東の丘陵でのダルムスト公国の偵察部隊との交戦。捕虜の確保。そして昨日の尋問で捕虜が語った内容――理力の核の奪取という目的。
武田嗣久は黙って聞いていた。表情に変化はなかったが、「理力の核」という言葉が出た瞬間、卓の上に置いた指先がわずかに動いた。俺はそれを見逃さなかった。
「さらに、俺はこの証言を額面通りに受け取るべきではないと考えています」
俺は昨日総督に進言した仮説を説明した。末端の兵が知りすぎていること。意図的に情報を与えられ、捕まった場合に喋らせることで、こちらの反応から核の位置を割り出そうとしている可能性。
武田嗣久は最後まで聞き終えてから、ゆっくりと口を開いた。
「佐田。おまえさんの分析は、半分は正しい」
「半分?」
「捕虜の証言を疑ったのは正しい。だが、疑い方の方向が少しずれておる」
武田嗣久は水の器を手に取り、一口飲んだ。そして器を卓に置き、俺とダリオを見た。
「これから話すことは、総督殿にも伝えていない。この世界でこの情報を持っている人間は、国王陛下とその側近の重臣数名、そしてわしを含む一部の落ち人だけだ」
ダリオの背筋がさらに伸びた。総督すら知らない情報。衛兵副隊長にとって、それは想定外の領域だった。
「理力の核は、この都市の地下に存在する。これは捕虜が言った通りだ。球体であることも、城壁に理力を供給していることも事実だ。だが、捕虜が知らなかったことがひとつある」
武田嗣久の目が、三百年の深さを湛えた。
「理力の核は、今ある場所から動かすと、その効果が著しく弱くなる」
俺は眉をひそめた。
「弱くなる、とは」
「核は、地脈と呼ぶべき理力の流れの結節点に位置しておる。大地の深くを流れる理力の大河が、いくつも交差する場所。核はその結節点に置かれることで、地脈の理力を吸い上げ、増幅し、城壁に送り出しておる。核そのものに蓄えられている理力は、実は全体のごく一部に過ぎん。核の力の大半は、地脈から供給されておるのだ」
「つまり、核を結節点から移動させると――」
「地脈との接続が切れる。核に蓄えられた理力だけが残るが、それは全盛期の一割にも満たない。ダルムスト公国に持ち帰ったところで、あちらの城壁を強化する力としては心許ないものにしかならん」
俺の頭の中で、捕虜の証言の意味が再構成されていった。
「捕虜は、核を奪えば公国の防御に転用できると言っていた。だが、実際にはそうはならない」
「その通りだ。核を奪うことでアスファの防御を崩すことはできる。地脈との接続が切れれば、城壁への理力供給は止まる。だが、奪った核を公国で活用するという目論見は成り立たん。公国の地下に同等の地脈の結節点があるかどうかも分からんし、仮にあったとしても、核と結節点の接続には高度な理力の技術と膨大な時間がかかる」
「その接続技術を持っているのは」
「わしだけだ。わしが百年以上かけて研究し、構築した仕組みだからな」
武田嗣久は淡々と言った。だが、その言葉の裏にある自負は静かに伝わってきた。
「武田殿」
ダリオが初めて口を開いた。声は抑えられていたが、軍人としての緊張が滲んでいた。
「この情報は、総督閣下もご存じないのですか。核が移動すると効果が弱まるということを」
「知らせておらん。総督殿に伝えてあるのは、核の存在と、それが城壁を強化しているという事実だけだ。地脈との関係や、移動による効果の低減については、国王陛下の判断で、知る必要のある者にだけ伝えられておる」
「なぜ、総督にまで伝えないのですか」
「国王陛下の考えだ。知る人間が多ければ多いほど、漏洩の危険は増す。総督殿には核を守る義務があるが、核の仕組みのすべてを知る必要はない。守るべきものがそこにあると知っていれば、それで十分だと」
情報の区分管理。軍でも情報機関でも使われる手法だ。知る必要のある者にだけ、必要な範囲の情報を与える。
「ここで重要なことがある」
武田嗣久が声を低くした。
「捕虜の証言では、敵は核を奪って公国の防御に転用すると言っておった。だが、核を移動させれば効果が著しく弱まるという事実を、敵が知っているなら、転用などという目論見は最初から成り立たんことが分かるはずだ」
「つまり、敵はこの事実を知らない」
「おそらくな。敵が知っているのは、核の存在と、それが城壁を強化しているという情報だけだ。地脈との関係や、移動による効果の低減は知らない。知っていれば、奪取ではなく破壊を選ぶはずだ」
俺は考え込んだ。
「敵が持っている情報の範囲が限定されている。核の存在と機能は知っているが、地脈との関係は知らない。この情報の範囲は――」
「総督殿が知っている範囲と、ほぼ一致する」
武田嗣久が静かに言い切った。
その言葉の意味を、俺は一瞬で理解した。ダリオも同じだった。顔色が変わった。
「情報の漏洩元は、国王周辺や落ち人ではない。国王周辺が漏らしたのであれば、地脈の情報も一緒に漏れるはずだ。落ち人が漏らした場合も同じだ。だが、敵は地脈のことを知らない」
「ということは――」
「総督殿の周辺だ。核の存在と基本的な機能だけを知っている人間。つまり、総督殿から直接、あるいは間接的にその情報を得た人物から漏れた可能性が最も高い」
ダリオの拳が、膝の上で握りしめられた。
「衛兵隊の最上層……。閣下が核のことを伝えている人間は、俺を含めて五人しかいない」
「その五人の中に、あるいは五人から情報を聞き出した何者かの中に、漏洩元がいる」
武田嗣久は卓の上に視線を落とした。
「佐田。おまえさんが言った、捕虜にわざと情報を持たせたという仮説だが、わしはこう考える」
「はい」
「捕虜が知っていた情報は、敵が実際に持っている情報そのものだ。つまり、誰かから漏れた情報がそのまま末端の兵にまで降りてきた。わざと持たせたのではなく、敵の側でも情報管理が甘いのだろう。百年前に独立したばかりの小国だ。本格的な諜報活動の経験が浅い。機密の扱いに慣れていない」
「では、捕虜の証言は――」
「おおむね真実だろう。敵は本気で核を奪おうとしている。ただし、核を奪っても彼らの思い通りにはならない。そのことを、敵自身が知らないだけだ」
沈黙が落ちた。
湖の水面が、窓から差し込む光を受けて静かに揺れていた。
「武田さん、もうひとつ伺いたいことがあります」
俺は姿勢を正した。
「核を守るために、何をすべきですか」
武田嗣久は少し考えた。
「三つある。まず、漏洩元を特定すること。これは総督殿の仕事だ。衛兵隊の内部調査になる。ダリオ殿、あんたの役目だろう」
ダリオが重い表情で頷いた。
「次に、核の物理的な防御を強化すること。ただし、おまえさんが言った通り、あからさまな動きは避けなければならん。核のある場所への経路を限定し、通過する人間を絞る。これも目立たない形でやる必要がある」
「三つ目は」
「わしが結界を強化する。核がある区画に、追加の結界を張る。わしの結界は、この世界の誰にも破れん。少なくとも、わしが生きている限りは」
三百年の理力が築いた結界。武田嗣久の結界の精緻さは、俺自身が体験している。あの結界を破れる人間は、確かにこの世界には存在しないだろう。
「ただし」
武田嗣久の声に、わずかな翳りが差した。
「結界を張るには、わしが核のある場所に直接行く必要がある。近年、わしはこの湖から出ることを極力避けてきた。落ち人を狙う者への警戒もあるが、それ以上に、わしが表に出れば核の存在に注目が集まる可能性がある」
「しかし、今は非常時です」
「分かっておる」
武田嗣久は窓の外の湖を見た。三百年を過ごした湖。
「総督殿と話をさせてくれ。わしが直接行く。夜間に、人目を避けて」
「閣下に伝えます」
ダリオが即答した。
「それと、佐田」
「はい」
「今日聞いたことのうち、地脈の話と、核の移動で効果が弱まるという話は、総督殿にも伝えてよい。もはや隠しておく段階ではない。ただし、総督殿とこの場の三人以外には、絶対に漏らすな」
「分かりました」
「もうひとつ。漏洩元の特定は慎重にやれ。疑われていることに気づかれれば、証拠を消される。あるいは、最悪の場合、敵と連絡を取って事態を加速させる可能性がある」
武田嗣久の忠告は、情報戦の基本を押さえていた。三百年の間に、こういった暗闘も経験してきたのだろう。
「武田さん、ありがとうございました」
俺は頭を下げた。ダリオも深く礼をした。
「礼は要らん。この国を守ることは、わしの仕事でもある。三百年、この地に世話になっておる。その恩は返さねばならん」
武田嗣久は穏やかに笑った。だが、その目の奥には、三百年を生きた者だけが持ち得る覚悟が静かに燃えていた。
結界を出て森を歩きながら、ダリオが重い口を開いた。
「カズマ。俺は衛兵隊の副隊長だ。核のことを知っている五人のうちの一人だ」
「ああ」
「つまり、俺自身が疑いの対象になり得る」
「そうだな」
俺は正直に答えた。
ダリオは足を止めず、前を向いたまま言った。
「俺が潔白であることを証明する方法はない。だが、ひとつだけ言っておく。俺はこの街で生まれ、この街で育ち、この街の衛兵になった。この街を裏切る理由はない」
「信じている。だが、他の四人についても同じことが言えるかは分からない」
「……ああ。分からん」
ダリオの声に、苦いものが混じった。仲間を疑わなければならない。軍人にとって、それは最も辛い任務のひとつだ。
「ダリオ、ひとつ提案がある」
「何だ」
「五人のうち、お前以外の四人に、それぞれ少しずつ異なる偽の情報を流せ。核の警備に関する架空の変更点を、一人ひとり別の内容で伝える。もし敵がその情報に反応すれば、誰が漏洩元か特定できる」
ダリオが足を止めた。俺を見る目に、驚きと感嘆が混じっていた。
「……なるほど。毒餌か」
「元の世界の部隊では、よく使った手だ」
「お前の部隊は、とんでもない仕事をしていたんだな」
「お互い様だ。衛兵隊の内部調査も、楽な仕事じゃない」
ダリオは初めて、少しだけ笑った。苦い笑みだったが、覚悟を決めた人間の顔だった。
「やってみる。閣下にも進言する」
二人は街道に出て、アスファに向かって歩いた。
午後の日差しが城壁を照らしていた。灰色の石が、陽光を受けて白く輝いている。
あの城壁の強度は、理力の核が地脈から汲み上げる力に支えられている。そして、その仕組みを作り上げたのは、三百年前にこの世界に落ちてきた一人の日本人だ。
守るべきものが、また増えた。
だが、守り方が見え始めてもいた。




